第18話:エレイザーの絶望と“世界のバグ”顕現

『――ソフィア、この“希望の設計図”を…』


 アーヴィング博士の最後の言葉が、静まり返った聖域に響き渡る。

 再生されたソフィアさんの記憶は、あまりにも衝撃的な真実を俺たちに突きつけた。

 エレイザーが、そして「忘却の徒」が、長年にわたって破滅の元凶だと信じ、破壊しようとしてきたものは、世界を滅ぼすための禁断の知識などではなかった。

 それは、人類の過ちを乗り越え、知識と共存するための、未来への「希望」そのものだったのだ。


 その事実を目の当たりにしたエレイザーは、その場に膝から崩れ落ちた。

 その巨躯きょくは、まるで支えを失ったかのように、小さく震えている。


「馬鹿な…あり得ん…!アーヴィングが…あんなものを、たった一人で…!私は…私は、何という過ちを…!」


 彼の口から漏れるのは、後悔と絶望に満ちた慟哭どうこくだった。

 彼は、アーヴィング博士が再び暴走する「願望成就装置」を創ろうとしているのだと、完全に誤解していたのだ。そして、その誤解から、唯一無二の親友を、自らの手であやめてしまった。

 その取り返しのつかない罪の重さが、今、数十年の時を経て、彼の全身にのしかかっている。


「私が…私がアーヴィングを信じきれなかったばかりに…!彼の真意を確かめようともせず…!この手で…!この手でぇぇぇっ!!」


 エレイザーの絶叫が、聖域の壁にむなしくこだまする。

 その姿は、もはや世界の秩序を守ろうとする冷徹な指導者ではなく、ただ、犯した罪の重さに打ちひしがれる、一人の弱い人間だった。


          ◇


 エレイザーの精神が、絶望によって完全に不安定になった、その瞬間だった。

 聖域の空気が、まるで氷のように冷たく、そして重くなった。

 空間そのものが、何か不気味なものに侵食されていくような、嫌な感覚。

 彼の深い絶望と、長年溜め込んできた負の感情が、まるで呼び水となったかのように、この書庫の深淵しんえんに潜んでいた「何か」を呼び覚ましてしまったのだ。


『…ククク…素晴らしい絶望だ…それこそが真理…知識など、所詮しょせんは苦しみしか生まぬ…』


 どこからともなく、粘りつくような、不快な声が俺たちの頭の中に直接響いてきた。

 それは、男の声でも女の声でもない、複数の声が混じり合ったような、気味の悪い声だった。


「な、何だ…!?この声は…!?」


 俺が叫ぶと、瑠奈が顔面蒼白そうはくになって答えた。

「分からない…!でも、何かとてつもなく邪悪で、巨大な“意識”のようなものが、この空間に干渉してきている…!」


『私は、世界のバグ。知識が生み出した、究極の“エラー”だ』


 その声の主は、そう名乗った。

 それは、古代魔法文明の「願望成就装置」が生み出した、制御不能な「情報エントロピーの集合体」。人々の精神に寄生し、負の感情を増幅させ、知識の停滞と均一化を目的とする、負の概念存在そのものだった。

 ソフィアさんの声が、俺の頭の中に警告を発する。


『危険です、悠人様…!それは、この書庫の、いえ、この世界のことわりそのものを歪ませる存在…!』


          ◇


「世界のバグ」は、絶望に打ちひしがれるエレイザーの精神を乗っ取り、その強大な魔力を利用して、この世界に完全に顕現しようとしていた。

 エレイザーの体が、まるで黒い影に飲み込まれるように、不気味なオーラに包まれていく。彼の口から、彼のものではない、あの気味の悪い声が響き渡る。


『さあ、その絶望の力で、全ての知識を無にかえすのだ!知恵ある者どもが作り出した、このまわしき“書庫”ごと、消滅させてくれよう!』


 バグに乗っ取られたエレイザーが両手を掲げると、聖域全体が激しく揺れ動き、空間そのものが悲鳴を上げているかのようにきしみ始めた。

 その影響は、この聖域だけに留まらない。

 壁に設置されたモニターのようなものに、書庫の他のエリアの様子が映し出される。そこでは、本棚に並べられた本が、まるでインクが消えていくように、次々と白紙になっていく光景が広がっていた。

 知識そのものが、この世界から破壊され始めているのだ!


『知識は無秩序、情報はノイズ。全てを均一化し、完全なる静寂(停滞)を!』


 バグの狂的な叫びと共に、破壊の波動がさらに強まる。

 ソフィアさんのコアメモリからも、バチッと嫌な音が鳴り、その輝きが弱くなる。

『私の…私の記憶データが…!ノイズによって上書きされて…!』

 瑠奈もまた、頭を押さえて苦悶の表情を浮かべていた。

「鑑定が…できない…!情報そのものが…破壊されている…!?」


 このままでは、瑠奈も、ソフィアさんも、この書庫も、そして俺たちが必死で集めてきた全ての知識も、何もかもが消えてしまう。

 世界そのものが、意味のない、ただのっぺりとした「無」に還ってしまう。

 そんな絶望的な未来が、俺の脳裏をよぎった。


          ◇


 その、全てが終わりに向かっていくような状況の中で、俺の《ゴミ拾い》スキルだけが、異常な反応を示していた。

 俺の目には、「世界のバグ」が実体化する際に、エレイザーの体から、そして周囲の空間から吸収している「歪んだ情報エネルギーの凝縮体」が、おびただしい数の「黒く光るゴミ」として見えていたのだ。

 それは、これまで感じたことのないほど強烈な“悪臭”と、聞くに堪えない“不快な声”を伴う、まさに「最悪のゴミ」だった。


 このままでは、全てが終わる。

 俺に、何ができる?

 この役立たずの《ゴミ拾い》スキルで、一体何ができるっていうんだ?

 一瞬、諦めの感情が心をよぎった。

 だが、俺は首を振る。違う。諦めちゃいけない。

 瑠奈が信じてくれた。ソフィアさんが託してくれた。俺のこの力は、無力じゃないはずだ。

 拾う力。そうだ、俺のスキルは、「拾う」ことができる。

 どんなものでも。例えそれが、概念的な存在であろうとも。


 俺は、覚悟を決めた。

 その「最悪のゴミ」を、俺が“拾って”やるしかない。


「うおおおおおおっ!!」


 俺は、心の底から叫びながら、無謀にも、「世界のバグ」が放つエネルギーの奔流の中心に向かって、その右手を伸ばした。

 そして、その「歪んだ情報エネルギーの凝縮体」を、俺自身の精神世界に、無理やり取り込もうとしたのだ。


「相馬君、無茶よ!そんなことをしたら、あなたの精神が…!あなたまで、バグに飲み込まれてしまうわ!」


 瑠奈の悲痛な叫びが、遠くに聞こえる。

 だが、もう止まれなかった。止まる気もなかった。

 俺の手が、黒く光るエネルギーの渦に触れた瞬間、俺の意識は、底なしの暗闇へと引きずり込まれていった。

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