第3話 誰かの故郷
戴冠式から数週間後――
王宮の中庭で、私は王と剣を交えていた。
夜明け前の冷気が肌を刺し、石畳に夜露が滴る。灰色の空が徐々に明るみを帯びる中、二つの影が静かに舞う。
私は正式に王の教育係に任命された。宮廷では若き王の側近として認識され始めている。毎日帝王学に政治、剣技といった様々な分野を彼に教えることとなった。
だが正直なところ、私が彼に教えられることなど限られている。
カールの剣筋は、あの塔の夜に見せた狂気的な殺気とは対照的だった。静かで、冷静で、感情の起伏が全く見えない。まるで機械のように正確で、氷のように冷たい。
鋼と鋼がぶつかり合う音だけが、静寂に響いていた。
彼の剣は美しかった。無駄がなく、理論的で、完璧に近い。
だが――何かが欠けている。
「止め」
私は剣を下ろした。
カールが首を傾げる。
「陛下の剣は完璧です。しかし」
言葉を選ぶ。
「生きていません」
「生きている?」
「剣は意思を持ちます。恐れ、怒り、守ろうとする意志――それらが剣に宿る時、剣は生きる」
カールは無言で剣を見つめた。
「余の剣には、それがないと?」
「……はい」
沈黙。
風が石畳を撫でる。
「そうか」
それだけ言って、カールは剣を鞘に納めた。怒りも、落胆も、何の感情も見せずに。
稽古を終えた後、私たちは無言で歩いた。
カールは常にそうだった。必要以上の言葉を交わさない。王宮の廊下で貴族たちとすれ違う時も、軽く会釈するだけで通り過ぎる。彼らが媚びるような笑顔を向けても、社交辞令を口にしても、表情は変わらない。
まるで世界に対して関心がないかのように。
「陛下」
ある日、大蔵卿のオクセンシェルナが声をかけた。
「来週の舞踏会の件でございますが――」
「必要ない」
「しかし陛下、王たるものは――」
カールは私に声をかけ、大蔵卿を無視して歩き続けた。後ろに困惑を残したまま、振り返りもしなかった。
廊下の角を曲がると、カールが立ち止まった。
「レイフ」
「はい」
「余は社交が嫌いだ」
「……存じております」
「いや」カールは首を振った。
「嫌いなのではない。ーー怖いのだ」
私は息を呑んだ。
カールが振り返る。その瞳に、わずかな揺らぎが見えた。
「人と親しくなれば、弱さが生まれる。弱さは判断を誤らせる。余は――」
そこで言葉を切った。
「余は、王でなければならない」
私はカールという人間を理解できなかった。
彼は人との関わりを避け、必要最小限の公務以外は一切の社交を拒絶する。それは孤立か、あるいは意図的な選択か。
カールの私室は、驚くほど質素だった。豪華な調度品は一切なく、あるのは地図と書物、そして剣だけ。王の部屋というより、修道士の独房のように見えた。
壁には一枚の肖像画が掛けられていた。
先王カール十一世。
厳格な表情で、こちらを見下ろしている。
私は胸が締め付けられた。あの方は私を拾ってくれた。絶望の淵から引き上げてくれた。だが――同時に、目の前の少年に何を教え込んだのだろう。
「殿下……いえ、陛下」
思い切って尋ねた。
「なぜ、あのような生活を?」
「何のことだ?」
「社交を避け、贅沢を拒み……まるで自分を罰しているように」
彼は窓辺に立ち、外を眺めたまま言う。
「ーー強さだ」
「強さ……ですか?」
「王は欲と弱さを削がねばならぬ。感情は判断を曇らせ、欲望は決断を鈍らせる。人との絆は、国を危うくする」
振り返った瞳は、冷たく透明だった。
「だから余は、それらすべてを捨てる」
「しかし陛下」
私は言葉を選んだ。
「人は一人では生きられません。王といえど――」
「余は王だ」
断ち切るように言った。
「人である前に、王なのだ」
その言葉に、私は言葉を失った。
翌日、私は王宮の図書室にいた。古い戦記を読みながら、カールのことを考えていた。彼の冷たさ、孤独、そして時折見せる揺らぎ。
すべてが謎だった。窓の外では、訓練場でカロリアンたちが隊列訓練をしていた。
青い軍服が整然と並び、号令と共に一糸乱れぬ動きを見せる。
私は幼い頃――まだ村にいた頃、ストックホルムの広場でカロリアンの行進を見た。あれは父と一緒に、街へ買い出しに行った日だった。
広場に響く太鼓の音。民衆の歓声。完璧な隊列で進む青い軍服の兵士たち。彼らは誇り高く、強く、美しかった。あの時、幼い私は思った。
いつか自分もあの中に――
だがそれはもう、遠い昔の話だ。戦争が来て、村が焼かれて、父が死んで。先王に拾われ、宮廷で剣を学んだ。才能はあったのかもしれない。剣を握れば、体が自然に動いた。
だが――夢も、憧れも、もうどこにもなかった。ただ生きるために剣を振り、ただ命じられるままに戦場に立った。気づけば、カロリアンは私にとって「別の世界の存在」になっていた。彼らのような誇りも、向上心も、私の中には何も残っていなかった。ただ、虚無だけがあった。
――あの塔の夜、カールに止められるまでは。「レイフ」声に振り向くと、カールが立っていた。
「……陛下」
「考え事か」
「いえ、その――」
カールは窓の外を見た。訓練場のカロリアンたちを。
「お前はカロリアンに憧れていたのか」
心臓が跳ねた。
「……昔は」
「昔?」
「幼い頃、彼らの行進を見て――」
言葉を探す。
「そうなりたいと、思いました」
カールは無言で訓練場を見つめていた。
「だが今は違うのか」
「……はい」
私は窓の外を見た。
「戦場に立ったことがあります。先王陛下の命で、辺境の小競り合いに」
「そうか」
「剣の才能はあったのかもしれません。体が勝手に動きました。敵を倒すことも、できました」
だが。
「夢も、憧れも、向上心も――何もありませんでした」
カールが私を見た。
「ただ生きるために、剣を振っていただけです。気づけば――」
私は小さく笑った。
「彼らとは、違う存在なのだと。そう割り切っていました」
沈黙。風が窓を叩く。
「レイフ」
「はい」
「お前は今も、そう思っているのか」
私は答えられなかった。カールは窓の外を見た。
「余には、憧れというものがわからない」
「……陛下」
「生まれた時から王だった。選択肢はなかった。だからお前が――」
彼は言葉を途中で切り、私を見た。
「陛下?」
「いやなんでもない、忘れろ」
そうとだけ言ったが、窓の外を見るカールの瞳には、どこか哀しいものがあった。
そしてカールは言った。
「余の執務室に来い。話がある」
その夜、私はカールの執務室に呼ばれた。
机には地図が広げられている。スウェーデン、デンマーク、ポーランド、ロシア――バルト海を囲む国々。
「レイフ」
カールは地図を見つめたまま言った。
「余は近い将来いずれ戦場に立つことになる」
私は息を呑んだ。
「周辺諸国は、余の若さを侮っている。いずれ試される時が来る」
「陛下は……戦争を予期しておられるのですか」
「予期ではない」
カールは私を見た。そして目線を特にロシアに向けた。
「確信だ」
その瞳には、冷たい決意が宿っていた。
私には、その意味がわからなかった。
カールは地図から目を離し、窓の外を見た。
「レイフ」
「はい」
「余は――この国を知らない」
予想外の言葉だった。
「地図は見た。戦記も読んだ。数字も、地形も、資源も知っている。だが」
カールは私を見た。
「余はこの国を、見たことがない。だからお前の、おすすめの場所へ連れて行け」
「……陛下?」
「政務ではない」
カールは言った。
「余個人の、要望だ」
彼が政務以外のことを口にするのは、極めて珍しかった。
私は一瞬躊躇した。だが――彼の瞳には、何か切実なものがあった。
「……承知いたしました」
「内密にな」
「はい」
翌朝、私たちは馬に乗って王宮を出た。
護衛も、従者も連れずに。ただ二人だけで。
ストックホルムの石畳を抜け、港を過ぎ、市街を離れる。徐々に建物が疎らになり、森が増えていく。
カールは黙って馬を進めた。周囲を見回すこともなく、ただ前を見つめている。
だが私には気づいていた。彼の肩が、わずかに力を抜いていることに。
数時間後、私たちは森の中の開けた場所に辿り着いた。
小さな湖が静かに水面を揺らしている。周囲には白樺の木立が立ち並び、朝日が木々の隙間から差し込んでいた。草原には野花が咲き、風が穏やかに吹いている。
木材でできた民家がまばらに並んでおり、小麦の畑が並んでいる。それらが暖かい陽に照らされ黄金に輝いて見えた。炊煙が緩やかに立ち上り、麦の穂が風に揺れる音が聞こえる。
子供達が無邪気に駆け回り、父は田を耕し、母は家で編み物をしている。そんな何気ない日常がありふれていた。
ここは、私のかつての故郷があった場所だった。
今は静かで、穏やかで、戦争も政治も何もかもが遠い――そんな場所。
カールは馬を降り、湖のほとりに立った。
「……ここは」
「スウェーデンの、田舎です」
私は簡潔に答えた。
カールが周囲を見回す。
「何もないな」
「はい。何もありません」
だが、だからこそ美しい。
私はそれ以上何も言わなかった。自分の過去を語ることは――失礼だろう。陛下は興味などないはずだ。王の前で、一介の孤児の身の上話など。
そんな無遠慮は、できなかった。
カールは湖を見つめていた。
風が水面を撫でる。
長い沈黙。
やがて、彼は小さく呟いた。
「……美しいな」
「はい」
「余は、こういう場所を知らなかった」
カールは湖に手を伸ばした。
「地図の上では、ただの点だ。報告書では、ただの数字だ。だが――」
彼は私を見た。
「これが、この国なのだな」
「……はい」
カールは再び湖を見た。
「ここで人が生まれ、生き、死んでいく」
「そうです」
「笑い、泣き、愛し合う」
「はい」
カールは拳を握った。
「余は、これを守らねばならないのか」
私は何も言わなかった。
「地図を守るのではない。数字を守るのでもない」
カールの声は、いつもより柔らかかった。
「この、美しさを」
風が草原を撫でる。
私の胸の奥で、何かが軋んだ。
ここはかつて、私の村があった場所だ。
父が畑を耕し、母が糸を紡いでいた。
だが今はもう何も残っていない。
別の世代の、別の家族の幸せに上書きされている。
まるで過去がなかったかのように。
だが――それを言うべきではない。
陛下は今、この国の美しさを見ている。守るべきものを、見出そうとしている。
私の個人的な悲劇など、そこに持ち込むべきではない。
それは――失礼だ。
「陛下」
私は静かに言った。
「この国には、このような場所が無数にあります」
「……そうか」
「森も、湖も、草原も。そして――」
そこで言葉を切った。
「そこで暮らす人々も」
カールは私を見た。
「お前は、このような場所で育ったのか」
心臓が跳ねた。
言葉を探す。言葉が喉まで出かかった。
だが――陛下の瞳に宿る光を、私は消したくなかった。
今この人が見ているのは、美しい国だ。
私の悲劇ではない
「……いえ」
つい嘘をついてしまった。
「私はストックホルムの出身です。ただ――」
「こういう場所が、好きなのです」
カールはしばらく私を見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「そうか」
彼はそれ以上、何も聞かなかった。
彼が何かを察したのかは結局ついぞ分からなかった。
どれくらいそうしていただろう。
気づけば日が暮れ始めており、橙色に畔が橙色に照らされていた。
そしてカールが立ち上がった。
「レイフ」
「はい」
「余は――」
彼は言葉を探すように、空を見上げた。
「余は王だ。人である前に、王でなければならない。それは父の教えだった」
私は黙って聞いていた。
「だが」
カールは私を見た。
「王とは何のためにあるのか。余はわからなかった」
「……陛下」
「今、少しだけわかった気がする」
カールは再び湖を見た。
「余は、これを守るために王なのだ」
その横顔には、わずかな光があった。
彼は拳を握った。
「だが――余は忘れない。ここを。この美しさを」
風が草原を撫でる。
カールは私を見た。
「余はこの国を守るぞ。」
その瞳には、決意があった。
だが同時に、何か哀しいものも混じっていた。
私は何も言えなかった。
胸の奥で、何かが静かに軋んでいた。
帰り道、カールは少しだけ饒舌だった。
「あの湖は、深いのか」
「いえ、浅いです」
知っている。子供の頃、よく泳いだから。
だがそれは言わなかった。
「そうか」
「陛下は、泳げますか」
「習ったことはある。だが――好きではない」
「なぜです?」
カールは少し考えた。
「水は、コントロールできないからだ」
私は笑いそうになった。
「それは、水の良さではないでしょうか」
「……かもしれんな」
わずかに、カールの口元が緩んだ気がした。
王宮に戻ると、カールは再び無表情に戻った。
廊下ですれ違う貴族たちに会釈し、執務室へ向かう。
だが、部屋の前で立ち止まった。
「レイフ」
「はい」
「ーー礼を言う」
「陛下」
「余に、国を見せてくれた」
そして、わずかに笑った。
本当にわずかに。だが確かに、笑った。
「余は、これを守る」
そうして私たちは馬を走らせストックホルムへと帰還した。気づけば夜を迎えており、辺りは暗くなっていた。
そうして宮廷内でカールに別れを告げ、私は私の小さな部屋へと戻った。
そしてベッドに横になった際に胸の中に、温かいものと、冷たいものが混ざり合っていることに気づいた。
その夜、私は自室で一人、窓の外を見ていた。
言えなかった。
言うべきではないと思った。
陛下は私の過去など、興味がないだろう。
一介の孤児の身の上話など――王の前で語るべきではない。
それは失礼だ。不敬だ。
私はただの臣下で、彼は王なのだから。
だが――
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
言葉にならない、小さな距離。
私が自分で作った、見えない壁。
それがいつか、私たちの間に横たわるとは。
その時の私は、まだ知らなかった。
この王はどこへ向かうのか。
そして私は、なぜ彼の側にいるのか。
彼の過去に何があったのか。
答えは依然として、霧の中にあった。
だが一つだけ確かなことがある。
私はこの人の傍にいたい。
それが私の、唯一の真実だった。
そしてもう一つ――
私はこの人が、あの湖のほとりで見せた横顔を、忘れないだろう。
それが私の彼に対する興味を余計駆り立てた。そして――恐れさせた。
なぜなら私は知っていたからだ。
美しいものを守ろうとする者は、いずれ醜いものにならねばならない――
その矛盾を。
そして――言えなかった言葉が、いつか私たちを引き裂くかもしれないことを。
その予感を。
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