企画参加短編:『定年退職と再雇用~最近、家には居場所が無いので学校の面倒事を何でも引き受ける昭和生まれの先生の物語』

江口たくや【新三国志連載中】

第1話 第一線を退いた元教師、一念発起して再び学校へ

「8時になりました。ニュースの時間です」


 この時間に家にいるようになってからは、毎朝のニュースをゆっくりと観ることが出来るようになった。


「市の、新たなイベントとして注目を集めている、サンバの大会が市民ホールで開かれ、華やかな装いの選手たちが、それぞれの練習の成果を競い合いました」


「あら、お父さんが若い頃やってた奴じゃない? 出れば良かったのに」

 茶碗洗いをしながら妻が言った。

「違うよ。こんなふりふりの衣装で俺が踊ってる訳ないだろう。俺のは『サンボ』だよ」

「あら、そう」

 興味が無さそうな返事だった。辞めてから何年経つだろう。やろうと思えば出来る技もありそうだが、このすっかりお腹に乗った肉では機敏に動けるかどうか。


「続いてのニュースです」

 視線をテレビに戻した。


「全国の小中高などの学校でいじめの重大事態として認定された件数が、2023年度、過去最多となったことを受けて、政府ははいじめが重大化していく要因の分析などを進めるための、専門家による初めての検討会議を開きました」


 嫌なニュースだ。

 務めていた小学校では、さすがにこういう事件沙汰になるようなものは起きていなかった。だがそれでも、年々不登校児童が増えているというのは、担任を持っているとひしひしと感じたものだった。子どもたちは繊細になり、教師の見えないところでいじめが行われ、保護者の要求も多様化し、家庭訪問の形も時代と共に姿を変え、若い教諭も心身の不調でダウンすることがしばしばあった。


「2023年度、全国の学校で把握されたいじめの件数は73万2568件で、このうち、いじめによる自殺や不登校などの「重大事態」と認定された件数は1306件にのぼり、いずれも過去最多となりました」


 やるせない。

 この手の報道は憤りよりも、虚しさを感じさせる。


「こども家庭庁と文部科学省はこれを『極めて憂慮すべき状況』だとして――」


 昭和の時代や、平成初期の子ども同士のケンカとは訳が違う。今の時代のいじめは、犯罪の矮小表現でしかない。定年退職して幾久しいが学校のニュースが流れる時は、つい見入ってしまうのは職業病かもしれない。


「来年度中に分析結果や学校現場や教育委員会がとるべき対応についてまとめ、いじめの未然防止に活用していきたいとしています」


「あぁ、職業病じゃないか。もう先生退職してるからな」

 小さな独り言。当たり前のように職業病だなどと頭に浮かぶ当たり、長年教壇に立ってきた経験は、思った以上に自分の血肉になっているらしい。

「ほらお父さん、掃除機かけるんだからどいて!」

 妻の怒鳴り声が響いた。勘弁してほしい。そんな大声を出さなくても、昔から耳はいいのでちゃんと聞こえる。

「はいはい」

「早く立つ!」

 退職してから、妻の機嫌は露骨に悪くなったのを感じる。そんなに夫婦揃って家にいるのがストレスなのだろうか。これが噂に聞く熟年離婚の温床というものかと思いながら、座布団と一緒にテレビの前から隣の部屋に移った。




 翌日。


「お父さん、朝ごはん食べた食器とお釜、洗っておいてね。あたし、今日はやっちゃんとみっちゃんと岩盤浴だから」

「あー、はいはい。朝は早くからご苦労様です」

「食べたまま流し台に置きっぱなしにしないでね? できる? 茶碗洗い」

「やりますよ。できますよそのくらい」

 さすがに馬鹿にしすぎではないか。とはいえ、後でやろうと思って忘れていたことが過去に何度もある。疑われても致し方ない。

「じゃあ、行ってきます」

「はいはい。楽しんで」

 振り返りもせず、出かけていく背中を見送る。やっちゃんとみっちゃん。恰幅の良い工務店の奥さんがやっちゃんで、眼鏡をかけたデパート務めのしゅっとした方がみっちゃんだっただろうか。もしかしたら逆かもしれない。確か二人とも、高校の同級生と言っていたはずだ。年齢のせいか、人の顔は覚えられるのに名前が全然頭に入ってこない。

 さすがに今日はやっておかないと、きっと季節外れの雷雨が自分の頭上だけに落ちて来そうなのでスポンジに洗剤をつけて泡立てた。


「続いてのニュースです」


 このキャスターは声が良い。低いが、よく通る。


「市立中学校で、当時中学2年生の男子生徒がいじめを訴えて自殺したのは、学校側が対応を怠ったためだとして、生徒の両親が市に損害賠償を求めていた裁判で、市が、いじめを防止する措置が不十分だったと認め、両親に謝罪するなどの内容で双方が和解する意向を示していることが分かりました」


 見間違いようが無かった。モザイクがかかっているが、あれは二つ前に勤めていた学校の校舎だ。食い入るように画面を見つめる。


「3年前、当時中学2年生の男子生徒が、いじめを訴えて自殺した問題をめぐっては、去年9月、生徒の両親が同級生からのいじめ被害を学校側に訴えていたにもかかわらず、適切な対応を怠ったなどとして、市に対して、およそ8,500万円の損害賠償を求める訴えを起こしていました」


 こんな身近で、こんな事件が起きていた。止めることは出来なかったのか。

 学校現場はどうなっているんだ。自分が見てきたものはほんの一部で、こんなにも凄惨な世界が広がっていたというのか。

 やるせない後悔。無力感。

 気づくと、携帯電話のアドレス帳から、教育長の電話番号を探していた。教育長は、若い頃ばちばちやりあった間柄だったが、年齢を重ねてからはむしろ打ち解け合い、互いによき理解者同士になっていた。

「あ、もしもし。久しぶりだな。ああ、突然すまん」

 電話の向こうの声は、驚きと同時に嬉しそうだった。

「どこもかしこも人手不足だろう。臨時でいい。俺を使ってくれないか」

 定年に達した教師がそのまま働き続けることは、よくあることだった。若い職員と比べて、そりゃあ体力は劣るだろうが、経験も知識もある。

「もし、空いてるならなんだけど、希望したい学校があるんだ」

 この目で見なければならない。そんな使命感で言葉が口から飛び出ていく。

 やっぱり、職業病かもしれない。

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