紅妖ノ花嫁

御厨 明來

第1話 陽だまりの約束

 この日の森は、霧と静けさに包まれていた。
ざわり、と草が鳴る。幼い足音が、その静寂を破る。


「生駒、こっちよ、ほら早く!」


 先を行く少女───さくらの声は、どこか楽しげだった。振り返りもせず、彼女は霧の中を軽やかに駆けていく。後ろから引き止める声がするけれど、それよりも今は、目の前の“気になる何か”のほうがずっと重要だった。


「お、お嬢様、お待ちください! こんな森の奥まで……っ」


 呼び止める声には焦りがにじんでいたが、さくらは足を止めない。
揺れる黒髪。跳ねるような足取り。草を踏む音さえ、まるで冒険の音楽のように胸を躍らせた。


「この先は禁忌の地です! お嬢様もよくご存知でしょう、森に住む残虐な妖の話を──」

「でも……ねえ、あのうさぎ、絶対このあたりに逃げたのよ」


 声を遮るように、さくらは指を伸ばす。木々の間に、逃げていった白いうさぎの幻影がまだ残っているような気がした。霧の向こうには、まだ見ぬ何かがある。そう思うと、怖さよりも、好奇心のほうが勝ってしまう。

 そのとき、霧の奥で──微かに何かが動く音がした。


「あっ、きっとあっちだわ!生駒、早く早く!」


 弾かれるように駆け出す。背後で、生駒の慌てた声が聞こえた気がしたけれど、さくらの耳には届いていない。彼女の視線はただ、奥へ、奥へと向かっていた。

 草をかき分け、道なき道を進む。獣道のような細い小道。霧は少しずつ薄れ、やがて、目の前にぽっかりと空間が現れた。

 そこには、苔むした石畳と、それに続く朽ちた大きな門が立ちはだかっていた。
門の奥に見えたのは、蔦に覆われた大きな屋敷。屋根は崩れかけ、壁には亀裂が走っていたが、その佇まいには不思議と目を引く威厳があった。まるで、時の流れだけがこの場所を忘れていったかのような、静けさと寂しさが漂っている。
風はなく、鳥の声もない。ただ木々の枝だけが、ざわ…ざわ…と音を立てていた。

 その不自然な静けさに、さくらは思わず立ち止まり、生駒と顔を見合わせる。何かが、目に見えない何かが、この先を拒んでいる気がした。

 どちらからともなく後ずさり、二人は言葉もなくその場を離れる。
ひたと張りつくような沈黙の中、元来た道なき道へと振り返ったそのとき───

屋敷の奥で、なにかが───

ぎらり、と鈍く光ったような……気がした。





「…くら!お〜い、さくら!」


 遠くで誰かが呼ぶ声がして、夢の霧がゆっくりと晴れていく。聞き慣れた声に揺り起こされ、さくらはゆっくりと目を開けた。
窓から差し込む朝の光が彼女に降り注ぎ、ぼんやりした視界の中に、その声の主の輪郭が浮かび上がる。


「…あれ、蒼真?」


「おはよう、さくら。さすが村長のご息女、朝寝坊にも貫禄があるな?」


「え、うそ……もうそんな時間!?」


 慌てて跳ね起きるさくらを見て、蒼真は苦笑まじりに頬を緩めた。

 蒼真はさくらよりひとつ年上の少年だ。朝の光を受けた艶やかな黒髪がふわりと揺れ、穏やかな瞳にはいつもの静かな優しさが宿っている。
その背筋の伸びた立ち姿は、仕事着も相まって、どこか凛として見えた。


「はい、そんな時間です。よっぽどいい夢を見ていたんだろうな」


「違うわよ。昔の夢を見てたの」


「昔の?」


「そう。生駒と一緒にうさぎを追いかけて、禁忌の地の近くまで行った時の」


「ああ、あの時か…」


蒼真は少し間を置き、静かな声で言った。


「あそこには残虐な妖がいるから近づくなって、あれほど言ったのに。ほんと、人の言うことを聞かないんだから」


「うん、でも追いかけてたら、つい…」


蒼真の瞳がわずかに揺れた。


「まあ、そういう無鉄砲なとこも、お前の“個性”ってことで我慢してやるよ。でもな、僕らは村を守る立場にあるんだ。……ちゃんとわきまえろよ。さあ、祈りの時間だ」


 そう言うと蒼真は立ち上がり、白く清らかな司祭衣の袖を丁寧に整えた。
細やかに織られた刺繍が朝日に煌めき、彼の凛とした所作が周囲の空気を引き締める。

 外からは村人たちの声が響きはじめ、朝の祈りの始まりを告げていた。

 その時、部屋の戸が遠慮がちに開く。


「お嬢様、お目覚めですか。そろそろお支度の方は……あら、司祭様。いらしてたのですね」


「やあ、生駒。この寝坊助のお嬢様を迎えにね」



生駒は藍色の地味な仕事着に前掛けを結んだ、几帳面そうな侍女だ。

茶色味がかった髪をきちんと結い上げ、腰には鍵束と手拭いを下げている。

さくらにとっては付き人であり、時にお節介な姉のようでいて、頼れる存在でもあった。


「申し訳ございません。お嬢様が“自分で起きられるから”と仰るので……すっかり油断しておりました」


「そう言って毎朝こうだよ。まったく、昔から“口ばっかり”なんだよな〜」


「昨日はちゃんと間に合ったもん!」


 生駒と蒼真は顔を見合わせると、揃って肩をすくめた。


「頼んだよ。僕は先に行ってるから、きっちり引っ張ってきてくれよ」


「お任せ下さい」


「もう、二人して子ども扱いして! 失礼しちゃうんだから!」


 蒼真が片手をひらひらと振って部屋を出ていくのと入れ替わるように、生駒が部屋へ入ってきた。
付き人らしく、手際よく櫛と帯を取り出しながら微笑みを浮かべる。


「今日は髪、後ろでまとめますか? それとも、少し横で結んでみます?」


「うーん……蒼真に“ちゃんとしてる”って思わせたいから、後ろかな」


「“ちゃんとしてる”って……お嬢様はいつも十分に可愛いですよ」


「……別に、可愛く見られたいわけじゃないんだけど」


 生駒はさくらの背後に立ち、手際よく髪をまとめていく。櫛が髪をすく音が、さらさらと朝の空気に溶けていった。
器用に結い上げられていく髪の毛を見ながら、さくらは生駒に尋ねた。


「ねえ、生駒」


「はい」


「“あそこ”って、やっぱり今も近づいちゃいけないの?」


 生駒の手が、ほんのわずかに止まった。
鏡越しに一瞬、目が合う。けれどすぐに、何事もなかったかのように動き出す。


「禁忌の地のことですか?」


「うん。小さい頃、うさぎを追いかけて行っちゃったあそこ。……今日夢で見たの。あの時のこと」


「それは……」


 生駒の声が少しだけ低くなる。何かを思い出しているような、そんな響きだった。


「……あそこには、いまだに“封じられたもの”がいると聞きます。ですから、ご興味を持つのはおやめくださいませ。…さあ、出来ましたよ」

「ふぅん」


 返事ともつかない声を残して、さくらは鏡の中の自分を見つめた。結われた髪が背に重みを感じさせる。


「さあ、お召かえを済ませて参りましょう」


 生駒に促され、さくらは白い式服へと袖を通す。
都から遠く離れた山あいのこの村では、毎朝、神への祈りの時間が設けられていた。
村長の娘であるさくらも、その場に顔を出さなければならない決まりになっている。

 支度を終えて戸口を出ると、石畳の道の先、村の広場にはすでに人々が集まり始めていた。


「おはようさん」

「はいはい、子どもたちは前へ」

「ほらジジ、お前の杖忘れてるぞ」


 あちらこちらで声が飛び交い、老若男女が手を振り合いながら、笑ったり小言を言ったりしている。

 生き生きとした賑わいの中心に、石造りの壇があった。
壇の上には白衣の蒼真。高い位置から人々を見下ろし、手にした木の杖を軽く打ち鳴らす。

 その瞬間、潮が引くようにざわめきは静まった。


「皆さん、本日も良い朝ですね」


 よく通る蒼真の声が、場の空気をぴんと引き締めた。
村人たちは彼が紡ぐ声に耳を傾けながら、まるで誰もが同じ呼吸をしているかのように、静かにうなずいていく。

 ある若者は畑仕事で鍛えた逞しい手を合わせ、ある年寄りは膝を支えに身を正しながら、皆ただ一点、壇上に立つ蒼真の姿を見つめていた。
子どもたちすら背筋を伸ばし、誰ひとり私語を漏らさない。

 人々の中心に立つ蒼真の姿は、どこか神聖で、触れるには遠すぎるもののように思えた。


(…なんか、すごいなあ)


 さくらは、自分の胸の奥に湧いたその感情を、まだうまく言葉にできなかった。

 幼い頃、二人で駆け回ったこの広場。
蒼真が若くして亡き父の跡を継ぎ、村の司祭として人々の前に立つようになってからは、かつてあんなにも広く感じたこの場所が、彼の存在の大きさの前ではむしろ小さく見えるようになった。





 ひとしきり話を終えた蒼真は、一呼吸置いたあと、ゆっくりと口を開く。


「では、今日も――“言葉”を捧げましょう」


 その声に続き、村人たちが一斉に声をそろえる。
それは、古くからこの村に伝わる“祈りの言葉”だった。


「――清き光が、我らを照らす。かつて禍を封ぜし御手に、感謝を」


 蒼真が右手の杖を空へ掲げると、杖の先から淡い光がふわりと立ち上り、
それは風に乗って広がり、村人たちの頭上をやさしく包み込む。
 囁くような唱和の声が広場に満ち、草木のそよぐ音と共に、ひとつの調和を奏でていた。


「古の禍よ、再び目覚めることなかれ。我ら、日々を慎み、祈りをもって命の灯を絶やさずあらん」


 静かに蒼真が祈りを締めくくる。


「皆に光あれ、この祈りとともに」


 その一言を皮切りに、漂っていた光がすっと消えていく。
張り詰めていた空気もふわりとほどけ、村人たちは安堵したように息を吐いた。ざわめきが戻り、誰かが言う。


「さて、今日も一日頑張ろうか」


 その声を合図に、皆がそれぞれの作業へと動き出す。
笑い声が重なり、広場にいつもの朝が戻ってきた。


「子どもたち、今日は昔話の時間だよ。集まっておいで」


 元気な声に呼ばれ、村の子どもたちが次々と壇の前に駆け寄ってくる。
笑い声が弾ける中、蒼真はふと壇の上からさくらの姿を見つけ、そっと手招きした。
さくらは呼ばれたことに気づくと、背筋を伸ばし、静かに壇へ歩み寄っていく。


「村長の娘さんと司祭様、まるで絵に描いたようだな」


 誰かの呟きが聞こえ、子どもたちの一人が声を上げた。


「司祭さまとさくらさま、お着物おそろいだね!」


 その言葉に、さくらは思わず視線を伏せ、自分の袖をそっと指先でつまんだ。
隣の蒼真が、ふっと笑みを含ませながら囁く。


「僕の隣に立つんだから、ちゃんとそれらしくしてくれよ。寝坊助のお嬢様」


 はっとして顔を上げると、蒼真は視線を前に向けたまま、口元だけで微笑んでいた。
そのまま静かに腰を下ろし、何事もなかったように口を開く。


「さあ、始めようか」


 蒼真の握る杖から、赤い光が禍々しく放たれる。
光はうねるように広がり、唸る獣の姿へと変わっていった。


「昔むかし、この村を恐怖に震え上がらせる妖がいた。


その妖は狡猾で、人の心を操る術に長けていた。

村長の息子さえも罠にかかり、
妖はまるで影のように、静かに村へ入り込んでいた。


そして、あの日――妖は牙をむき出し、この村を火の海に変えた」


 炎の幻影が揺らめき、子どもたちが息を呑む。


「村人たちは叫びながら逃げ惑い、村長の息子も、無残に引き裂かれたのだ。
誰もが涙にくれていたその時、ただ一人、立ち上がった者がいた」


 ざわめく子どもたちの間で、今度は青い光が人の形を取る。
ひとりの子が叫ぶ。


「司祭さまだ!」

「そう、当時の司祭だけが、妖の纏う禍々しい闇に気づいていた。
司祭はその力を尽くして戦い、ついに妖を森の奥深くに封じたのだ!」

「わあーっ!」


 拍手が広がり、子どもたちは一斉に目を輝かせる。


「森には今もその妖が封じられている。
尊い犠牲の上に、僕たちの生活は守られているんだ。
だから、決して近づいてはいけない。


……さあ、今日も感謝の心を持って、お父さんやお母さんのお手伝いをするんだぞ?」

「はぁーーい!」


 子どもたちの歓声が響き、蒼真のもとにわっと群がる。


「司祭さま! 魔法もう一回見せて!」


「火の鳥見たいーっ!」


 少し困ったように笑う蒼真。
さくらはその輪から一歩だけ離れ、蒼真の杖の先に残る光の残滓をじっと見つめていた。

 ──恐ろしい妖。村を焼き、村長の息子、つまり自分の遠い先祖を引き裂いた存在。
 けれど、さくらにはその話がどこか現実味を持てなかった。

 心を奪われたのはむしろ、赤い光が獣となり、青い光が人を象った、その一瞬の“美しさ”だった。


「さくら!」


 広場の端から、よく通る声が響く。
振り返ると、村人たちに囲まれながらも自然と中心に立つ男の姿があった。
村長――さくらの父、新之助だ。


「蒼真くんの人気は相変わらずだな……こりゃ、そろそろ村長の座も譲らなきゃいけないか?」


 とぼけたような口調に、大人たちがくすくすと笑う。

 柔らかな物腰、真っすぐなまなざし。
押しつけがましさのないその人柄が、自然と人を引き寄せていた。


「父さん!」


 さくらが手を振ると、新之助は目を細めて微笑み、壇から降りてきた娘の頭をくしゃっと撫でた。


「さくら、お前また遅刻ギリギリだったんじゃないか?」

「ちょっと、髪が崩れるってば!」

「新之助さん、すみません。お待たせしましたか?」


 蒼真がにやりと笑って言うと、新之助は穏やかに首を振った。


「いやあ、司祭として立派に勤めを果たしてくれて、私も嬉しいよ。お父上も喜んでいることだろう」

「お待たせ? 何か用事でもあったの?」


 さくらが首を傾げたそのとき、元気な声が飛び込んできた。


「姉ちゃん、早く行こうよ!」


駆け寄ってきたのは、さくらの弟・将太だった。


「将太まで……今日って、この後、何かあったっけ?」


 振り返ったさくらが生駒の顔を見上げると、彼は素知らぬ顔でほんの少しだけ笑っていた。


「何って、姉ちゃん、忘れちゃったの? 今日は――」

「こーら、将太」


 ふいに優しい声が割り込んだ。二人の母・茜だった。穏やかな目元に、少し年輪を刻んだ微笑みを浮かべ、将太の肩をぽんと叩くと、彼は「しまった」とでも言いたげに母の顔を見上げる。


「さあ、準備はいいかしら?」


 茜が皆の顔を見回すと、誰もが意味ありげに頷いた。
ただ一人――さくらだけが、その空気をまだ掴めずにいた。





 広場を抜け、小さな林の奥にある木造の集会所へと足を進める。
戸の前に立つと、ほのかに果実の甘酸っぱい香りがさくらの鼻をくすぐった。

 生駒の方を見ると彼女は静かに首を振り、開けるのはお嬢様の役目ですよ、と伝えているようだった。

 さくらがゆっくり扉を開けると、暖かな光の中に見慣れた村人たちの温かい顔が並んでいる。


「誕生日おめでとう、さくら!」


 皆が声を合わせて、さくらに祝いの言葉をかけた。

 赤い湯気を立てた赤飯が、香りを漂わせながらさくらの前に運ばれてくる。


「……え? これ、私の……?」


 驚きで立ち尽くすさくらに、母が微笑みながら近づく。


「そうよ。今日で十四歳になる娘に、みんなでお祝いしたいって思ってたの。ほら、十四は特別な年でしょう?」

「そうそう」


村のご隠居が茶碗を持ち上げて笑う。



「十四歳は『桃の年』。子どもから大人へ、一歩踏み出す大事な時期じゃ。昔はこの年で嫁入りした娘もおってのう」

「よ、嫁入り!?」


 その言葉に、さくらの頬は赤飯に負けないほど真っ赤に染まった。
慌てて着物の裾をぎゅっと握りしめ、思わず視線を伏せる。

 目の端に映ったのは蒼真の穏やかな横顔だった。
ちらりと目を向けると、思いがけず視線が合ってしまい、さくらは慌てて逸らした。


「おいおいトミさん、勘弁してくれよ……」


 父がそっと目頭を押さえたのを、さくらは見逃さなかった。


「そうですよ。今はそんな話はやめましょう。せっかくのお祝いなんですから」


 蒼真はそう言うと部屋の奥へ歩き、小鍋を持って戻ってきた。
家の外にも香っていた山葡萄の蜜煮。

 それはさくらの好きな、母の得意料理だった。


「私のためにここまでしてくれるなんて…」


 思わず零れたその言葉に、部屋中から温かい笑い声が重なった。


「ばかね」


 茜がそっとさくらの肩に手を添える。



「さくらは、この村のみんなの希望の光なんだから」


 その言葉が胸の奥に染み渡り、思わず目を閉じた。
皆がうんうんと頷き、さくらを見つめ、その一挙手一投足を心待ちにしている。

 優しい母、尊敬する父、ちょっと生意気だけど可愛い弟。
頼もしい生駒と暖かな村の人たち、そして憧れの幼馴染み。

───これ以上のものが望めるだろうか。


「みんな……ありがとう」


 震える声に、確かな幸せが滲んでいた。





 祝宴は昼過ぎまで続いた。
村の人々が入れ替わり立ち替わり訪れては、さくらに祝いの言葉を贈っていく。

 ひとしきり挨拶を終え、ほっと一息ついたところで、蒼真がさくらの隣に腰を下ろした。


「改めて、おめでとう。さくら」

「蒼真も、ありがとう」


 蒼真は穏やかに笑みを浮かべながら、ひとこと添える。


「……お前が笑ってると、安心するよ」


 窓際から差し込んだ陽の光が一筋、さくらに差し込む。
その輪郭が淡く透けて、まるで光に包まれているようだった。

 さくらは蒼真の瞳をまっすぐに見つめ、にっこりと笑って言った。


「これからも……ずっと一緒にいようね!」


 その言葉に、蒼真はふと目を見開いた。
 わずかに息を呑むような間があった。けれど、すぐに笑って答える。


「――ああ、もちろん」





 その夜、さくらは父に呼び出された。
居間に足を踏み入れると、母と蒼真が並んで正座していた。どの顔も硬い。息の詰まるような沈黙が、部屋を満たしていた。

 さくらも、ただならぬ空気に押されるようにして膝を折った。
正面では父が、いつになく厳めしい背中を見せていた。ぴたりと動かないその肩が、やがて静かに振り返る。


「さくら」

「はい、父さん」


 それでも、さくらにはまるで心当たりがなかった。
昼間の祝宴の余韻がまだ、体のどこかに残っていた。
あの陽の光も、皆の笑顔も、さくらの中ではまだ、確かな“幸せ”だった。


「……急で、すまないが」


 言いながらも、父の目はまっすぐだった。
 けれど、さくらはまだ現実味を持てずにいた。宴のざわめき、温かな言葉たちが、記憶の底から浮かび上がる。

 そんな幸福が、今夜終わるなどとは――
 さくらは、ほんのひと欠片も想像していなかった。


「明日、お前は“あの屋敷”に渡る。百年に一度の…“花嫁”として」


 その一言を、聞くまでは。

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