豊穣島と祭りと神
にこん
第1話 招待
「やった!マジかよ!」
都内にある築年数だけはやたらと長い、風呂なし共同トイレのアパートの一室で、俺――高橋健太は、薄暗い部屋に似つかわしくないほどの大声を上げた。
手の中のスマホの画面には、メールが燦然と輝いている。
『【当選通知】豊穣島リゾート1週間ペアチケットプレゼント!』。
蛍光灯の明かりが反射して、一瞬、目が眩んだ。いや、これは眩んだんじゃない、あまりの信じられない幸運に、俺の脳が処理落ちを起こしたのだ。
豊穣島。
その名前は、以前SNSのタイムラインで偶然見かけた。
友人の友人、くらいのぼんやりした知り合いが投稿していた写真で知っていた。山も海もあって、飯が馬鹿みたいに美味い。とんでもなく豊かな自然に恵まれた、日本の南西に浮かぶ小さな離島。そんな場所、俺みたいな日雇いバイトで食いつないでる人間には、一生縁がないと諦めていた聖域だ。それが、よりにもよって、この俺に、降って湧いたのだ。
日々の生活は、まさに戦場だった。朝は工事現場で汗を流し、夜は居酒屋で皿を洗う。家に帰れば、湿気とカビ臭さが充満した六畳一間が待っている。隣の部屋からは毎晩のように壁ドンが響き、上の階からは得体のしれない騒音が聞こえてくる。たまの休日に惰性でスマホを眺めては、インスタグラムでリア充たちの煌びやかな生活を指をくわえて眺めるのが精一杯。そんな俺に、一週間のリゾート旅行。それは、砂漠でオアシスを見つけた旅人のような、いや、それ以上に劇的な出来事だった。
当選メールを何度も見返し、詐欺ではないかと疑い、URLをコピペして検索窓に貼り付け、公式サイトと見比べた。どうやら本物らしい。信じられない。でも、信じるしかない。このチャンスを逃す手はない。俺はすぐにスマホを握りしめ、唯一の親友である山下亮太に電話をかけた。
「おい亮太!聞いてくれよ、すげぇことがあったんだ!」
「なんだよ、健太。いきなりうるせぇな。またパチンコで大勝ちでもしたのか?」
「パチンコどころじゃねぇ!豊穣島のリゾート旅行、当たったんだよ!一週間ペアチケット!」
電話口の亮太が、一瞬沈黙した。そして、堰を切ったように爆笑し始めた。
「はははは!お前、夢でも見てんのか?まさか、そんなことあるわけねぇだろ!」
「マジなんだって!メールも来てるし、公式サイトで確認もした!なあ、お前も行こうぜ!たまにはゆっくりしたいだろ?」
亮太は最初こそ半信半疑だったが、俺がしつこくメールのスクリーンショットを送ると、ようやく事態を理解したようだった。結局、彼は「お前がそこまで言うなら、付き合ってやるよ」と、ぶっきらぼうながらも快くOKしてくれた。二人で旅行に行くのは、高校の修学旅行以来かもしれない。普段の生活で凝り固まった心が、少しずつ解けていくのが分かった。
数日後、俺たちは真新しい旅行カバンを引いて羽田空港にいた。亮太は相変わらず仏頂面だったが、その目はどこか遠い場所を見つめているようだった。飛行機に乗り込むと、窓の外には見慣れた都会の景色が広がっていた。あのゴミゴミとした喧騒から、一週間だけ解放される。想像するだけで、胸が高鳴った。
豊穣島空港に降り立つと、まず感じたのは、ひんやりと、しかしどこか甘い、独特の潮の香りだった。アスファルトの滑走路の向こうには、深い緑色の山々が連なり、その合間からは、鮮やかなエメラルドグリーンの海が顔を覗かせている。空気は澄み切っていて、東京の排ガスにまみれた空気とはまるで違う。全身の細胞が、新鮮な酸素を吸い込んでいくような感覚に陥った。
「うわぁ…すげぇな、ここ」
亮太も、普段の皮肉めいた口調を忘れ、感嘆の声を漏らした。俺たちは空港の送迎バスに乗り込み、予約していた宿「海の囁き亭」を目指した。バスの窓から見える景色は、まさに絵葉書の世界だった。手入れされたヤシの木が立ち並び、色とりどりの花々が咲き乱れている。地元の人々だろうか、穏やかな笑顔で歩く人々の姿が、都会のせわしない風景とは対照的だった。
「海の囁き亭」は、港から少し離れた、小高い丘の上に建っていた。木造りのロッジ風で、バルコニーからは真っ青な海が一望できる。チェックインを済ませ、部屋に通されると、俺は思わず歓声を上げた。清潔で広々とした部屋。大きな窓からは、潮風と共に海の香りが流れ込んでくる。そして、バルコニーに出てみれば、そこはもう、ただただ絶景が広がっていた。
「ひゃっほぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!」
俺はもう、我慢できなかった。亮太が呆れた顔で俺を見ているが、そんなことどうでもいい。日々の鬱憤が、積もり積もった疲労が、一気に吹き飛んでいくような感覚。俺はもう夢中になって遊び回った。
初日は、まず海を満喫した。透き通るようなコバルトブルーの海は、想像を遥かに超えて美しかった。シュノーケリングセットを借りて海に潜ると、そこはまるで別世界。色とりどりの熱帯魚が悠々と泳ぎ、サンゴ礁が太陽の光を受けて輝いている。クマノミの可愛らしい姿に癒され、鮮やかな色の魚たちが俺の周りをひらひらと舞う。まるで自分が、海の一部になったような感覚だった。亮太は最初こそ渋っていたものの、一度海に潜ってしまえば、俺以上に夢中になって魚を追いかけていた。
夜は、地元の漁師が営むという小さな居酒屋へ向かった。店の奥には、いけすがあり、新鮮な魚介類が所狭しと泳いでいる。漁師のおっちゃんは、いかにも海の男といった風貌で、豪快に笑いながら、今日の水揚げを教えてくれた。
「おう、にいちゃんたち!今日は最高のカツオが獲れたぞ!刺身でも、たたきでも、好きなように食わせてやる!金?そんなもんいらねーよ。地上の楽園だからな!」
出された料理は、どれもこれも絶品だった。獲れたて新鮮なカツオの刺身は、口の中でとろけるような甘さ。プリプリのエビやイカの天ぷら、そして地元でしか味わえないという珍しい魚の煮付け。どれも都会では考えられないような値段で、これでもかとばかりに堪能した。隣で亮太が、普段の何倍もの勢いでビールを煽っている。俺も負けじと、島の地酒をぐびぐびと飲み干した。
二日目は、レンタサイクルを借りて島を一周することにした。道中、いくつかのビーチに立ち寄った。どのビーチも、白い砂浜と透き通った海が広がり、まるでプライベートビーチのようだった。人気の少ない入り江では、二人で童心に返って砂浜に絵を描いたり、波打ち際で石投げをしたりした。都会の喧騒を忘れ、ただただ時間の流れに身を任せる。こんな贅沢が、この世にあったなんて。
午後は、島の中心にそびえる山に登った。整備された遊歩道を歩き、少し息を切らしながら頂上を目指す。鬱蒼と茂る木々の間からは、時折、鮮やかな鳥の声が聞こえてきた。山頂にたどり着くと、そこには息をのむような絶景が広がっていた。エメラルドグリーンからコバルトブルーへと移り変わる海のグラデーション。白い波が砕ける様子は、まるで白いレースのようだった。遠くには、いくつもの小さな島影が浮かび、空と海の境界線が曖昧になる。
「…生きててよかったな、健太」
亮太が、珍しくしみじみとした声で言った。彼もまた、この景色に心を奪われているようだった。俺は深く頷いた。この言葉は、俺たちがどれだけ日々の生活に疲弊していたかを物語っていた。この島は、俺たちの心を解き放ち、忘れかけていた感情を呼び起こしてくれる、そんな特別な場所だと感じた。
そして、そんな充実した日々の中で、俺は一人の少女と出会った。
三日目の昼下がり、俺と亮太は地元の特産品を売る店で、お土産選びに悪戦苦闘していた。特に、亮太がどうしても欲しいと言い張る、やたらと高価な謎の民芸品を巡って、俺と店のおばちゃんが値段交渉で押し問答を繰り広げていた時だった。
「あの、もしよかったら、そちらの商品は少し値引きできますよ。今日はたまたま社長が機嫌いいみたいですから」
涼やかな声が、俺たちの会話に割って入った。振り返ると、そこに立っていたのは、漆黒の長い髪が印象的な少女だった。すらりとした体躯に、健康的そうな肌。そして何よりも、屈託のない、明るい笑顔が魅力的だった。年の頃は、俺より少し下くらいだろうか。
「え…あ、ありがとう…」
俺がどもりながら礼を言うと、少女はにこやかに笑い、交渉の続きを代わりに進めてくれた。彼女のおかげで、亮太は無事に欲しがっていた民芸品を、少しだけ安く手に入れることができた。
「助かりました!ありがとうございます!」
俺が深々と頭を下げると、少女はくすくす笑った。
「いいえ、どういたしまして。私、美鈴って言います。このお店の手伝いをしてるんです。少し島のこと案内しましょうか?」
彼女はそう言って、優しく微笑んだ。その瞬間、俺の心臓が少しだけ、跳ね上がったような気がした。
「俺は健太です。こいつは亮太」
俺は亮太を指差しながら自己紹介した。亮太もぶっきらぼうに「どうも」と会釈した。
美鈴は、豊穣島で生まれ育った生粋の島民だという。彼女は島の隅々まで知り尽くしていて、俺たちに様々なことを教えてくれた。島の美味しい食べ物、穴場のビーチ、そして地元の人間しか知らないような秘密の絶景スポット。美鈴の案内で、俺たちはさらに豊穣島の奥深さに触れることができた。
美鈴は、本当に気さくで、からっとした性格の持ち主だった。俺が冗談を言えば、大きな声で笑い、亮太がふざければ、楽しそうにツッコミを入れた。俺たちが訪れる場所を、美鈴はいつも楽しそうに案内してくれた。彼女が案内してくれた、誰もいない小さな入り江で、俺たちは波打ち際で貝殻を拾い、透明な海に足を浸した。
「ねぇ健太くん、この島で一番美味しいジェラート屋さん、知ってる?」
「知らない!どこ?」
「ふふ、じゃあ今度連れて行ってあげるね」
美鈴はそう言って、いたずらっぽく笑った。彼女といると、どんな些細なことでも楽しく感じられた。ほんとに短い期間で、俺たちはまるで幼馴染のように仲を深めていった。美鈴は、都会の喧騒の中で忘れかけていた、純粋な喜びや感動を、俺に思い出させてくれた。この島に来て本当に良かった。美鈴に出会えて、本当に良かった。心からそう思える、夢のような時間だった。
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