第2章

第10話 古詠の残響

 まだ夜の明けきらぬ時間。

 街がまだ眠りの底にあるなか、熱を帯びる前の空気が、ひんやりとカイの身体を包みこんでいた。

 その冷たさには、どこか静けさの匂いが混じっていた。


 人はまばらで、帝都中央駅の構内は静寂に満ちている。灯りだけが等間隔に並び、始発列車はホームの奥に、静かに待機していた。

 カイは無駄のない足取りでホームを進み、無言の車両へと乗り込む。鉄の扉が背後で閉まり、冷えた空気がひとつ、区切られた。


 旅の目的地は、帝国北部、テュラン地方の山間部。教授を訪ねたあと、その地域について調べてみたが、やはり、かつて修道文化の中心のひとつとされた場所だった。


 やがて乗客で満ちた汽車はゆっくりと動き出し、しだいに都会の輪郭が遠ざかっていく。霧がかった車窓の向こうには、目覚めかけた田園風景が淡く流れていた。


 数時間後、地方の拠点駅で路線を乗り継ぐ。人の流れは落ち着き、車内は穏やかな静けさが満ちていた。


 手元の古語辞典をめくりながら、カイはふと手を止める。


 ──もしかして、祖語は、死語ではないのかもしれない。


 あの詠唱──リィエンの声が脳裏に甦った。

 言葉は記号ではなく、意味の核であり、発露の源でもある。その手がかりを、古い修道院の壁に見つけられるかもしれない。



 それからさらに汽車を乗り継ぎ、終点にたどり着いたのは、翌日の昼前だった。

 駅舎を出ると、陽光が山々の稜線をくっきりと浮かび上がらせ、澄んだ風が頬をやさしく撫でる。


 小さな馬車乗り場で待機していた御者に行き先を告げると、老人は興味深そうに首を傾げた。


「……あんた、祭の観光かね? ちょうど今夜から、前夜祭だ。歌や舞いでにぎやかになるよ」


「ええ、まあ。そんなところです」


 曖昧に微笑んで、カイは御者の脇に乗り込む。


 馬車はのどかな農道をゆるやかに揺れながら進んでいく。丘を越え、川を渡り、小一時間ほどで村にたどり着く。

 そのまま宿へと向かい、宿帳に名前を書き込みながら、女将に修道院跡地の場所を訪ねる。


 女将が不思議そうな顔をした。


「修道院跡なんて、また珍しいねぇ。……山の麓さ。向こうの分かれ道を右、今の時季なら、まあ歩けるけど、帰りは日が落ちるよ。気をつけな」


 礼を言って荷を預け、必要最低限の道具だけを持って、カイは村を後にした。



 登山道と呼ぶには大げさな、だが人の通らなくなった小径。かすかな踏み跡と野花を頼りに登っていくと、やがて鬱蒼とした森が開け、石造りの門が姿を現した。


 打ち捨てられた修道院──それが、現れた。


 外壁は蔦に覆われ、塔はすでに崩れて久しい。かろうじて形を残した門をくぐると、ひんやりとした風が中庭を渡っていく。

 かつては整えられていたであろう石畳の広場。今では苔が広がり、野草が割れ目から芽吹いていた。


 古びた石のベンチが中庭の片隅にあり、その奥には礼拝堂へと続く入口があった。

 カイは、そのまま入口へと向かった。


 室内は薄暗く、土埃と風化した木の匂いが満ちている。高窓から差し込む陽が、埃の粒を浮かび上がらせていた。


 壁面に、かすれた文字が刻まれている。


 ──「El*en t*al ar*a-s*l, var**n en lir*s.」

   (*はかすれて判読できず)


 おそらく祖語の詠唱。だが、すでに半ば風化しており、判読は難しい。


 カイは奥の講壇へと向かう。

 その足元、土埃が一部だけ不自然に払われていた。


 ──誰かが、最近ここに来た?


 カイは腰を落とし、慎重にその床をなぞった。


 浮かび上がった魔法陣は、今の技術のものとはまったく異なる構成だった。幾何学というよりも、流体のような曲線で成り立つ、なにか別種の論理。


 そして、中央に──


 ──「Arinai vel-en nas torai」


 訳すなら、おそらく「我らの言葉は、神との契約」。


 古語辞典では見つからない語句や語尾変化。しかし、意味だけは、なぜか直感的に理解できた。


 ……言葉が契約であった時代。


 その残響が、この場所にはまだ、確かに残っている。


 外では、すでに陽が傾き始めていた。

 カイは立ち上がり、もう一度、講壇の詠唱を見つめた。


 その後もカイは、時間の許す限り、遺跡内の詠唱や魔法陣を手帳に書き込んでいった。



 村へ戻ってきた頃には、空はすっかり茜色に染まりかけていた。


 山道を下りきり、宿の前の通りへと戻ると、昼間とは打って変わってにぎやかな気配が広がっていた。

 村の中央──広場では、灯火がともり始め、焚き火の煙が夜の帳をたゆたわせていた。子供たちは仮面をつけ、走り回り、大人たちは酒を酌み交わしている。


 ──前夜祭。


 夕飯を済ませたあと、カイは宿の軒先に腰を下ろし、ひとときその喧騒を眺めていた。

 やがて、村人たちが焚き火の周囲に集まり、ゆるやかに手を取りあうと、静かに歌が始まった。


 それは、ゆったりとした旋律。

 誰に教わったとも知れぬような、素朴な歌だった。だが、耳に残るひと節が、カイの記憶を揺さぶる。


 ──この音……どこかで。


 カイは身を乗り出す。

 語尾の音の落とし方、鼻音のまじる子音、母音の伸ばし……すべてが、あの詠唱の音声記録と、そして遺跡の壁に刻まれていた祖語の綴りと、奇妙に響き合っていた。


「……まさか……」


 思考が一瞬、時を止めた。


 この素朴な歌に、祖語の影が宿っている──。


 カイは、そばにいた老人に歌詞について尋ねた。老人は答える。


「誰も意味は分からんのです。ただ、口伝えで。」


 ──意味を失っても、音は残る。

 だが、意味を知る者が聞けば、それは再び「言葉」として立ち上がる。


 焚き火がぱちりと爆ぜる。

 歌声の輪がゆるやかに広がっていく中で、カイはじっと、その響きを聴き続けていた。



 翌朝。

 村はすっかり〝祭りの日〟の装いに変わっていた。

 朝から屋台が並び、仮装の子供たちが練り歩く。広場の真ん中では、楽隊と踊りの準備が始まっていた。


 カイは朝の支度を終えると、荷をまとめ、宿の女将に礼を言って宿をあとにした。


 馬車に揺られ、再び駅へ。

 汽車が動き出す頃には、遠く村の祭ののぼり旗が小さく揺れていた。


 座席に身を預けながら、カイは窓の外に目を向ける。


 ──音が残っていた。それだけではない。あの講壇には、明らかに誰かが手を触れた跡があった。


 まるで、今も誰かがその詠唱を守り、継いでいるかのように。


 そして、ふと思う。


(……教授に、聞いてみよう)


 祖語研究の第一人者。帝国大学附属文書館に籍を置く、あの老教授──

 もし、あの言葉に心当たりがあるのなら。


 カイは鞄からノートを取り出し、静かに、手帳から詠唱の断片を写しはじめた。


 汽車は、再び帝都へと向かって走っていく。

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