市松宗二の後始末

堀勃男

第1話

 午後8時、運動部もすでに帰り、学校には自分しかいない。こんな時間に居残りが許されているのも、今までの行いがあってのことだろう。


 無駄に広い部室で、瓶を閉めるような音を立てて雑巾が床を滑る。汚れが取れたあかしだ。そうして僕は掃除を終えると、カバンを背負い部屋を出ようとする。


 そこでふと、我に返る。


 …なんで僕は掃除をしていたんだっけ。


 夜遅くまで部室に残って掃除をするのはいつものことだ。いつも通りの時間、いつも通りの段取り。でも、今日は……何かが、違う。いや、違うはずだった。だって僕は、「彼女」に頼まれて…


安堂あんどう明美あけみは、もういない』


 僕が、掃除をしたからだ。



 それは、一昨日か、そこらのことだった。

 その日の放課後も、僕は掃除をしていた。


 部室ではなく、教室だ。

 クラスのやつらに押し付けられて、仕方なく──いや、たとえ押し付けられなくても、僕はどうせ掃除をしていただろう。


 だから結局、どっちでもよかった。


 僕は掃除が好きだった。

 都合のいいように使われるのは確かに不快だったけど、それでも、掃除そのものは好きだった。


 窓の外がオレンジ色に染まりかけたころ、僕の背後から声がした。


「あんたって、本当に掃除ばっかしてるのね」


 顔を上げると、安堂明美が立っていた。


 特徴的な長い髪に、泣いた跡のように荒れた目元。

 常にひねくれた態度で人と接し、話せば必ず論争になる。

 そして、決まって彼女が勝つ。


 ……いや、正確には、相手が呆れて黙るだけだが。


 顔はかなり整っていて、たしかに可愛い。

 でもその性格ゆえに、クラスでは浮いた存在だった。


「掃除、好きなの?」


 彼女は、立ったまま僕を見下ろしながら言った。


「まあ、それなりには」


 僕は、できるだけ関わりたくないという気持ちを抑えて、そう返した。


「へぇ。得意なの?」


「自信はあるよ。道具さえあれば業者くらいのことはできると思う」


「ふーん…」


 そこで会話は途切れた。

 けれど彼女は、まだ僕から興味を失っていない様子だった。


 何か言いたげな沈黙。じれったい。

 用があるなら、早くしてほしい。


 そんな苛立ちが顔に出ていたのかもしれない。

 僕と目が合うと、彼女はふっと口元を歪めて、言った。


「ねぇあんた、そんなに自信があるならさ―――」


「死体も処理できる?」


 止まらない、とめどなく記憶の濁流が、脳を無造作に駆け巡る。


 彼女は飛んだ。ついさっき、今よりほんの数時間前。

 校舎の裏手、誰もいない時間、僕がちょうど部室でモップをかけていたとき。


 音がした。何かが割れるような、潰れるような音だった。

 窓の外を見たとき、彼女と目が合った──落下の、ほんの直前。


 言葉ではなかったけど、あの目は確かに訴えていた。


「あんた、できるでしょ?」


 妙に印象に残った、あのときの会話。質問には答えられなかった


 ふと、後ろを振り返る。


 雑巾はきちんと洗われ、バケツの水は澄んでいた。

 血の臭いも、髪の毛も、残っていない。


 なのに、なぜだろう。


 指先にこびりつく感触だけが、落ちない。


 罪悪感から僕は吐いた。


 胃液が喉を焼く。酸っぱい臭いが鼻を突き刺す。


 吐いたのに。

 まだ何かが、残っていた。


 彼女の無責任な頼みに、僕は答えてしまった。


 むせび泣き、地面に寝ころびうずくまる。


 罪の意識が体をつたる。


 どうやって処理したのか、僕は知らない。

 だけどそれは、確かに“僕”がやったのだ。


 なら僕は、いったい誰なんだろう?


 こんなことができる“僕”は、いつからここにいた?


 誰かに見られたかもしれない。

 でも、それもすべて拭き取ったような気がする。


 なにより、僕の指にだけ──

 誰も知らない“彼女の感触”が、べったりと貼りついていた。


『掃除』の痕跡は、ここ以外には見当たらない。

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