第5話 暗黒の木曜日

健太は、ニューヨークでの生活に、ある程度は順応し始めていた。古着屋で手に入れた当時の服を身につけ、安宿の一室を借り、日中は新聞を読み漁り、夜はアルバイトでわずかな賃金を得ていた。彼の目撃者としての役割は、着実にこの時代の空気感を肌で感じることだった。ウォール街の喧騒は相変わらずだが、人々はどこか浮ついた足取りで、未来への根拠のない自信を抱いているように見えた。しかし、健太の心には、常に不吉なカウントダウンが響いていた。


そして、その日は突然訪れた。


1929年10月24日、健太はいつものように、朝食を摂りながら新聞に目を通していた。朝刊の見出しは、昨日までと変わらず、楽観的な論調だった。だが、彼の胸騒ぎは、朝からひどく、心臓が常に警鐘を鳴らしているかのようだった。彼は、宿を出てウォール街へ向かうことにした。まるで、磁石に引き寄せられるかのように、彼の足は自然とそちらへ向かっていた。


ウォール街に近づくにつれ、普段とは違う異様な雰囲気が健太を包み込んだ。いつもの活気ある人々のざわめきではなく、どこか不穏なざわめきが聞こえてくる。それは、まるで嵐の前の静けさのような、しかし、確実に何かが起こりつつあることを告げる音だった。


証券取引所の前の通りは、朝からすでに人でごった返していた。いつもは興奮した歓声が飛び交う場所が、この日は緊張した沈黙に包まれている。人々は、固唾を飲んで、取引所の窓を見上げている。そして、時折、誰かの絶叫が響き渡り、それがまた、人々の不安を煽る。


健太は、人々の顔を食い入るように見つめた。そこには、昨日まで見たことのない恐怖と絶望の色が浮かんでいた。彼の脳裏に、歴史の教科書で学んだ「暗黒の木曜日」という言葉が、稲妻のように閃いた。


「来る…!」


彼の予感は、的中した。


午前11時、突如として取引所の中から、地鳴りのような怒号が響き渡った。続いて、ガラスが割れるような音、そして、何かが崩れ落ちるような鈍い音。人々は一斉にざわめき、その声はたちまち、絶叫へと変わった。


「株価が暴落してる!」

「嘘だろ!?ありえない!」

「買ってくれ!誰でもいい、買ってくれ!」


これまで見たことのない、パニックの嵐がウォール街を襲った。人々は、我先にと取引所へ押し寄せ、情報を求め、あるいは自らの持ち株を売却しようと躍起になった。しかし、誰もが売りたがり、買い手はほとんどいない。株価は、まるで制御を失ったかのように、ジェットコースターのように急降下していく。


健太は、人々の顔がみるみるうちに青ざめていくのを目撃した。昨日まで、未来への希望に満ちていた顔が、一瞬にして絶望と混乱の表情へと変わっていく。中には、その場で座り込み、頭を抱えて泣き出す者もいた。信じられない、信じたくないという悲鳴が、ウォール街全体を覆い尽くした。


「俺の金が!全部消えた!」

「妻に何て言えばいいんだ…」


男たちの悲痛な叫びが、健太の耳に突き刺さる。彼らの言葉は、単なる財産の喪失を嘆くものではなかった。それは、彼らの未来、家族の生活、そしてこれまで築き上げてきた全てが、一瞬にして崩れ去る悪夢の始まりを告げるものだった。


健太は、歴史の教科書で読んだ「大暴落」という言葉が、これほどまでに生々しく、残酷なものだとは想像していなかった。数字の羅列では決して表現しきれない、生身の人間の感情が、ウォール街の石畳の上で、むき出しになっていた。


彼は、その場で立ち尽くすことしかできなかった。この混乱の中で、彼にできることは何もない。ただ、この歴史的な瞬間を、その目で目撃するしかない。まるで、巨大な波が全てを飲み込むのを、ただ見ているしかないような、圧倒的な無力感に襲われた。


午後に入ると、状況はさらに悪化した。取引所は一時閉鎖され、街には警察官の姿が増えた。しかし、彼らが介入しても、人々の混乱は収まらない。投機筋の破産者が続出し、中には、ビルの屋上から身を投げる者まで現れたという噂が、あっという間に街中に広まった。その噂は、人々の心に、さらなる暗い影を落とした。


健太は、自分の心臓が、恐怖で激しく脈打っているのを感じた。これは、単なる歴史の出来事ではない。目の前で、多くの人々の人生が破壊されていく瞬間なのだ。彼は、現代の経済危機で報じられるリストラや倒産のニュースが、ここでは現実として目の前に広がり、人々の悲鳴が直接耳に届くことに愕然とした。


夜になっても、ウォール街の混乱は収まらなかった。人々は家に帰ろうとせず、暗闇の中で、打ちひしがれた顔で立ち尽くしていた。街の明かりは、いつもより少なく見え、ジャズの音色はどこにも聞こえない。かつての「狂騒」は、一夜にして**「暗黒」**へと姿を変えたのだ。


健太は、ふと空を見上げた。満月が、冷たく、そして無情に、この悲劇的な光景を照らしている。その光は、まるで人々の絶望を嘲笑うかのように、どこか不気味な輝きを放っていた。


彼は、この出来事が、単なる株価の暴落で終わらないことを知っていた。これは、世界恐慌の始まりであり、この後、世界中を巻き込む未曾有の経済危機が訪れる。そして、その危機が、やがて第二次世界大戦へとつながっていくのだ。


健太は、自分のポケットに入っている、現代のスマートフォンを強く握りしめた。この冷たい金属の塊は、未来から来た証だ。そして、この手に握られた未来の知識こそが、彼がこの時代で生き、そしてこの悲劇から何かを学ぶための唯一の武器となるだろう。


彼は、ウォール街の混沌とした通りを後にした。彼の足取りは重く、その肩には、この日の出来事の重みがずしりとのしかかっていた。これから、この世界は、さらなる深淵へと沈んでいく。そして、健太は、その全てを、この目で目撃することになるのだ。彼の心は、恐怖と、そしてわずかな覚悟に満たされていた。

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