第八話 雨の日のバス停
午後から降り出した雨は、夕方になってもやまなかった。
アスファルトは深く濡れ、車のライトが波紋のように反射していた。
傘を持たない誰かが、少し駆けては止まり、また歩く。
猫は、雨粒を避けながら屋根のある場所を選ぶように歩き、町外れのバス停にたどり着いた。
小さなベンチ、手すりのさび。濡れた時刻表。
人通りは少なく、空気にだけ誰かの待つ気配があった。
そこに、ひとりの女性が座っていた。
フードを深くかぶり、膝に封筒を抱えている。
ずっと前から、そこにいたような、そんな姿だった。
猫は、足音を立てずに近づいて、ベンチの下に潜り込む。
女性は、何度も封筒を見ては、開かずに元に戻していた。
手紙には、宛名も切手もない。
ただ、それを渡すべき誰かを探しているようだった。
「……本当は、今日じゃなくてもよかったんだけど」
声が小さく、雨音にまぎれていく。
それでも、猫はその声を聞いたような気がした。
「でも、今日って言っちゃったから。……嘘になったら、いけない気がして」
猫は、ベンチの足元に丸くなる。
雨は止みそうになく、バスもなかなか来ない。
やがて、向こうからもうひとりの人影が現れる。
背の高い男性。黒い傘。
一瞬だけ、女性の目がそちらを向いた。
けれど、男性はバス停の前を通り過ぎ、彼女に気づくこともなく、遠ざかっていった。
女性は、少しだけ笑った。
あきらめでも、後悔でもない、空になった笑顔だった。
「……そっか。もう読まなくても、いいか」
そう言って、封筒を鞄にしまう。
そのまま、立ち上がる。
バスは、まだ来ない。
彼女は振り返らずに、歩き出した。
たぶん、もう戻ることはない。
猫は、空になったベンチを見上げた。
そこには、誰かの“決意の跡”だけが、濡れたまま残っている。
何も伝えなかった手紙。
でも、それを持って来て、しまったことに、意味があるのかもしれない。
バスがようやく角を曲がってくる。
けれど、誰も乗らず、誰も降りないまま通り過ぎた。
雨は、まだ降り続いている。
猫は濡れた道を再び歩き出す。
今日もまた、言葉にならなかった想いが、町のどこかに静かに沈んでいく。
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