第13話 最初のお客


 嵐が過ぎ去った後の朝は、嘘のように静かだった。

 昨夜の大宴会の名残である、酒と料理の匂いが混じり合った空気を吸い込みながら、俺たちは黙々と後片付けをしていた。散らばった座布団を集める小町ちゃん、空になった一升瓶を片付ける俺、そして、少し寝不足気味の頭を抱えながらも、的確な指示でゴミを分別していく郁美さん。この数日で、この奇妙な三人の生活が、早くも当たり前の日常になりつつあった。


「それにしても、敦のやつ、飲みすぎだ」

「ふふ、でも楽しそうやったね、お兄ちゃん」

「まあな……」


 昨夜の喧騒を思い出し、俺は自然と笑みをこぼす。おじさんの言葉が、まだ胸の奥で温かい重みを持っていた。守るべきものがある。その事実が、今の俺を支えていた。


「田舎のコミュニティというものは、実に厄介だな。排他的でありながら、一度懐に入れた者への結束力は、ある意味で大手ギルドのそれより強固かもしれん。私はああいうのは苦手だ。だから少し離れた町のほうに住んでいたのだがな……」


 郁美さんが、専門家として冷静に分析しつつも、その口元はどこか楽しそうに歪んでいた。

 そこへ、「みんな、昨日は楽しそうやったねぇ」と、少し疲れた、しかし満足げな顔で母さんが現れた。


「母さん、もっと寝てていいのに」

「何言うとるの。ささ、朝の掃除をせんと、お客さん迎えられんよ」


 俺たちが止めるのも聞かず、母さんは長年使い込まれたハタキと、年季の入った木製の脚立を持ち出してきた。そして、旅館の高い場所にある、美しい彫刻が施された欄間の埃を払おうと、その古い脚立にひょいと登る。


「母さん、危ないから俺がやるって。昨日も無理したんだから」

「これくらい、毎日やっとることやから大丈夫。俊は休んどき」


 母さんはそう言って、優しく笑った。

 俺が、片付けのために一瞬だけ目を離した、その時だった。


 ギシッ、という木が軋む嫌な音。

 小町ちゃんの「あ!」という短い悲鳴。

 そして、ドサッ!という、肉が床に叩きつけられる鈍い音が、静かだった旅館の朝に響き渡った。


 俺が振り返ると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 ばらばらに砕けた脚立の横で、母さんがぐったりと倒れている。その額からは、どくどくと生々しい血が流れ、腕は明らかに不自然な方向に折れ曲がっていた。ピクリとも動かない。意識がないのは、一目見て分かった。


「おばちゃん! しっかりして! おばちゃん!」


 小町ちゃんの絶叫が木霊する。郁美さんは即座に駆け寄り、脈拍や呼吸を確認すると、血の気の引いた顔で叫んだ。


「救急車を呼ぶ! だが、この場所じゃ到着まで最低でも20分はかかるぞ!」


 その言葉が、俺に絶望的な現実を突きつける。

 頭が、真っ白になった。

 血の気が引き、指先が急速に冷えていく。昨夜、守ると誓ったばかりなのに。俺がいるせいで、母さんはいつも以上に張り切っていたのかもしれない。俺のせいだ。

 規格外のパワーも、S級の魔石も、目の前で命の火が消えかけている母を救うためには、何の役にも立たない。圧倒的な無力感に、膝から崩れ落ちそうになった。


 ――お母ちゃんを、がっかりさせやんとったれな。


 おじさんの言葉が、脳内で木霊する。

 そうだ。ここで諦めて、どうする。


「どけ!」


 俺は、郁美さんが「下手に動かすな!」と叫ぶのも振り切り、倒れた母のそばに駆け寄った。

 その傷だらけの身体に、祈るように、すがるように、そっと両手をかざす。

 スキルを使おうなんて、そんな意識はなかった。

 俺にスキルなんてものが、使えるとも思わなかったしな。

 ただ、大切な人を救いたい。その魂からの純粋な願いだけが、俺の全てだった。


「頼む……助かってくれ……! じいちゃん、母さんを……この旅館を、俺に……!」


 その願いに応えるかのように、俺の両手から、温かい、柔らかな金色の光が溢れ出した。

 優しい光が、母さんの身体をゆっくりと包み込んでいく。

 すると、額から流れていた血はすうっと止まり、パックリと開いていた傷口は、まるで早送りの映像のように、跡形もなく塞がっていった。不自然に折れ曲がっていた腕も、こきり、と微かな音を立てて、あるべき正しい位置へと戻っていく。

 その非現実的な光景に、小町と郁美は言葉を失っていた。


 やがて、金色の光が静かに消える。

 母さんは、「ん……」と小さく呻くと、ゆっくりと目を開けた。


「……俊? どうしたん、みんなしてそんな顔して……。あれ、私、確か脚立から……?」


 彼女は、何事もなかったかのように、むくりと身を起こした。その身体には、傷一つ残っていなかった。

 俺は、自分の両手を見つめる。まだ、あの奇跡の温もりが残っている気がした。

 小町ちゃんは、その場にへたり込み、安堵から声を上げて泣きじゃくっている。

 郁美さんは、眼鏡の奥の目を見開き、震える声で呟いた。


「治癒魔法……。それも、聖職者でもない者が、これほどの高位治癒を、祈りだけで発動させるとは……。お前の遺伝子には、一体、何が記録されているんだ……」


 俺は、きょとんとしている母さんの無事な姿と、自分の両手を交互に見つめる。

 そして、はっきりと理解した。

 この力は、ただ敵を倒し、何かを破壊するためのものではない。

 大切なものを、この手で守り、癒すための力なのだと。

 俺の心に、昨日よりも強く、そして温かい、新たな決意が宿った瞬間だった。




 

 翌朝から、奥谷旅館は本当の戦場と化した。

 ジリリリリン! と、鼓膜を突き刺すように鳴り響く、古びた黒電話。その音に、俺たち三人の肩がびくりと震える。もはや、それは懐かしい昭和の音ではなく、空襲を告げるサイレンのように聞こえた。


「は、はい! 奥谷旅館です! ……あ、いえ、大変申し訳ありません、現在新規のご予約は停止しておりまして……。はい、再開の目処は……」


 小町ちゃんが、昨日から何度繰り返したか分からない言葉を、疲れ切った声で紡いでいる。

 俺のスマホも、旅館のメールボックスも、SNSのDMも、国内外からの問い合わせで完全にパンクしていた。


「狂気の沙汰だな……」


 帳場の隅でノートパソコンを開いていた郁美さんが、こめかみを押さえながら呟く。彼女の画面には、アクセス解析のグラフが、ありえない角度で天を突いていた。


「メールでの問い合わせだけで5000件を突破。うち三割は海外からだ。大手ギルド、有名配信者、果てはどこぞの国の王族を名乗る者までいる。お前は、世界中の物好きの的になったわけだ」

「やめてくれ……」


 もはや、自分の身に何が起きているのか、理解が追い付かない。

 そんな中、俺はふと、帳場の片隅に置かれた、埃をかぶった古い予約台帳に目をやった。母さんが、一文字一文字、丁寧に書きつけていた台帳だ。パラパラとめくると、一ヶ月前の日付のページに、その文字はあった。


『田中様 三名様』


「……今日だ」


 俺の呟きに、小町ちゃんと郁美さんが顔を上げる。


「このお客さんだけは、この騒動とは関係ない。ただの『奥谷旅館』を選んでくれた、『普通のお客様』だ」


 その瞬間、三人の間に、言葉にはならない一つの決意が生まれた。


 

 


「我々の当面の使命は、このカオスの中から、田中様ご一家の穏やかな休日を、断固として守り抜くことだ」


 郁美さんが、まるで軍の作戦司令官のように、きっぱりと宣言した。

 俺たちは、旅館の入り口に「本日は満館となっております。ご予約のない方の立ち入りは固くお断りします」という、郁美さんが毛筆で書いた達筆すぎる看板を立てた。

 そして、最高の「おもてなし」を提供するため、三人で旅館の隅々まで磨き上げていく。

 小町ちゃんは持ち前の明るさと手際の良さで、客室に可憐な野の花を飾り、俺は慣れない手つきで風呂を洗い、庭の落ち葉を掃いた。旅館の仕事の難しさと、これを一人でこなしてきた母への尊敬を、改めて胸に刻む。

 その様子を、郁美さんは「私は客商売の専門家ではないからな」と最初は傍観していたが、俺の非効率な雑巾の絞り方を見かねて、「貸せ。こうやるんだ」と、いつの間にか掃除を手伝っていた。


 夕方、一台のファミリーカーが、旅館の前に停まった。

 その少し手前の道には、いかにも怪しい黒塗りの車や、望遠レンズを構える人影がちらほらと見える。

 車から降りてきた人の良さそうな父親、優しそうな母親、そして元気な男の子の一家は、その異様な雰囲気に少し驚きつつも、どこかワクワクしているようだった。


「いやあ、すごいことになってますね! 一ヶ月前に予約した宿が、まさかこんな日本中が注目するスポットになるなんて、僕たち、すごくラッキーですよ!」


 父親――田中さんが、興奮気味にそう言った。

 その反応に少し拍子抜けしつつも、俺たちは最高の笑顔で深々とお辞儀をした。


「田中様、ようこそ奥谷旅館へお越しくださいました。外が少し騒がしくて申し訳ありません。館内では、ごゆっくりおくつろぎいただけますよう、万全を期しておりますので」



 


 客室に通された一家は、静かで趣のある古民家の雰囲気に、心から安堵したようだった。

 縁側から見えるのは、穏やかな田園風景と、その日常にそびえ立つ、あまりにも異様なダンジョン。

 夕食は、友人たちが持ってきてくれた地元の食材をふんだんに使った、素朴だが心のこもった料理を並べた。一家は「おいしい、おいしい」と、本当に嬉しそうに舌鼓を打つ。


「実は動画、何度も見ちゃいましてね」


 食事中、父親が楽しそうに切り出した。


「戦闘シーンはCGか何かかと思いましたけど、それよりも、この旅館の佇まいや、奥谷さんたちの雰囲気がすごく良くて。最初は、話題になりすぎてて、キャンセルするかも迷ったんです正直……。でも、ここなら、ゆっくりできそうだと思って来たんです」

「え……」


 その言葉に、俺はハッとした。

 俺たちが意図しなかった形で、旅館の「本来の魅力」が、ちゃんと伝わっていた。

 戦いやダンジョンだけが全てじゃない。この穏やかな時間、美味しい食事、そして客人の笑顔こそが、俺が本当に守りたかったものなのだと、改めて気づかされた。


 その夜、母親の田中さんが「記念に」と、楽しそうにスマホで写真を撮っていた。

 そして、一枚の写真と共に、SNSにこう投稿した。


『泊まれてラッキー!今話題の『ダンジョン旅館』こと奥谷旅館さんに来ています✨予約停止中みたいだけど、私たちは前から予約してたので入れました!噂と違って、中はすごく静かで、ご飯も最高です💖 #奥谷旅館 #ダンジョン旅館 #秘湯 #福井』



 


 翌朝、田中さん一家は、心から満足しきった顔でチェックアウトの準備をしていた。

 その時、母親が自分のスマホを見て、嬉しそうに声を上げた。


「まあ、大変! 昨日の投稿の『いいね』が、止まらないわ!」


 一家が「本当に素晴らしいお宿でした。また必ず来ますね」という言葉を残して去っていった後、俺たち三人は、恐る恐るその投稿を確認した。

 瞬く間に数十万の「いいね」を獲得し、その投稿は爆発的に拡散されていた。コメント欄は、驚愕と羨望の声で溢れかえっている。


『え、どうやって予約したんですか!?』

『ここ、今日本で一番予約が取れない宿だぞ』

『ガチの招待制だったのか……』

『選ばれし者しか入れない聖域か……』

『この家族、何者なんだ……』


 俺は、スマホの画面に映る熱狂と、しんと静まり返った我が家の旅館を交互に見つめる。

 旅館を再生させたい、というささやかな願い。それが、俺たちが意図しない形で、とんでもない熱を帯びて独り歩きしている。

 この古びた旅館は、今や「誰もが泊まりたいと願う、予約の取れない伝説の宿」へと、変貌し始めていた。

 その事実に、俺は喜びよりも先に、途方もない眩暈を感じるのだった。






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