第2話 狂騒の序曲

健太は、自分が1928年10月23日のニューヨークにいるという事実を受け入れるのに必死だった。夢ではない。これは現実だ。しかし、どうやって?なぜ?疑問が頭の中を駆け巡るが、答えは見つからない。とりあえず、この時代で生き抜くために、情報を集めなければならない。


彼は新聞を握りしめ、ロビーの隅にある古びたソファに身を沈めた。新聞には、株式市場の驚異的な高騰、新たな消費財の登場、そしてジャズやフラッパーたちの華やかなライフスタイルに関する記事が躍っていた。全てが、まばゆい光を放ち、未来への楽観主義に満ちている。


「狂騒の20年代、か……」


健太は、歴史の教科書で読んだ言葉を口にした。この時代の人々は、第一次世界大戦の疲弊から解放され、空前の好景気を謳歌していた。自動車、ラジオ、電話、電気製品が次々と普及し、人々の生活は劇的に変化していたのだ。現代のテクノロジーの進歩が、人々の生活を一変させているように、この時代もまた、急速な変化の中にあった。


彼は、人々が交わす会話に耳を傾けた。

「昨日、ユナイテッド・エアクラフトの株で大儲けしたよ!」

「私もフォードの株を買っておけばよかったわ!」

「これからもっと上がるに決まってるさ。世界は我々のものだ!」


誰もが、株の話をしている。それはまるで、現代のSNSで誰もが仮想通貨や投資の話で盛り上がっている光景と重なった。一攫千金を夢見る人々、情報に踊らされる人々。健太は、時代の持つ熱狂と、それに伴う盲目性を肌で感じた。


街へ出ると、その熱狂はさらに顕著だった。五番街を歩くと、最新のファッションを身にまとった人々が行き交う。女性たちは、それまでの重厚なドレスから解放され、軽やかなフラッパースタイルを楽しんでいる。彼女たちの笑い声は、ジャズの即興演奏のように自由奔放で、健太は思わず立ち止まってその様子に見入ってしまった。


ブロードウェイでは、毎晩のように新しいミュージカルが上演され、劇場は人々でごった返していた。看板には、きらびやかな衣装をまとったダンサーたちの姿が描かれている。人々は、現実の苦しみを忘れさせるかのように、エンターテイメントに身を投じていた。


「どうだね、坊主。今夜はブロードウェイかい?」


突然、隣に立っていた中年の男が、葉巻の煙を吐きながら話しかけてきた。男の顔には、この時代の繁栄を享受している者の自信が満ち溢れている。


健太はとっさに言葉に詰まった。この時代では、見慣れない服装をしている自分は、さぞかし奇妙に見えるだろう。

「ええと…、初めてのニューヨークでして…」

彼は曖昧に答えた。


男は健太の服装をちらりと見て、何も言わずに葉巻を吸い続けた。しかし、その目には、わずかな好奇心と、そしてほんの少しの侮蔑の念が宿っているように見えた。


健太は、現代のTシャツとジーンズという格好が、この時代ではいかに浮いているかを改めて痛感した。早くこの時代に馴染むための服を手に入れなければならない。しかし、それよりも重要なのは、この時代の情報をもっと深く知ることだ。


彼は、図書館のような場所を探し始めた。手元に現代のスマートフォンやインターネットがない今、情報を得る唯一の手段は、当時の新聞や書籍、そして人々の話だった。


やがて見つけた公共図書館は、重厚な石造りの建物で、中に入ると静かで厳かな空気が漂っていた。健太は、古びた新聞のバックナンバーを閲覧できる場所へと向かった。


過去数年分の新聞を読み漁る。記事の多くは、経済の好調ぶりを報じていた。株式市場は連日高値を更新し、新たな産業が次々と生まれている。ラジオの普及は、遠く離れた人々を結びつけ、自動車は人々の行動範囲を広げた。まさに、技術革新が社会を牽引している時代だった。


しかし、健太は、その輝かしい記事の裏側に、どこか不穏な影が潜んでいることに気づき始めていた。

一部の新聞では、投機的な株取引の過熱や、農村部の貧困問題、そして移民の増加による社会問題について言及する記事も散見された。それらは、繁栄の影に隠れた、この時代の脆さを示唆しているかのようだった。


特に目を引いたのは、「住宅ローン市場の不安定化」に関する小さな記事だった。人々がこぞって家を買い、そのために巨額のローンを組んでいる。しかし、そのローンの審査は甘く、返済能力を超えた人々が住宅を購入しているという内容だ。健太は、現代のサブプライムローン問題と重ね合わせ、嫌な予感に襲われた。


さらに、海外のニュースにも目を通した。ヨーロッパでは、第一次世界大戦の傷跡がまだ深く残り、政治的にも不安定な状況が続いている。ドイツでは、莫大な賠償金に苦しみ、社会不安が高まっていた。イタリアではムッソリーニが権力を掌握し、ソ連ではスターリンが独裁体制を固めつつある。国際情勢は、表面的な平和の下で、着実に緊張の度合いを高めていたのだ。


健太は、自分が現代にいた頃に学習した歴史のパズルのピースが、目の前で次々と組み合わされていくのを実感した。この時代の人々は、目の前の繁栄に浮かれ、見えない危険に気づいていない。あるいは、気づいていても、その熱狂から抜け出せずにいるのかもしれない。


図書館を出ると、外はすっかり夜になっていた。ネオンサインが街を彩り、ジャズの音色がさらに大きく響き渡る。昼間とは違う、より一層華やかで享楽的な雰囲気が街全体を包み込んでいた。


健太は、この狂騒の光景を前に、複雑な感情に襲われた。この時代の人々は、まさか1年後に、この輝きがすべて失われ、未曽有の絶望が訪れるとは夢にも思っていないだろう。自分は、その未来を知っている。その知識は、ある種の呪いのようにも感じられた。


この熱狂の渦中で、自分に何ができるのだろうか?警告を発しても、誰も耳を貸さないだろう。彼は、歴史の流れという、巨大な力の前に、無力な一人の人間であることを痛感した。


しかし、同時に、彼はこの時代にいることの意味を問い始めた。なぜ自分はここにいるのか?単なる傍観者として、この歴史の転換点を見守るだけなのか?それとも、何か、すべきことがあるのだろうか?


健太は、自分のポケットに唯一残っていた、現代のスマートフォンをそっと取り出した。電源は入らない。ただの金属の塊だ。だが、その冷たい感触が、彼が2025年から来たという唯一の証拠だった。そして、この手に握られた未来の知識こそが、彼がこの時代で生きるための唯一の手がかりになるのかもしれない。


彼は、明日に向かって歩き出した。これから彼が経験するであろう出来事を考えると、胸が締め付けられる思いだった。しかし、同時に、この稀有な経験を、ただ消費するだけで終わらせるわけにはいかないという強い思いが、彼の心に芽生え始めていた。目の前の「狂騒」が、やがて「暗黒」へと変わるその瞬間を、彼はこの目で目撃することになるのだ。

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