人間という騙し絵

朔之玖溟(さくの きゅうめい)

或る男について

第1話 夜に移りゆく

 日常で積もった困憊は酒で落とす。男がオン・ザ・ロックを注文すると彼女もならった。夜の帳が面白そうにしている。

 右隣の席にすわった春花は注文したオン・ザ・ロックを呑んで、ほんのりと頬を紅潮させてから、

「あそこのは最悪よ。余所よその国の戦争よりも私たちへの被害が大きいわ」

「まあたそんなことを言う。春花はるかさんもちっとは譲歩してくれませんかね。これじゃあらちが明かないよ」

「年上に向かってその口の聞き方はないでしょ」

「無駄な争いはよしてアウフヘーベンしましょう」

「なによ、アウフヘーベンって。難しい言葉を使って私を小莫迦にしないで頂戴」

「春花さん誤解しないでよ。別に莫迦にしているわけじゃないんだから」

 石原は春花をまじまじと見て、一杯の酒に早くも陶酔して正常な思考を失っていると知るやいなや、内心で嘲ってから、彼女が真剣な口調を崩さないことに哀れみを抱いた。凜然として整った睫毛は先が長くて、彼女のほっそりした体格とは裏腹に、依然として情熱家の精神をしていた。

 春花は私立大学に通う女生徒で、大学生という点では石原もまた等しいのだが、彼と春花は境遇も決定的にちがっていれば、食べものや映画の好みは兎も角、二人が同調することなど幾度あったであろうか。少なくとも石原は彼女に対してそう感じていた。バアの主人も、石原と同じように思っているだろう。はてのない大学生どうしの戦いはこの店の名物になっていた。

 主人の久保はグラスを拭く手を止めて、何も知らない客はなんだとばかりに石原と春花へ視線をよせた。なかには言い合いをそっちのけで洋酒を呑む者もいたというのに、そういった客の注文を久保はとりあわなかった。

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