雨男
平 遊
――俺は、雨男だ――
目当ての喫茶店の前、
服についた雨粒をハンカチで丁寧に拭い、喫茶店のドアを開けた。
カランコロンと客の来店を店主へと告げる音に出迎えられて入った喫茶店は、昔ながらの昭和レトロな雰囲気が漂っている。俺は迷うことなく、窓に面した4人掛けのボックス席へ向かい、年季の入った感のあるソファに腰をおろした。
注文を取りに来たマスターにブレンドコーヒーを注文し、窓の外へと目を向ける。窓越しでもはっきりと雨粒が見えるほどの雨だ。
――ほんとお前、雨男な――
少し離れた席から、そんな言葉が聞こえてきた。
地元の少年たちなのだろうか、4、5人の少年たちが賑やかな会話を続けている。楽しみにしていた予定が雨で中止にでもなったのだろうか。だとしたら、それはさぞかし残念なことだろう、などと考えていたところへ、注文したブレンドコーヒーが運ばれてきた。
「雨男、か」
何の気なしに口にした言葉に、コーヒーから立ち上る湯気の向こうから、少女が心配そうな目を俺へと向けてくる。袖なしの、淡い水色のワンピース姿の、髪の長い少女。何も言わず、ただじっと俺を見つめる少女の目は、澄んだ水のようだ。
「大丈夫だよ」
コーヒーカップを右手で持ち、口へと運ぶ。ほどよい熱さと苦みが、口から喉へと流れ落ちる。
子供の頃は、熱さも苦みも嫌いだった。コーヒーの旨さなんて、まるでわからなかった。
そんな子供の頃から既に、俺は雨男だった。
そして、子供の俺は、雨男である自分が嫌でたまらなかった。
**********
遠足、運動会、入学式、卒業式。
イベントごとは、全て雨。
「お前がいるといっつも雨降るんだよな」
「雨降らすんじゃねーよ。楽しみにしてたのに」
「お前のせいでまた中止だよ」
俺のせいじゃない。俺が雨を降らせてる訳じゃない。だけど、俺がいるといつも雨が降る。
自分ではどうにもできないことに文句を言われるたび、俺は自分が嫌いになった。雨を恨むようになった。雨男である自分を憎むようにすらなり、皆が楽しみにしているイベントには仮病で不参加ということが増えていった。
俺が参加しないイベントの日には雨は降らず、皆イベントを楽しむことができた。だけどそこに俺はいない。皆の楽しい思い出の中に、俺はいない。
あれは中学生の時だったか。
たまらなく空しくなった俺は、体育祭の日に学校には向かわず、行き先も決めずに飛び乗った電車にただぼんやりと揺られ続けた。そして、辿り着いたのは海辺の街。
駅を出ると、外は雨。傘も持たずに家を出た俺は、雨に打たれながら海岸へと向かい、湿った砂浜に腰をおろして海を眺めた。
「そんなに、嫌い?」
突然、左隣から聞こえてきた声に驚き横を向くと、いつの間にかすぐ隣に小学生くらいの少女が座っていた。
袖なしの、淡い水色のワンピースを着た長い髪のその少女は、俺と同じように傘もささず、雨に打たれながら真っ直ぐに前方の海を見つめている。
「え? なにが?」
不思議と、少女の存在に違和感は無かった。ただ、普通に聞き返していた。少女のどこか悲しそうな顔がやけに気になった。
「雨」
短く答えて少女は俺の方へ顔を向け、澄んだ水のような目でじっと俺を見つめる。
雨に打たれ続けている少女の顔には幾筋も水が流れ落ちていて、俺にはなぜか少女が泣いているように見えた。
「そりゃあ、嫌いだよ」
「なんで?」
「なんでって、雨が降ったら楽しいイベントが全部中止になる。俺がいると、みんなが楽しみにしているイベントの日には必ず雨が降るんだよ。だから俺、雨男って呼ばれてて。俺が雨を降らせてる訳じゃないのにさ」
「雨は、ね」
少女は顔を上向け、俺に向けていた目を雨が降り注ぐ空へと向けると、その目を閉じて言った。
「想い、なの」
「は?」
「物言わぬモノたちの、想いなの」
「え? なんだそれ?」
「だから、そんなこと言わないで。お願い」
俺の問いには答えず、少女は空へと顔を向けて目を閉じたまま。なんとなく、俺も彼女の真似をしてみた。
顔を空へと向けて、目を閉じる。顔を打つ雨粒の刺激が優しくて気持ちいい。
そう感じた時、少女の声が聞こえた。
「悲しみ、苦しみ、恨み、憎しみ、怒り、寂しさ。でもそれだけじゃない。喜び、楽しさ、優しさ、感謝、希望、それから」
顔を打つ雨が弱くなった気がして、俺は目を開けた。すると、少女がまっすぐな目を俺に向けていた。
「愛おしさ」
少女が立ち上がる。
雨に打たれ続けた淡い水色のワンピースはびしょ濡れなはずなのに、肌に張り付くこともなく、海から吹いてきた風に軽やかにふわりと揺れている。びしょ濡れなはずの長い髪までも、サラサラと風に舞っている。
「強すぎる想いは、その激しさで周りを傷つけてしまうこともある。一方的な想いは、受け入れられずに疎まれて拒絶されてしまうこともある。でもね。それだけじゃないよね。想いがあるからこそ、育まれるものがある。想いがあるからこそ、見ることができる景色がある」
豪雨で氾濫する川。為す術もなく流される家々。水没する街。
そこには、絶望の表情を浮かべ、呆然と佇む人々の姿。
準備に準備を重ねた晴れの舞台に降りしきる雨。
そこには、悔しさを滲ませながら、黙々と片付けをする人々の姿。
そんな光景が、いくつも頭の中に浮かんでは消えた。
合間には、「雨男!」「お前のせいだ!」と、数えきれないくらい言われてきた言葉も聞こえた。
けれども。
雨を浴びて瑞々しさを増す新緑。
渇いた大地を潤す雨に、諸手を挙げて喜ぶ人々の姿。
豊かな実りに顔を綻ばせる人々の姿。
そんな光景も、頭の中に浮かんだ。
合間には、「恵みの雨だ」「助かった」という言葉も聞こえてくる。
俺は、自分がひどくちっぽけで小さな存在であることにようやく気付いた。
自分ひとりの小さな世界の中に、自分で引きこもって勝手にいじけていたのだ。
雨は、自分の頭の上だけに降っているわけではない。ましてや、都合よく降らせられるものでもない。
――雨が、物言わぬモノたちの想いというのならば、なおさらだ。
「雨は想い、か」
「うん。雨は、想い。みんなの、想い」
少女の力強い言葉を聞きながら、俺も立ち上がった。制服のズボンの尻に湿り気を感じて少し気持ちが悪かったが、直に乾くだろうと思い直した。いつの間にか雨があがっていたからだ。
「物言わぬモノたちはね、いつだって、気づいて欲しい、分かって欲しいって願ってる。自分たちにだって想いがあるんだってこと。だからね。雨に、想いに愛されたあなたには、雨を嫌いにならないでほしいの。それでね、できれば受け止めて、愛してほしい……」
最後の方はまるで叱られた子供のように消え入りそうな声でそう言う少女に、俺は笑って頷いた。
「うん。愛せるかどうかはまだわかんないけど、なんか俺、わかった気がする。だからもう、嫌いじゃないよ、雨」
「ほんと⁉」
嬉しそうに顔を輝かせて少女は、水のように澄んだ目を俺の背後へと向ける。
「みんなも喜んでる。すごく嬉しいって。ほら、見て」
少女に促されて後ろを向いた俺は、そこに今まで見たこともないような大きな虹を見つけた。
「きれいな虹だな。そういや、虹だって雨が降らなきゃ見られないものだもんな」
しばらく待ったが返事は聞こえない。
振り返って見た場所に少女の姿は無く、周りを見回しても少女の姿はどこにも見つけられなかった。
**********
「受け止めているし、愛しているよ、雨を」
コーヒーから立ち上る湯気の向こうには、もう少女の姿はない。
窓の外へと目を向けると、降りしきる雨の中、待ち合わせた彼女が歩いてくる姿が見えた。ほどなくして、店主へ来客を告げるカランコロンというベルの音が聞こえ、彼女が俺の座る席へやって来た。
「お待たせ! ごめんね、遅くなっちゃって。雨でバスが遅れてて」
「全然大丈夫」
おかげで、久しぶりにあの子に会えたし。
なんて思っている間に、手早く注文を済ませた彼女が言った。
「でもほんと、デートの時は毎回雨だよね」
「うん。俺、雨男だから」
「やっぱり」
彼女と出会ったのは、雨の日だった。場所は、あの少女と出会った海岸。
パッと目をひく華やかな色の傘をさし、砂浜をただ歩いているだけの姿がやけに楽しそうに見えて、思わず声をかけたのがきっかけだ。
「楽しそうですね」と言った俺に、「雨が大好きなんです」と彼女は答えた。「おかしいですよね」とはにかむ彼女に、俺は恋に落ちたのだ。
「あのさ、今日ここに行ってみない?」
そう言って彼女はスマホの画面を俺に見せる。
「晴れてる日もきれいなんだけど、雨に濡れた紫陽花もすごくきれいなのよ」
「うん、いいね」
「それとね、ここ。雨の日じゃないと見られない景色があるの」
「へぇ。どんな?」
「それは、行ってからのお楽しみ」
彼女と付き合うようになってから、俺はますます雨が好きになり、今では愛せるようにもなった。
もしかしたら、あの少女が彼女を俺と引き合わせてくれたのではないかと思っている。
窓の外は雨。当分止みそうにはない。
今日の雨は、なんだか
曇天から踊るように舞い落ちる雨に、俺はそんなことを思った。
雨は想い。物言わぬモノたちの想い。
俺はその想いを受け止めて愛する、雨男。
今の俺は、胸を張って堂々と言える。
「俺、雨男なんだ」
と。
【終】
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