エピソード3「出会いと謎の断片」
朝日が窓から差し込み、有樹の顔を照らした。目を開けると、彼は寝室の床で横になっていることに気づいた。記号のある壁の前で眠り込んでいたのだ。慌てて周囲を見回すが、ミカの姿はどこにもない。
「ミカ?」
リビングに駆け込むと、ソファの上でミカが丸くなって眠っていた。昨夜のことは夢だったのだろうか。有樹は頭を振った。いや、あの記号は確かに寝室の壁にあった。確認しようと寝室に戻るが、朝の光の中では、壁は何もない普通の壁に戻っていた。
有樹は時計を見て息を呑んだ。「やばい、今日のバイト」
今日は久しぶりにショートワークスで申し込んだカフェのバイト。遅刻するわけにはいかない。急いでシャワーを浴び、着替える。ミカはまだ眠っている。
「今日は家でおとなしくしてろよ」
有樹はメモを書いて冷蔵庫に貼り付けた。「冷凍庫にアイスあるから、全部食うなよ」と付け加える。
「行ってくる」
有樹は小声で言い、バイクのキーを手に取った。今日は気分転換に、車ではなくバイクで行くことにした。
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古びた商店街の中にある小さな喫茶店「カフェ・ボーダー」が今日のバイト先だ。以前にも一度来たことがあるが、静かな雰囲気が気に入っていた。朝の通勤ラッシュを避けるため、彼はいつもの裏道を走っていた。
バイクを停め、ヘルメットを外した瞬間、彼は不意に背後の気配を感じて振り返った。そこには五十代くらいの男性が立っていた。普通のスーツを着ているが、どこか異質な雰囲気を漂わせていた。
「あなたですね」男はじっと有樹の顔を見つめ、ふと微笑んだ。
「何か?」有樹は警戒しながら尋ねた。
「気をつけなさい」男は低い声で言った。「境界の時が来る。準備はできているかい?」
「何の話だ?」
有樹が問いかけたが、男は答えず、彼の肩をポンと叩くと、そのまま歩き去ってしまった。振り返ろうとした瞬間、男の姿は雑踏の中に消えていた。
「境界……?」
その言葉に有樹は震えた。ミカが昨夜言っていた言葉と同じだった。「なんだよ、あいつ」と呟きながらも、妙な違和感を覚えた。
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「土田さん、久しぶりね」
カフェに着くと、オーナーの松本さんが声をかけてきた。六十代の温厚な男性で、このカフェを二十年以上経営している。
「前回は三ヶ月くらい前でしたっけ」有樹は軽く会釈した。
「相変わらず短期バイトを渡り歩いてるのね。本当はどんな仕事してるの?」
「特に何も」有樹は曖昧に笑った。実際、FIREして以来、特に本業というものはなかった。
「謎めいた人ね」松本さんは苦笑いしながらも、エプロンを渡してくれた。
有樹は仕事を始めた。以前も来たことがあるから店の流れはすぐに掴めた。しかし、頭から先ほどの男性の言葉が離れなかった。「境界の時が来る」—それはミカの「境界の鍵」という言葉と、そして壁に現れた記号と、どう関係しているのだろう。
朝のラッシュが過ぎ、店内が少し落ち着いたころ、常連客の老婆が入ってきた。高橋さんは毎週金曜日の朝、必ずこのカフェに来る。
「いつもの紅茶をお願いね、有樹くん」
「かしこまりました」
紅茶を運びながら、有樹は思い切って尋ねてみた。「高橋さん、この辺りの地域で昔から変わった話とか、聞いたことありますか?」
高橋さんは紅茶をすすりながら、目を細めた。「変わった話?どんな?」
「例えば……不思議な現象とか……」
「ああ、あるわよ」老婆は少し声を落とした。「私の父親が昔、東北の古い巨石群を調査していてね。それが不思議な話なのよ。その巨石群の近くで人が消えたという記録があったんだって。夜になると、巨石から光が漏れ出して、そこに近づいた人が行方不明になった……」
有樹の背筋が冷たくなった。
「父は昔、民俗学者だったの」高橋さんは続けた。「彼の研究では、その東北の巨石群には『境目』があるんだって。この世とあの世の、あるいは別の何かとの……」
「境目……」有樹は思わず呟いた。
「あら、興味あるの?」
「いえ、ちょっと……」
その時、ドアが開き、新しい客が入ってきた。三十代前半の女性。ショートカットの髪に、カジュアルなシャツとジーンズ姿。肩にはカメラが掛けられている。
「いらっしゃいませ」
女性は窓際の席に座り、メニューを見ながら「ラテとチーズケーキをお願いします」と注文した。
有樹がコーヒーを準備している間、松本さんが話しかけてきた。
「あの人、三上佳奈さんっていうフリーライターなんだよ。この辺りの民話や言い伝えを調べてるらしい」
「民話……ですか?」
「ああ、特に東北の巨石群に関する話とか、古い伝承とかね。彼女は全国各地のそういった場所を取材して回ってるらしい」
有樹は思わず三上佳奈に視線を向けた。彼女もまた、有樹を見ていた。視線が合うと、佳奈は微笑み、小さく頷いた。
ラテとケーキを運ぶと、佳奈は有樹に声をかけた。「あなた、東北に行くことある?」
「ああ、まあ」有樹は曖昧に答えた。自分のマンションで暮らしていることを詳しく説明する気はなかった。
「そう」佳奈はペンを取り出した。「実はね、私、全国の古い言い伝えを集めてるんだけど、特に東北の巨石群に関する話に興味があって。何か知ってることとかある?」
有樹は一瞬躊躇った。自分の体験を話すべきか、迷った。しかし、何かに突き動かされるように、彼は口を開いた。
「実は……昨日、巨石群で少し変わったことがあって……」
佳奈の目が輝いた。「それ、詳しく聞かせてもらえない?バイトが終わったら、時間ある?」
有樹は眉をひそめた。あまり深入りしたくない性分だったが、今朝の男性の言葉と、ミカの謎、そして壁の記号。すべてが気になって仕方がなかった。
「いいけど」と、渋々同意した。
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シフトが終わると、佳奈は有樹を近くの公園に誘った。二人はベンチに座り、有樹は巨石群でのミカとの出会い、そしてマンションで起きた奇妙な出来事について話した。記号のことも、囁き声のことも、すべて包み隠さず。
「へえ……」佳奈はメモを取りながら、真剣な表情で聞いていた。「その記号、どんな形してたの?」
有樹はスマホのメモアプリで、昨夜見た記号を簡単に描いた。
「これだ」
佳奈はそれを見て、大きく目を見開いた。「これ……私が調べてる古文書にも似たような記号が出てくるの」
彼女はバッグから古い紙の束を取り出した。「これは、この地域に伝わる古い文書のコピー。私が県立図書館で見つけたんだけど……」
ページをめくると、そこには有樹が描いたものとよく似た記号が描かれていた。円の中の三角形と、内側の複雑な線。
「これは何なんですか?」有樹は息を呑んだ。
「正確にはわからないけど、この文書によると、『境界の鍵』と呼ばれるものらしいの。この地域には『二つの世界の間の境目』があって、その境目を開く、あるいは閉じるための鍵だと……」
「境界の鍵……」有樹はミカの言葉を思い出した。
「面白いのは、この記号が現れる時期があるってこと。およそ百年に一度」佳奈は続けた。「そして今年が、ちょうどその時期に当たるの」
「百年に一度……?」
「そう。最後に記録されたのは、大正時代。そのときも、あなたが言ったような奇妙な現象が起きたらしい。囁き声、突然現れる記号、そして……」
「そして?」
「人の消失」佳奈は静かに言った。「数人が行方不明になったの。彼らは最後にその東北の巨石群の近くで目撃されたそうよ」
有樹の心臓が早鐘を打った。ミカのことが頭に浮かぶ。彼も、別の世界から来たのだろうか。
「あんた、何者?」佳奈が突然尋ねた。
「え?」
「普通、こんな話を聞いても信じないし、深入りしないでしょ。でも、あなたは違う」佳奈は鋭く有樹を見つめた。「何か隠してる?」
「別に」有樹は肩をすくめた。「ただの暇人だよ。FIREして、暇つぶしに短期バイトしてるだけ」
「FIRE?」
「経済的独立早期リタイア。会社売ったから、今は好きにしてる」
佳奈は目を丸くした。「えっ、FIREって……そんな若いのに?すごいじゃない」
彼女は有樹の顔をあらためて見つめ直した。確かに、無精ひげはあるものの、整えればかなりのハンサムだろう。成功者のオーラも漂っている。
「それで、仕事もなく……暇なの?」彼女は少し声のトーンを変え、興味深そうに身を乗り出した。
有樹は肩をすくめ、「そんなところ」と答えた。佳奈の態度の変化に気づいていないわけではなかったが、あえて反応しないことにした。
佳奈は少し照れたように髪をかきあげ、「それで、そのミカって子は今どこに?」と尋ねた。
「マンションにいる」有樹は言った後で、少し後悔した。あまり情報を教えるつもりはなかったのに。
「会わせてくれない?色々聞きたいことがあるんだけど」
「無理だな」有樹はきっぱりと断った。「まあ、俺にできることがあれば協力するけど」
「これ、よかったら持っていって」佳奈は古文書のコピーを差し出した。「私の連絡先も書いておくから、何か気づいたことがあったら連絡してね。この謎、一緒に解きたいな」
有樹は黙って資料を受け取った。深入りするつもりはなかったが、ミカの謎を解くためには必要かもしれない。
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バイクでマンションに戻ると、リビングにミカはいなかった。「ミカ?」と呼びかけると、キッチンから返事があった。
「ただいま」有樹は言った。
ミカは無言で頷き、冷蔵庫から取り出したアイスを食べていた。昨夜、壁の前で瞑想していた神秘的な少年とは思えないほど、普通の姿だった。
「全部食うなって言ったろ」有樹は呆れながらも、特に怒る気はなかった。
「……おいしい」ミカは淡々と言った。
有樹は佳奈から受け取った資料を広げた。古い言語で書かれた文章の間に、見覚えのある記号が散りばめられていた。ミカは興味深そうに覗き込んでいる。
「ミカ、これがどういう意味か知ってる?」
少年はしばらく資料を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「知ってるの?」
「少し……だけ」ミカの声は小さかった。「でも……思い出せない」
「思い出せない?」
「僕は……忘れてしまった」ミカは苦しそうに言った。「でも、境界に触れると……過去の記憶が呼び覚まされる」
「境界って、巨石群のこと?」
ミカは曖昧に頷いた。彼の瞳に再び、あの不思議な光が宿っているのを有樹は見た。
古文書の最後のページに、有樹は衝撃的な一文を見つけた。
『境界に触れると、過去の記憶が呼び覚まされる。されど、記憶を取り戻せし者は、二度と元の世界には戻れまじ。』
有樹はミカを見つめた。彼は別の世界から来たのだろうか。そして、記憶を取り戻そうとしているのだろうか。もし取り戻したら、ミカはどこへ行ってしまうのか。
「面倒なことになったな」有樹は呟いた。本来なら、こんな奇妙な話にかかわりたくなかった。会社を売却して、悠々自適に暮らすつもりだったのに。でも、ミカを見捨てることはできなかった。
有樹は決意した。この謎を解き明かさなければならない。面倒くさいけど、気になって仕方がない。それに、この答えを見つけなければ、ミカの問題も解決しないだろう。
彼は資料を全て読み終えると、今夜にでも巨石群に戻ることを決めた。そこには、すべての答えがあるはずだ。
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