第38話 グッバイ沢辺よ永遠に
東京から戻った翌日。ようやく手に入れた平穏を噛みしめ、俺が、新しくなった庭の掃き掃除をしていると、帳場の方から、小町ちゃんの困惑した声と、聞きたくもない、甲高い男の声が聞こえてきた。
「だから、ここのオーナーと知り合いなんだって! 俺は、俊先輩の、大親友なんだよ!」
俺は、静かにため息をついた。
居間に向かうと、そこには、派手なブランドもののシャツを着こなし、高圧的な態度で小町ちゃんに絡んでいる、かつての後輩・沢辺の姿があった。
そう、俺から絵麻を寝取った男だ。
「ですから、ご予約をいただいていないと、お部屋の用意は……」
「いいから、俊先輩を呼べって言ってんだよ!」
沢辺は、俺の姿を認めると、にやついた顔で駆け寄ってきた。
その時、俺の隣に、いつの間にか立っていた椿さんが、氷のように冷たい目で沢辺を一瞥し、俺にだけ聞こえる声で囁いた。
「どうしますか? 排除しますか?」
その、あまりにも物騒な提案に、俺は首を横に振る。そして、沢辺に向かって、どこか貼り付けたような、しかし完璧な笑顔を向けた。
「沢辺じゃないか。久しぶりだな。せっかくだから、泊めてやろう」
◇
客室に沢辺を案内した後、小町ちゃんが、心配そうに俺に詰め寄ってきた。
「お兄ちゃん、いいの!? あの人って、お兄ちゃんの彼女盗った人やんね!? なんでそんな人泊めるの!?」
「いい、構わん」
俺は、ただ静かにそう答えるだけ。その、あまりにも落ち着いた俺の態度に、小町ちゃんは、逆に不安そうな顔をしている。
そこへ、当の沢辺が、浴衣姿でやってきた。そして、まるで旧友のように、俺の肩に馴れ馴れしく腕を回す。
「さっすが先輩、話がわかるー! まあ、昔のことは水に流しましょうや。俺もあのあと、絵麻とは喧嘩して別れたんで、これでチャラっしょ」
その、あまりにも身勝手で、下衆な言い分。
俺の心の中では、東京の辛い記憶と共に、冷たい怒りの炎が、静かに燃え上がっていた。
しかし、俺の表情は、完璧な笑顔のままだった。
その様子を見ていた郁美さんが、俺の元へやってくる。
「……どういうつもりだ?」
彼女は、何かを察したように尋ねる。俺の笑顔の裏にある、確かな意図を。
俺は、帳場のタブレットに表示された、沢辺の宿泊プラン名を親指で示す。
それを見た郁美さんの目が、一瞬だけ、大きく見開かれた。そして、全てを理解した彼女は、ニヤリと、本当に楽しそうに笑った。
「……って、おまえまさか」
「そのまさかさ」
◇
沢辺は、ダンジョンについて、何も理解していなかった。
彼が、自慢げに申し込んだのは、なんと、一般客プランではなく、探索者用の「サンクチュアリ・パスポートプラン」。彼は、この聖域を、ただの金儲けの場所にしか見ていなかった。
「先輩、動画見ましたよ。まあ、先輩でもいけるダンジョンなんて、俺なら余裕っしょ。俺、昔から喧嘩で負けたことないし」
そう言って、彼は、自信満々でダンジョンの中へと入っていく。
俺は、そんな彼に、ただ「頑張れよ」と、最高の笑顔で見送った。
数十分後。
ダンジョンから這い出てきた沢辺の姿は、見るも無残なものだった。
高級だったはずの服はズタボロになり、顔も身体も、スライムの粘液と泥で汚れ、至る所に青痣を作っている。
彼は、たった一体のスライムに、文字通り、ぼこぼこにされたのだ。
しかし、それ以上に、彼の内面が激変していた。
初めてダンジョンに入ったことで、彼の身体に眠っていた魔力受容体が覚醒し、彼は、世界の「本当の姿」を、肌で理解できるようになった。
そして、目の前で、にこやかに自分を待っている俺を見る。
その、穏やかな笑顔の奥に渦巻く、底なしの、神の領域の魔力を。
自分が、どれほど愚かで、どれほどちっぽけで、そして、どれほど恐ろしい相手に喧嘩を売ってしまったのかを、ようやく、心の底から理解したようだった。
「どうだった、うちのダンジョンは?」
俺が、ただ、にっこりとそう尋ねただけで、沢辺の膝は、ガクガクと笑い出した。彼は、その場にへたり込み、腰を抜かした。
「せっかくだから、温泉にも入って、ゆっくりしていけよな」
俺は、そんな沢辺に、優しく手を差し伸べる。
その手に、指が触れた瞬間。沢辺は、俺の持つ力の奔流を、その魂に直接感じ、恐怖のあまり、絶叫した。
「す、すみませんでしたああああああああ!!!! もう二度と逆らいませんから! 勘弁してくださあああああい!!!!」
彼は、そのまま俺の手を振り払い、金も払わず、荷物もその場に放り出して、命からがら旅館から逃げ出していった。
その、あまりにもみっともない背中を、俺は、本当に、心の底から楽しそうな笑顔で見送っていた。
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