第5話 古の声と新たなる灯

 部屋の片隅。月明かりがかすかに差し込む床の上に、それは落ちていた。

まるで忘れられたように、ぽつんと放り出された紙の束。
めくれた頁の端に、小さく『今日、私は』の文字が覗いていた。


さくらには一目でわかった。


これは誰かの──きっと、かつての花嫁の日記なのだと。


しゃがみ込み、そっと手を伸ばす。

さくらは小さく息を呑んで、その頁をめくった。

紙は乾ききっていて、ひび割れた薄氷のように頼りない。指先にわずかに力を込めれば、音もなく崩れてしまいそうだった。


細い紙片の端をそっと押さえたまま、視線を落とす。淡い墨の線には、育ちの良さがにじんでいた。

さくらは残された誰かの足跡を、静かに、丁寧に読み上げた。


「……『今日、私は結婚が決まりました』」


 花嫁衣装を整えてもらった記録が続く。

母が涙をこぼしながら髪を梳いてくれたこと、父がそっと頬を撫でて笑ったこと。

幼い頃に夢見た“お嫁さん”の形が、綺麗な文字の隙間に滲んでいる。


『誰がお迎えに来てくれるのかは、まだ教えてもらえなかった。


 でも、お母様とお父様が決めてくれた人だから、きっと優しい人だと思う。


 あの人かしら。お祭りの時に隣で笑ってくれた、あの人だったらいいのに。


 そうだったら、恥ずかしいけど、嬉しいな。


 ちゃんといいお嫁さんになって、みんなに笑ってもらおう。お母様にも、お父様にも、胸を張って見せられるように。


 幸せになれますように。


 ちゃんと、素敵なお嫁さんになれますように。』


さくらの手が止まる。

捲ろうとした紙の端に、掠れた涙の跡のような染みがあった。


『嘘つき』


『あの人じゃなかった。

 忌みもののところに嫁がされるなんて聞いてない。

 帰れないなんて聞いてない。

 私は捨てられた。』


 ページをめくるたび、文字が淡く揺れ、行間には声にできない言葉が乱雑に書き足されていた。

「鬼」「化け物」「人獣」

 ──そんな罵りが、震える字でところどころに挟まれている。


『あれのこえがまだ耳にいる。

 目がわたしをおいかけてくる。

 のどがくるしい、いきがくるしい。

 だれもいない。

 どこもいけない』


『あかいかみ、きんのめ、あれがみてる

 くわれる、ころされる、たすけて


 しぬ、しぬ、しにたい、でも、こわい』


最後の頁をめくる。端に書きつけられた一言だけが、妙に真っ直ぐで、はっきりしていた。


「『死んでやる。辱めを受ける前に』……」



さくらの指先が、乾いた紙の端をそっと離す。
 かすかな月明かりが、歪んだ文字の痕を浮かび上がらせる。


隣で、生駒が小さく息を呑んだ。


「……どれほど怖かったのでしょう……こんなふうに……壊れてしまうなんて……」


言葉の端に、冷たい震えがにじむ。


生駒は滲んだ文字からそっと目を逸らした。


「……やっぱり、あれは……恐ろしいものです。
 関わらない方が……いいんです……お嬢様……」


さくらは黙ってページを伏せた。
しばらく、何かを噛みしめるように唇を噛む。


「……本当に……そうなのかな……」

「そうですよ、お嬢様」


伏せられた日記の上に、さくらの指が戻る。
 初めて向けられた金の瞳

───冷たく鋭かったその奥に、ほんの一瞬だけ覗いた苦い色を思い返す。

思い出すたびに胸の奥がひやりとする。けれど、あの影だけが、どこかにひっかかって離れなかった。


「……生駒。あの人、そんな……怖いだけの人じゃないって……なんか、そう思うの」


さくらの声が途切れる。

部屋の奥に残る埃の匂いが、二人の空気を少し重くした。

生駒が小さく息を整え、そっと背を向ける。


「……ここは……もう、やめましょう。


 お嬢様、お休みになれそうなお部屋を探してきます。」


さくらは無言で、生駒の背に小さく頷いた。


 きしむ板の音が、夜の屋敷に控えめに響く。

鬼火の淡い明かりを頼りに、二人は言葉少なに長い廊下を進んだ。

歩くほどに、染みついた古い埃と湿った木のにおいがまとわりつく。

何度か角を曲がった先で、生駒が足を止めた。


「……ここを、使わせてもらいましょうか」


小声でそう告げる生駒に、さくらもそっと頷いた。

 荒れた気配は残っていたが、先ほどの花嫁の部屋ほどではない。これなら、ひとまず体を横たえることはできそうだった。


 精霊たちはカサカサと乾いた音を立てて動き出し、どこからか古い寝具を小さな手で運んできては、部屋の隅に器用に並べていく。



「……ありがとうございます。助かります」


 生駒が声をかけると、精霊たちは一斉にこちらを向き、小さくお辞儀をして、音もなく闇へと戻っていった。


「お嬢様、どうぞ。少しでも……お休みくださいませ」


 生駒がさくらに向き直り、柔らかく微笑んだ。


「……生駒も、ね。ありがとう」


短い言葉を交わし、二人は用意された寝具へとそっと身を預けた。



ただでさえ静まり返っていた屋敷が、より深い夜の底へと、ゆっくりと沈んでいった。



 遠くで鳥のさえずりが聞こえる。


隙間から差し込む淡い陽の光が、閉じかけた瞼をそっと照らした。


 さくらはまどろみの中でゆっくりと目を開ける。
視界に映ったのは、見慣れない古びた天井の木目だった。

寝ぼけた頭で、昨夜の出来事をゆっくり手繰り寄せる。

突然の契約結婚、あの妖の冷たい瞳、ボロボロのお屋敷……。


「……ここは……」


小さくつぶやいた声に気づいたのか、すぐ隣で布の衣擦れがした。


生駒が、目を覚ましたさくらにそっと微笑みかける。


「おはようございます、お嬢様。……よくお休みになれましたか?」

「……生駒……ああ……そっか……」


 さくらは大きくあくびをひとつして、まだ夢の中にいるようなぼんやりした気分を少しずつ振り払うと、寝具からゆっくり身を起こした。


寝ぼけ眼のまま、きしむ板戸に手をかけたさくらは、きしむ板戸に手をかけてそっと外へ出ようとした。


その背に、生駒の小さな声がかかる。


「……お嬢様、どちらへ?」

「……ちょっと……顔、洗ってくる……すぐ戻るから……」

「でしたらお供を」

「んーん、いいからいいから…」


さくらは少しだけ振り返り、あくび混じりに答える。


まだ残る眠気を追い払おうと、小さく背伸びをし、板戸を引いて外へ出た。


 昨夜、精霊たちに案内された回廊には、朝の光がところどころ差し込む。


けれど太い柱や深い軒が影を落とし、奥まった廊下にはまだひやりとした空気が漂っていた。
似たような板戸が並ぶ中、どこをどう歩いたのか、もう思い出せない。


「……こっち、かな……?」


小さくつぶやいて、さくらは右へ進んだ。


戸を一枚そっと開けてみたが、中には埃をかぶった掛け軸と、使われていない棚だけがあった。


「……違うじゃん。」


ぴしゃりと戸を閉め、また元の廊下へ戻る。
 一度来た道を戻ったつもりが、気づけば見覚えのない角に出ていた。


「……え?さっきここ曲がったっけ……?」


もう一度右、もう一度左、また右。


けれどどこも同じような板戸と軋む床板が並んでいる。


「……完全に迷った……もう、似たような部屋ばっかり……」


ため息をついて来た道を戻ろうと足を踏み返したそのとき、

曲がり角の向こうから足音が近づいてきた。


「……!」


さくらは思わず身を引き、息を飲む。


曲がり角の向こうから姿を現したのは

──
昨夜の、あの金の瞳を持つ妖だった。


 朝の柔らかな陽光に照らされ、炎のように鮮やかな赤い髪が揺れる。

着ている黒い羽織は古びているものの、その端正な姿はどこか凛とした威厳を漂わせていた。

冷気をまといながらも、妖の金色の瞳は鋭くさくらを見据え、わずかに眉をひそめる。


 さくらは反射的に背筋を伸ばし、思わず小さく頭を下げた。


「……おはよう、ございます……」


か細い声が廊下に響いたが、妖は何も言わずにさくらの横をすり抜けていく。



「……ちょっと!」


思わず、さくらは振り返って声を張り上げた。


「挨拶くらい、したらどうなの!」


妖は足を止め、ゆっくりと振り返る。

その金の瞳が無言のまま、さくらを射抜く。

廊下の空気が、ぴたりと張りつめた。


「挨拶?……不要だ」


低く吐き捨てるように言った妖に、さくらはぽかんと目を瞬かせた。


すぐに眉をひそめ、足を一歩踏み出す。


「……必要でしょ!人としてどうなのよそれ!」


思わず声を荒げるさくらに、妖は一度だけ視線を返した。


じっと見返す瞳は、思ったほど冷たくなく、むしろどこか意外そうに揺れているようにも見えた。


しかし、すぐに目をそらし、淡々とした口調で答えを返す。


「……人間の理屈を押しつけるな。」

「理屈じゃなくて礼儀の話でしょ、ねぇ?」


さくらの言葉に、妖の目がほんのわずかに細められる。


「……くだらん。」


低く吐き捨てると、妖はさくらを置いて歩を進めようとする。


「あ、ちょっと! 水場はどこ!」


さくらの声に、妖は足を止めもせずに答える。


「ない」

「ないの!?」

「外の井戸でも川でも好きにしろ。ただし騒ぐな」

「あ、じゃあ、台所は!?私、お腹減ったんだけど……!」


けれど、その問いには何の返事も返ってこなかった。
妖の姿は、廊下の向こうの曲がり角にすっと消えていく。


「……ちょっと、聞いてる!?

もう……で、結局どうやって戻るのよ……」


 さくらが途方に暮れて小さく唸っていると、廊下の奥からひょこりと生駒が姿を現した。
 その背後には、昨夜も見た木の精たちが、相変わらずぎこちない足取りでついてくる。


「お迎えに参りました、お嬢様」

「……生駒ぁ……よかった……」


さくらは心底ほっとして、生駒の腕を掴む。


「お部屋にお戻りください。お食事をご用意いただいてますので」


連れられて戻った部屋には、確かに食事が並んでいた──けれど。


「……これ……なに……?」


膳の上には、木の皮を煮たような灰色の煮物、噛み切れそうにない硬そうな樹皮の塊、


つやつやしたどんぐりのような実が山盛りに盛られた皿、そして、妙に青臭い香りのする葉っぱの汁。

それらはどれも土の匂いと、微かに湿った苔のような匂いが混じっている。


 さくらは箸を持ったまま固まった。


「……あのね、生駒。私って、リスか何かだっけ」

「お嬢様はリスのようにお可愛らしいですが、間違いなく人間でございます」

「うん、ありがとう。で、朝ごはんはどこなの」

「目の前にございます」

「…私ってリスか何かだっけ」

「郷に入っては郷に従え、かと思いまして……そちらの精霊様曰く、栄養満点!…とのことです」

「……台所、案内してもらえる?」


 さくらはぱっと立ち上がり、無言で生駒と精霊たちを急かして屋敷の奥へと歩き出した。


 案内された台所は想像を超えていた。


煤で黒ずんだ土竈に、粗末な木製の作業台。埃をかぶった鉄製の小鍋がいくつか並び、棚の奥には古びた素焼きの壺が辛うじて並んでいるだけだった。


 さくらは息を呑んで呆然とした。


「……いつの時代なの」


さくらは生駒を振り返った。


「他に食材はないの?」

「先ほどのもので済ませているようで、他のご用意はないようです……」

「……もう、分かった」


さくらは深呼吸をひとつして顔を上げた。


小さな木の精たちが不思議そうにさくらを見つめている。


「ここを変えるしかないのね。私がやるしかないんだから!」


振り返り、胸を張って生駒と精霊たちに宣言する。


「いい?私が美味しいご飯を作ってあげる。妖だろうが精霊だろうが、ちゃんと食べさせてあげるんだから!」


 片手の指を天に向けて気合を込めるさくらの背後で、木の精たちが意味も分からずぱちぱちと小さく拍手をする。


 胸の奥で火花が弾けるような熱を感じ、さくらの瞳が星のように煌めいた。


───こうして、さくらの戦いの幕が上がったのである。

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