5話 影を落とす家  エピソード1「廃墟の囁き」

「ミカ、また冷蔵庫のアイス全部食べたのか?」


土田有樹はため息をつきながら冷蔵庫を閉めた。リビングでは白っぽい髪の少年——いや、少年とも少女とも言い難い美しい存在——が無表情でテレビを見ていた。


「……必要なエネルギー」


「お前のエネルギー源、甘いものばっかりだな」


有樹はソファに腰掛け、スマホを取り出した。土曜の朝、特にやることもない。いつものように「ショートワークス」アプリを開く。


「またバイトか?」ミカが振り向きもせずに尋ねた。


「暇つぶしだよ。仕事しないと俺、考え事しすぎちゃってさ」


FIREをしてからの生活は、思ったより退屈だった。会社経営の激務から解放されたのはいいが、時間を持て余すと過去の記憶が蘇ってくる。特に、かつての共同経営者でもあった恋人の裏切り。


スマホの画面をスクロールすると、気になる求人が目に入った。


『不動産再開発会社にて、廃ビルの写真撮影・状態確認スタッフ募集。専門知識不要。単発1日のみ。時給1500円』


「これくらい簡単そうだな」有樹は呟いた。「写真撮って、建物の状態をチェックするだけか」


「……行くのか?」


「ああ。お前も来るか?」


ミカは黙って頷いた。彼がやってきてから一ヶ月。記憶を失くした「天使」と名乗るこの存在を拾った夜から、不思議な共同生活が始まっていた。


---


「では、このタブレットに各部屋の様子を記録してください。何か異常があれば写真とメモを残してください」


不動産会社の担当者・菊地は説明しながら、古びたビルの鍵を渡した。


「このビルは来月取り壊しになるんですが、最終確認が必要で。でも社員は忙しくて…」


「わかりました」有樹は簡潔に答えた。「全部屋見て回ればいいんですね」


「そうです。あと…」菊地は少し言いにくそうに続けた。「このビル、噂があって…」


「噂?」


「まあ、地元の言い伝えみたいなものです。気にしないでください」


菊地は早々に去り、ビルの前には有樹とミカだけが残された。5階建ての古いビル。窓ガラスの一部は割れ、壁には落書きもある。


「行こうか」


ミカは無言で頷き、二人は建物に足を踏み入れた。


---


「1階の確認、終了」


有樹はタブレットに記録しながら、エレベーターのない建物の階段を上った。ミカは黙って彼の後をついてくる。


「このビル、なんか雰囲気悪いな」


壁のシミ、剥がれた壁紙、床に散らばるゴミ。かつての住人の痕跡は消えつつあるが、何かが残っているようにも感じる。


2階、3階と進むうちに、有樹は徐々に気になることに気づいた。ミカの様子がいつもと違う。普段は無表情か、せいぜい首を傾げる程度なのに、今日は明らかに落ち着かない。


「どうした?」


「……ここ、暗い」


それだけ言って、ミカは窓の外を見た。晴れた日なのに、ビル内は妙に薄暗い。


4階の廊下を歩いていると、有樹は部屋の一つから微かな物音を聞いた。


「ん?」


有樹は立ち止まり、音のする部屋に近づいた。ドアは半開きになっている。


「誰かいるのか?」


有樹がドアを開くと、すぐに隅の方で何かが動いた。物陰に隠れようとする小柄な人影。


「おい、誰だ?」


返事はない。有樹が一歩踏み込むと、ミカが彼の腕を掴んだ。


「……痛み」


それだけ言って、ミカは部屋の隅を指さした。そこには、壁と押入れの間に小さく丸まった少女の姿があった。


「出てきなさい。怖がることはないよ」


有樹は声のトーンを落とし、優しく呼びかけた。しばらくの沈黙の後、少女はゆっくりと姿を現した。


中学生くらいだろうか。痩せて、顔や腕には痣がある。服は汚れ、目は恐怖で見開かれていた。


「あなたは…ここで何をしているの?」


少女は答えず、おびえた目で有樹とミカを交互に見た。


「私たちは不動産会社から頼まれて、ビルの状態を確認しているだけだよ」有樹は説明した。「あなたを傷つけるつもりはない」


少女はまだ言葉を発しなかったが、わずかに緊張が解けたようだった。


「ねえ、ここで何をしてるの?」有樹は再び尋ねた。「家族はどこ?」


その言葉に少女の体が硬直した。彼女の目に恐怖が戻ってきた。


「家には…帰れない」


それが、少女の最初の言葉だった。


ミカは黙って少女に近づき、手を差し伸べた。少女は驚いて後ずさりしたが、ミカの静かな佇まいに少しずつ安心したようだった。


「この子…助けが必要」


ミカの言葉に、有樹は困惑の表情を浮かべた。バイトはまだ途中だ。かといって、この少女をこのまま放っておくわけにもいかない。


「とりあえず、最上階まで確認しよう」有樹は決めた。「それから…考えよう」


少女は立ち上がり、震える声で言った。


「お願い…誰にも言わないで」

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