最終話 僕が生きた軌跡

 夜明けどき、息が苦しくて吐きそうになる。

 まともに走ったのはいつぶりだろうか。鞄を置いていけばよかったと後悔する。諦めと希望を抱いたまま、徐々に日が昇る。思えば、光は初めからそこにあったのだ。無償の愛に生きていたことを、何気なく油絵を描いているときに悟った。そして春花が恋しくなった。今すぐにでも、彼女と会いたい一心だった。この瞬間を逃せば、もう二度と彼女の顔を見れない気がした。

 走る。脇目を振らずに行く当てもなく走る。彼女に嫌われることが怖かった。だから、彼女とは親しくなりすぎないようにしてきた。今では音信不通でメールをしても駄目だ。僕は彼女を傷つけてしまった。だから謝りたい。僕の光でいてくれたことを。

 身体が燃えるように熱い。弱音を吐いて泣いてしまいたい衝動がある。やがて、黒い川の橋梁に人影が見えてきた。彼女だ。溝川を向いて、橋の欄干に座っている。風になびいている後ろ髪を抑えて、記憶の黒い川とリンクしようとしている。

 抱えていた鞄を落とす。何十枚ものポストカアドが宙を舞う。そして走り出す。


「なんでかなあ、私もよく分からないわ」

 久保が店を閉めてから、三人だけの空間は心地よいジャズに満たされていた。

 彼女は寝言を言っている。

「溝川なんて、くさいだけじゃない」

「でも僕たちが出逢ったのは、あの川があったおかげじゃないですか」

「……まあそうね」

 変に酔いが醒めてゆく。彼女を嘲っていた自分が、少し恥ずかしい。

 素直に認めるとは思わなかった。普通ならば、ここで彼女は悪酔いして、討論よりも罵り合いになってしまうのである。中身のない罵倒を互いにするものだから、話したことはあまり記憶にないが、今日の彼女には驚きを隠せない。

「春花さん、呑みすぎておかしくなりましたか」

「失礼ね、おとうさんもなんかいったら……」と彼女がまたもや寝てしまうと、久保は

「もしや晋が伝えたわけじゃないよな」

 僕たちは顔を見合わせる。「本当に何も知らないですよ」

「夢かねえ、この子もう酔っちまったよ」

 僕の口元がほころびる。大声で笑った。久保もつられて笑い出す。

 久しぶりにオン・ザ・ロックを美味しく感じた。

「久保さん、彼女初めから気付いてたんじゃ」

「なんだっていいだろ。にしてもよ、もうすぐ近代美術館で展示されるのに、観に行かないでよかったのかよ」

「はい、決心が鈍る前に引っ越そうと思って」

「やっぱり寂しくなるな。かなり遠いし、気軽には遊びに行けねえもんな」

 僕たちは春花を店内に置いて、流星群を見るためにバーを出た。一条の光が空高く輝いていた。続けざまに、光の束が幾重にも現れる。金魚鉢に何億もの星を落としたかのように、ふとしたときに夜は満ちてゆく。星月夜と静寂が、僕たちが地球にいることさえ忘れさせる。過去と未来は存在しなかった。あるのは、今という瞬間を生きている感覚だけである。この時間が永遠のようだった。

 ――カチ、ボワゥ。

 店主のライターに小さな火が灯った。


 斜陽で、地面が赤く染め上げられる。

 孤独ではなかった。胸のわだかまりはとうに消えていた。

 僕は電車の窓を開けた。さわやかな風が熱い頬を冷ます。木々が生い茂る大自然でできたトンネルを抜けると、浅緑の平野がいつ果てることもなく続いていた。それは山脈に囲まれていて、実のところそれほど広大でもない。しかし山脈に突き当たるとて、奇妙なほどなつかしい気持ちが空間を錯覚させたのだ。ありえてもいい話だと思った。顔を出して、ここまで走ってきた線路を眺める。

 山々の地平線に夕日が没すると、淡いが煌々とした未曾有みぞうの赤光が闇に溶け込んだ。点々とした民家の明かりが目に入りはじめ、にわかに辺りが暗くなったかと思えば、急いているかのように夜の帳が下ろされる。

 このしあわせはいつまで続くだろうか。たぶん、そう長くはないと思う。足が悪いため、杖が必要だ。最近は息切れすることが多い。だけど、それがなんだって言うのだろう。騙し絵のように、好きな解釈でこの人生を生きよう。僕は石原晋という人間に誓いを立てた。

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