#22 不器用なふたり

 千堂事務所に顔を出すようになってから、気づけば十日ほどが経っていた。

 その夜も、美凪武琉は宮みらいテラスに足を運んでいた。


 ――あの日。巧翔と一緒に訪れ、偶然出会ったあの歌声。

 それがずっと頭から離れず、気がつけばほぼ毎晩のようにこの場所に通っていた。理由をつけてはみるものの、結局は「また聴きたい」という衝動に突き動かされているだけだった。


 駅の連絡通路を渡り、階段を降りながらそちらを確かめる。駐輪場側のあの片隅は、駅のアナウンスも広場の喧騒も、まるで透明な壁に遮られているかのようないつも通りの静けさの中にあった。

 

「はぁ……今日も空振りだったか」


 思わず独り言が漏れる。

 あの日以来、一度もあのパフォーマーの少女に会うことは叶っていなかった。自分でも執念深いと思うが、それほどあの夜の光景が強烈に焼き付いていたのだ。

 落胆の息をつき、肩を落としながら踵を返しかけた、そのときだった。


 ――ギィッ、とブレーキ音。

 駐輪場に滑り込んでくる一台の自転車が視界を横切った。小径タイヤが特徴的な折りたたみ式。そのサドルに腰掛けていたのは、間違いなくあの少女だった。パーカーのフードから覗く横顔に、見覚えがある。


(――いや、違う。今日は大勝利だ)


 胸が高鳴るのを抑えきれず、思わず階段を駆け降りていた。

 だが同時に「歌う前から声をかけるなんて、マナー違反かもしれない」という理性も頭をもたげる。それよりも、ストーカーに間違われやしないかという思いが、今更になって頭をよぎる。

 それでも、あのときの感想をどうしても伝えたい――その衝動が、冷静さを押し流していた。


 彼女がいつも立っている場所に、先に自分が着いてしまった。

 これではまるで待ち伏せしていたようで、不審者と勘違いされても仕方がない状況。警戒させたくない一心で、少しでも街灯の光が届く明るい位置に立ち、なるべく自然を装って待つことにした。


 やがて、ソフトレザーのギターケースを背負った彼女が歩いてくる。

 視線がこちらに向き、目が合った。


「あ……」


 驚いたように、彼女の唇から小さく声が漏れる。

 その瞬間、武琉の喉がからからに乾いた。


「ど、どうも……」


 返せたのは、たどたどしい短い挨拶だけ。

 今この瞬間ほど、自分の人見知りなオタク気質を呪ったことはない。胸の奥で言葉が渋滞し、うまく声にならない。


 沈黙を破ったのは、意外にも彼女の方だった。


「あの……この間の名刺の人と、一緒にいた方……ですよね」


 途切れ途切れで消え入りそうな声。だが、その確かめるような響きに、武琉の胸が少しだけ軽くなった。

 あの夜、名刺を投げ銭に忍ばせた行為――今思えば唐突すぎる行動で、待ち伏せに近い自分の態度も、怪しまれて当然だ。弁解するよりも先に、逃げ出したい衝動が込み上げる。


「あ、そうです。ただ……その、僕自身は事務所の人間じゃなくて……最近ちょっと知り合って、力を貸してるというか……」


 説明はしどろもどろで、自分でも何を言っているのかわからなくなる。全く弁明になっていない。


 そんな情けない姿に、彼女はふっと口元を緩めた。小さな笑い声――クスリと笑う音が、夜の静けさに溶け込んだ。

 

「私も……そこまで警戒はしてないです。名刺の名前を検索したら、ちゃんと情報が出てきたから……」


 その言葉に、武琉は胸をなで下ろした。そうだった。あの事務所自体は以前から存在している。宇都宮に拠点を移す前から芸能活動を支えてきた、由緒ある事務所。検索すれば経歴も実績も出てくる、歴史ある組織であることに疑いの余地はなかった。


「そうでしたか……よ、良かったです」


 なんとか返すものの、たどたどしい自分の言葉がもどかしい。実際、同年代の女の子を前にしてスラスラと会話できるような人間ではないことを、自分が一番よく知っていた。


「あの、もし……」


「え?」


「もしよければ、その……少しお話ししませんか? 聞きたいことが、いろいろあって……」


 思いもよらない誘いに、武琉の心臓が大きく跳ねる。まさか向こうから話を切り出してくれるとは。もちろん願ってもない展開だ。


「そ、それじゃあ……ここの上にある、カ、カフェに……行きませんか?」


 慣れない状況と緊張で、盛大に噛んだ。顔が熱を帯びるのがわかり、思わず視線を伏せる。


「ふふっ……いいですよ」


 彼女は小さく笑みを浮かべながら、穏やかに了承してくれた。


 二人は連絡通路に繋がる二階のテラスへと上がり、そこから直接入れるカフェへ足を踏み入れる。ガラス張りの店内は夜景が映り込み、柔らかな照明とジャズが流れる落ち着いた空間だった。


 向かい合わせに腰を下ろした瞬間、武琉の胸は再びざわつく。一般的な高校生なら、放課後や休日に友達とこうしてお茶を飲むのはありふれた日常なのかもしれない。だが、オタク気質でクラスでも少数派に属する自分にとっては、未知の体験だった。


 気の合う仲間と行くとしても、せいぜいファーストフード店やゲームショップ。カフェなど、自分とは無縁の場所だ。だから今、こうして女の子と向き合っている現実が、まるで夢の中の出来事のように思えてならなかった。


 どう振る舞えばいいかわからず、乾いた喉をアイスティーで潤す。氷がグラスの内側で小さく音を立て、そのたびに緊張をさらに意識させられる。


「えっと……僕は佐々木武琉。16歳の高校1年です」


 それだけで精一杯。声がわずかに震えていたのを、自分でもはっきり感じた。


「私は……明石縁(あかし えにし)と言います。15歳で……同じく高校1年生です」


 初めて口にされた彼女の名前。その響きが、武琉の胸に静かに刻まれていった。

 

 「あれからほぼ毎日ここに足を運んでたんスけど、ずっと見かけなかったから、警戒して辞めちゃったか、他の所に移動したのか心配だったんスよ」

 

 武琉は、ずっと言葉にするのが怖かった思いを吐露した。

 

「え?」

 

 伏目がちでストローを指でいじっていた縁が、驚いた様子で顔を上げた。

 

「……いえ、そ、そんなことはないですよ。わ、わたしの方こそ、その……ずっとお礼が言いたかったので」

 

「お礼?」

 

 警戒されて不審に思われても仕方がない。という考えしかなかった武琉は、その言葉の意図するところがまるでわからなかった。

 

「この間、投げ銭に入っていた……その、一万円のおかげで、ずっと欲しかったものを買えたんです」


 その言葉に、武琉の胸が跳ねる。縁は少し頬を赤くしながら、ギターケースの横を指先で軽く叩いた。


「これに繋ぐアンプで、ローランドのCUBE Street EXっていうんですけど……小型なのに出力もしっかりしていて、電池でも動くんです。マイクもギターも一緒に繋げるし、リバーブもかけられる。だから路上でも十分にライブ感を出せるって、前から評判で……。ずっと前から中古サイトを眺めていて、ようやく出物があったんです。二、三万円くらいするんですけど、お古のアンプはハウリングもひどかったから、ずっとこれが欲しくて……」


 矢継ぎ早に語られるアンプの特徴。最初は遠慮がちだった声が、熱を帯びていくのが分かる。目の奥に宿る光は、まるで楽器そのものが大切な仲間であるかのような輝きだった。

 しかし、言葉が止まらない自分に気づいたのか、縁ははっとして視線を伏せ、唇を噛む。


「……す、すみません。つい、しゃべりすぎちゃいました」


 恥ずかしそうに小さく肩をすくめる仕草が、彼女の素直さを際立たせる。


(……あ、この娘もオタクだ)


 武琉は心の中で妙に納得した。自分だってVRキャラクターやアニメの話になると、気づけば早口になっている。学校ではそれを隠そうと必死だが、今の縁の姿には、どこか親近感を覚え、微笑ましくさえ思えた。


「……その、あの時の一万円がなかったら、たぶんまだ買えてなかったと思うので。だから、直接お礼が言いたかったんです」


 縁は再び視線を落とし、小さな声で結んだ。その健気な真っ直ぐさに、武琉は一瞬言葉を失う。

 胸の奥がじんわりと熱を帯び、心臓の鼓動が早まっていく。


「い、いや……僕が出したわけじゃないんですけど……。で、でも、そう言ってもらえると、多分あの人も喜ぶと思うっス」


 心臓が跳ねっぱなしで、言葉を繋ぐのが精一杯だった。けれど、不器用なその一言に、今の気持ちのすべてが詰まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る