魔王を倒し、世界を救った英雄の俺、死後に冥王から地獄行きを宣告された。――どうやら俺が信じた“正義”の裏側にあった罪を、神は全てお見通しだったらしい。

Gaku

第1話:英雄の死と理不尽な審判



その日、世界は一つの時代の終わりを、沈みゆく太陽と共に静かに見守っていた。



大英雄アレス。



彼の名は、もはや一人の人間の呼称ではなかった。


それは伝説であり、神話であり、大陸全土の子供たちが眠る前に聞かされる物語そのものだった。


絶望の闇を払った光。


百年分の平和を民にもたらした、生ける礎。


その彼も、万物に等しく訪れる「時」という、決して倒すことのできない最後の敵には、勝てなかった。



王城で最も陽当たりの良い一室。


天蓋付きの豪奢な寝台の上で、アレスは、浅く、乾いた呼吸を繰り返していた。


かつて聖剣を握りしめ、竜の鱗すら断ち割ったその手は、今や鳥の枯れ枝のように痩せ細り、絹のシーツの上に力なく横たわっている。


薄くなった皮膚の下には、青黒い血管が川のように走り、その流れも今や、よどんだ沼のように緩慢だった。


指一本、動かすことすら億劫で、ただ、瞼の裏に広がる微かな光の残滓を眺めているだけだった。



耳も、ずいぶんと遠くなった。



枕元で交わされる人々の声は、まるで分厚い水の底から聞こえてくるかのように、くぐもって不鮮明だ。


時折、薬草を煎じる、わずかに苦みを含んだ匂いが鼻腔をかすめる。


それは、この数ヶ月、彼がずっと嗅ぎ続けてきた、死へと向かう道のりの匂いだった。



それでも、彼の心は満たされていた。水のように澄み渡り、穏やかな凪に満たされていた。



ゆっくりと、重い瞼をミリ単位で持ち上げる。



ぼやけた視界に、幾人かの人影が映った。



玉座を離れ、臣下の死の床に寄り添う、壮年になった国王。


その瞳は、国の英雄を失う悲しみに濡れている。



その隣には、同じく白髪となり、深い皺を顔に刻んだかつての戦友達がいた。


百戦錬磨の魔法使いだった老婆は、今は杖にすがり、静かに涙をこぼしている。


自慢の剛腕も今は昔、震える手でアレスの手を握る大男の戦士。


彼らと共に駆け抜けた日々が、アレスの脳裏を走馬灯のように駆け巡った。



剣戟の音。


血の匂い。


仲間の叫び声。


勝利の鬨。



そして、視界の隅で、小さな手が彼の手をそっと握った。


視線をそちらに向けると、彼の孫にあたる、金色の髪を持つ少女が、潤んだ大きな瞳でこちらを見上げていた。



「おじいさま…。世界で、一番の、英雄だよね…?」



幼い声は、アレスの鈍くなった鼓膜をはっきりと震わせた。


アレスは、力の入らない唇の端をわずかに持ち上げ、肯定の代わりに、ゆっくりと一度だけ瞬きをして見せた。


少女の瞳から、大粒の涙がぽろりとこぼれ落ち、彼の枯れた手の甲を濡らした。


その一滴の温かさが、彼の魂に深く沁みた。



窓の外に目をやる。



アーチ状に切り取られた窓枠の向こうには、彼が守り抜いた王都が、夕暮れの深い茜色に染め上げられていた。


尖塔のシルエットが空に突き立ち、家々の窓には温かな灯りが一つ、また一つと灯り始めている。


広場には、黒い人だかりができていた。


彼の身を案じ、回復を祈るために集まった民衆だ。


彼らの祈りの声が、風に乗って、一つの巨大なうねりとなって、この部屋まで届いてくるようだった。



ああ、悪くない人生だった。



貧しい村に生まれ、全てを失い、復讐心だけを糧に剣を取った。


だが、旅の途中でかけがえのない仲間と出会い、守るべき人々を見つけた。


いつしか復讐心は、より大きな使命感へと昇華されていた。


そして、成し遂げた。


この平和な世界の礎となれた。


自分の人生は、確かに意味のあるものだった。



沈みゆく太陽が、最後の光を放ち、部屋を黄金色に染め上げた。


それはまるで、彼の栄光の生涯を祝福するかのようだった。



満足感と共に、彼の意識はゆっくりと薄れ始める。


人々の顔がぼやけ、声が遠のき、部屋の匂いも、手の甲の涙の温かさも、全てが混じり合って一つの穏やかな感覚へと収束していく。



「我が人生に、一片の悔いなし」



誰にも聞こえないほどの声でそう呟くと、アレスは、安らかに最後の息を引き取った。



魂が、肉体という古びた殻から、ふわりと解き放たれる心地よい浮遊感。



長年彼を苛んできた体の痛み、重力、あらゆるしがらみから解放され、羽のように軽くなる。


視界は、白く、温かい光に満たされていく。


次に目を開ける時、自分はきっと、光の国にいるのだろう。


先に逝った愛する妻が、戦場で散った仲間たちが、「よくやったな」と笑って出迎えてくれるはずだ


。英雄にふさわしい、永遠の安息が、今まさに与えられようとしていた。



そう、信じて疑わなかった。



だからこそ、その次に訪れた感覚は、理解を超えていた。



最初に感じたのは、温もりではなく、肌を、いや、魂そのものを刺すような、絶対零度の冷気だった。



次に訪れたのは、光ではなく、全ての色と音を吸い込むような、完全な静寂と闇だった。



アレスは、混乱のままに「目」を開いた。


もはや肉体の眼ではない、魂の知覚が、周囲の光景を捉える。



そこは、彼が想像した天国とは、似ても似つかぬ場所だった。



床は、どこまでも続く一枚岩のようだった。磨き上げられた黒曜石のように、鈍く、冷たい光をかすかに反射しているが、そこには何も映らない。


自らの姿すらも。


一歩踏み出すと、カツン、という音が響くかと思いきや、何の音もせず、ただ、魂の芯に響くような冷たさだけが伝わってくる。


空気という概念があるのかどうかすら定かではない。


匂いも、風も、何もない。


ただ、存在が希薄になっていくような、「無」が満ちているだけだった。



見上げれば、果てがあった。


だが、それは天井と呼べるものではなく、ただ、闇がより深く、濃くなっているだけのように見えた。


その闇の深さは、宇宙の深淵を覗き込むかのようで、見つめているだけで魂が吸い込まれそうになる。


規則的に並んだ巨大な柱が、その闇の中へと何本も伸びているが、その柱もまた、光を反射しない奇妙な鉱物でできており、その表面には、模様も、傷一つもなかった。


あまりに完璧で、あまりに無機質。


まるで、世界の創造主が、何かを「作る」以前の、思考の段階で放棄した設計図のような空間だった。


神殿、と呼ぶにはあまりに生命の気配がなく、墓所、と呼ぶには荘厳に過ぎた。


アレスの魂は、この広大すぎる虚無空間の中で、ちっぽけな塵芥のようにただ独り、立ち尽くしていた。


英雄アレスという名も、彼が築き上げた功績も、ここでは何の意味も持たない。


そんな絶対的な孤独感が、じわじわと彼の魂を蝕んでいく。



その時、彼は気づいた。



空間の遥か奥、その中心に、他よりも一段と巨大な、黒々とした影があることに。



それは、玉座だった。



この虚無の空間を支配する王がいるのだとすれば、きっとそこに座っているのだろう。


アレスは、導かれるように、あるいは、引き寄せられるように、その影に向かってゆっくりと歩き始めた。


音のない歩行は、まるで水の中を進むかのように、奇妙な抵抗感と無力感を伴った。



近づくにつれて、影は徐々にその輪郭を現し始めた。



玉座は、この神殿を構成する柱と同じ、光を吸い込む鉱物を削り出して作られているようだった。


背もたれは天に届くかのように高く、その威圧感だけで、並の魂ならば砕け散ってしまいそうだった。



そして、そこに、一人の男が座っていた。



最初は、ただの痩身長躯の男にしか見えなかった。



だが、さらに近づき、その存在が魂の知覚に焦点を結ぶにつれて、アレスは息を呑んだ。



男が身にまとっていたのは、夜の闇そのものを織り上げたかのような、深い黒のローブだった。


その生地には、星々が死滅した後の宇宙のような、絶対的な黒が広がっており、どんな光も、どんな希望も、そこでは意味をなさないように思えた。


ローブから覗く肌は、血というものの存在を忘れさせたかのように、陶器のように白く、滑らかだった。



そして、顔。



彫像のように完璧に整った顔立ち。


だが、そこには、生命が持つべきいかなる感情の痕跡もなかった。


喜びも、悲しみも、怒りも、その顔の上を通り過ぎたことなど一度もないかのようだった。



だが、何よりもアレスの魂を鷲掴みにしたのは、その瞳だった。



男がゆっくりと伏せていた瞼を持ち上げた時、アレスは、二つの深淵と目が合った。


その瞳は、星のない夜空のようにどこまでも深く、黒かった。


光も、色も、何ものも映してはいない。


ただ、見る者の魂を、その奥底にある秘密ごと、静かに吸い込んでいく。


その瞳に見つめられていると、自分が何者で、どこから来て、どこへ行こうとしていたのか、その全てがどうでもよくなっていくような、恐ろしいほどの虚無がそこにはあった。


男は、ただ静かに、この招かれざる客であるアレスを見据えているだけだった。


彼の瞳孔は、アレスを認識しても、ミリ単位の動きすら見せなかった。



「ここは…どこだ?私は、死んだはずだ。貴方は…一体、何者なのだ?」



アレスは、ようやく声を絞り出した。


その声は、この静寂の中ではあまりに場違いで、虚しく響いた。



玉座の男は、答えなかった。



代わりに、彫像のようだったその腕が、ゆっくりと持ち上がる。


その白い指先が、傍らに置かれていた分厚い石板に触れた。


それは、まるで世界の創世から終わりまでが、びっしりと刻まれているかのような、古びた石板だった。



男は、感情の乗らない、平坦な声で、そこに記された文字を読み上げ始めた。


その声は、高くも低くもなく、ただ、神殿の隅々にまで反響し、アレスの魂に直接刻み込まれるかのように響き渡った。



「勇者アレス。生前の記録を照合する」



「王歴732年、魔王軍第7軍団を壊滅させ、3つの都市を解放。これにより、約三十万の民の命を救う」



「王歴734年、南方の沼地を支配していた古竜を討伐。疫病の蔓延を防ぎ、穀倉地帯を安定させる」



「王歴738年、失われた聖剣を発見。その資格者として認められる。世界の希望の象徴となる」



「王歴740年、魔王城に到達。魔王を討ち滅ぼし、世界に平和をもたらす。この功績により、世界の平和は少なくとも百年早められた」



読み上げられるのは、アレス自身が成し遂げた、輝かしい戦歴の数々だった。


彼は混乱しながらも、自らの功績が、死後の世界でも正当に評価されていることに、かすかな、しかし確かな誇りを感じていた。


そうだ。


これだけのことを成し遂げたのだ。


やはり自分は、英雄として、何らかの形で迎え入れられるのだ。


天国ではなかったとしても、それに準ずる場所が、きっと…。



石板から顔を上げた男は、アレスを真っ直ぐに見つめた。



その瞳に、初めて何かの光が宿ったように見えた。


それは敬意でも、賞賛でもない。


ただ、判決を下す裁判官のような、絶対的で、非情な光だった。



宣告の前の、息が詰まるような静寂。


この虚無の空間が、さらに密度を増して、アレスの魂を圧迫する。



そして、男は、厳かに、しかし何の躊躇もなく言い放った。



「――以上の功罪を鑑み、審判を下す」



「勇者アレス。汝の魂を地獄へ送る」



一瞬の静寂。



アレスの思考が、完全に凍りついた。



地獄?



誰が?



この私が?



聞き間違いか?


いや、この男の声は、聞き間違うことなどありえないほど、明確に魂に届いた。



理解が思考に追いついた瞬間、彼の魂は、怒りと、混乱と、そして裏切られたという激しい感情で、激しく震え上がった。


彼の魂の輪郭に沿って、かつての闘志が血管のように浮かび上がるのが、自分でも分かった。



「地獄だと…?ふざけるな!なぜだ!」



アレスの叫びが、がらんどうの神殿に虚しく響き渡り、吸い込まれていく。


何重にも反響するかと思いきや、音はすぐに「無」に殺され、彼の耳には、自分の声がまるで他人事のように聞こえた。



「私は我が身を犠牲にし、この世界を救ったのだぞ!私の行いによって、どれだけの民が救われたと思っている!何億という人々が、私の功績の上で幸福を享受しているのだ!これ以上の正義が、これ以上の善が、この世界のどこにあるというのだ!」



玉座の男――冥王ハデスは、その魂の絶叫を浴びても、眉一つ動かさなかった。その瞳孔は、激昂するアレスを映しても、針の先ほども揺らがない。


彼はただ、嵐が過ぎ去るのを待つかのように静かにアレスを見つめ、そして、全ての言葉が途切れたタイミングで、静かに、その冷たい唇を開いた。



「では、お前の『正義』の検証を始めよう」



その一言は、地獄の宣告そのものよりも、冷たく、そして重く、アレスの魂に突き刺さった。




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