第二話
起きると屋根を通して雨が降っているとわかった。一昨日、人を殺したのに世界は僕を受け入れてくれる。お互い思春期だったからだろうか、千代子は親に僕と祭りに行くことを言ってなかったみたいだ。
いつかの高揚感はすっかり消え失せ、残ったのは理性や倫理観で抑え込むことができなかった野生の猿だった。欲を満たす一回一回でこんな感情に襲われてしまったら、どうしようもない。何というか効率が悪い気がした。やはり僕は神にも仏にも体の構造にも否定されているのだろう。しかしなぜ、殺人事件が消えない?そう思うと全ての歴史から肯定されたような気がした。
ガタンという音に反応して少し布団に罪を隠すように身をくるめた。
「もう起きなさーい」安全だった。
あの時は自分が正しいと思っていたが、今は違う。局所的に降りかかる正義は止んだのだ。はーいと口調を真似て返答をする。
いつもと変わらなかった。
居間には珍しく朝から父が居た。
父は普段、軍事工場で働いているためすごく忙しい。
新聞を読んでいた。
途端に心臓の位置が浮き彫りになった。
たくさんの雨が降っている。しかし濡れない。
その雨の中には父と僕だけがいた。
雨が強く地面を打ちつける。
重い鉛玉を付けられて海へと投げ出された。
呼吸をしようとするが入ってくるのは、海水だけだった。
普通の人間には水の中で呼吸することなどできやしない。
少し重たい男が僕にのしかかっている。
笑いながら、一発一発重たい拳が降り注ぐ。
正義の鉄拳だ。
「キヨシ、お前、一昨日、どこ、いってた。」
父さんの口から雑巾を絞るように少しずつ言葉が出て、僕を蝕む水たまりとなった。
寝耳に水だった。
また雨の音が大きくなる。
局所的正義が降り注ぐ。
「ま」
一言目はフッと蒸発し宙に消えた。一気に発音すればよかった。
「まつり」
どう考えても動揺していた。
肋骨を何かが勢いよく叩く。
その何かが飛び出しそうだった。
「千代子ちゃんとは会ったのか?」
黒雲から雷が降りそそいだ。
「いや」
「あ、ってない。」
「そうか」
父は新聞を閉じ書斎へと向かった。
雨はまだ止まない。
新聞を見ると『千代子ちゃん失踪‼︎祭りの日にどこへ⁉︎』という見出しが目を刺した。
雨音が止んだ。
心音だけが淡々と動揺を伝える。
水圧に押されて泡沫のみが口を通り過ぎる。
ゆっくりと水圧が上がっていく。
さっき吐き出した泡はもうない。
全身が圧迫される。
息ができない。
段々と二酸化炭素が身体中を埋め尽くしていく。
「早く食べないと遅刻しますよ。」
海底二千メートルから一気に陸地へ引き上げられた。
今日は夏休みに一度だけある出校日だった。
二酸化炭素を必死に体から追い出す。
なぜこういう時は息を吐くのだろう。
早く酸素が欲しいのに。
傘を差し、黄土色の道を踏みつける。ふと気づけば、黒い新品が土の色になっていた。こうやってお気に入りから外れていった。
霧の中からこちらをのぞいている校舎の前には沢山の警察官がいた。
強く降り注ぐ雨の音と酷く怯える心臓の音が重なった。
「どうしたの?行かないの?」
雨の音が心臓の音に追い越された。
もう構わないでくれ。と思いながらも、学校へ構ってもらいに向かう。
今日も幸子ちゃんはしつこい。いつにも増してしつこい。いつも同じしつこさかもしれないけど、今日、今、この状況では、女の子に構ってもらえる嬉しさが裏返って殺すほど鬱陶しかった。殺す。言葉の軽みが違う。一度持ち上げてしまえば、その後は何度も上げ下げできるくらいには軽くなっていた。
「千代子ちゃんの話聞いた??」
「うん。失踪だってね。」
「あんた、仲良かったよね??」
「うん。すごく心配。」
「元気ないね??」
「うん。そりゃ。」
「ね。」
「来週暇?」
「うん。」
いつにも増してしつこい。そして心配の布をかけたランタンからは少し嬉しさの光が滲み出ていた。
「ふーん」
「ねえ、今度の祭りさ、いっしょに行かない??ダメ??」
対比された雨音が大きくなる。そして無音になった。
二人きり。遅刻ギリギリの、この時間。
数歩の間無言が続いた。
途端に幸子が可愛らしく見えた。砂浜で白いワンピースと麦わら帽を着た幸子が可愛らしく微笑んで、僕を呼んでいる。その呼びかけに答えてか股の間の何かが頭角を露わにした。
幸子はいつもとは変わらないはずだった。幸子は何も変わっていなかった。
変わったのはその後ろにあった背景だった。
「いいよ、靖村神社のやつね、朝から行こ。」
来週。また俺は殺、人を犯す。
「ほんと?やったー!」
喜ぶ姿が愛おしかった。真夏の砂浜。僕がものすごく綺麗な貝殻を取ってきた時もこんな可愛らしい表情をしてくれるのだろうか。
濡れた傘の水を他に押し付け、土間に靴下まで水が染み込んだ靴を放る。
上履きは湿気でキュッキュッと耳障りな高い音を出していた。
二回目。
あと何回数えられるのだろう。
夏休みの日記みたいに途中で数えるのをやめてしまいそうだ。
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