洞窟の中は下り坂になっていたが、異様に寒い風が常に吹き込むのに加え、時折それに乗って肉の腐ったような不快な匂いが漂ってきた。薄暗い森の中にある為か、入り口から既に漆黒に包まれていたが、幸いにも隊長が副隊長に渡した道具の中には人数分のランタンがあり、視界不良に悩まされることは無かった。壁や天井は常に湿ってランタンの光を反射しており、たまに天井から何かが滴る音がどこかから聞こえた。床にはところどころ水溜まりが溜っているようで、私や副隊長が気付かずにそれを踏んでぴしゃりと音を出してしまうことがしばしばあった。しかしそれによって怪物が私たちの存在に気付いて襲い来ることも、踏み込んだ液体に足裏を焼かれることもなかった為、知らず知らずのうちに私たちは自らが洞窟の入り口で感じていた言いようもない死の気配に慣れてしまったのか、もはや先の闇に潜むものを警戒することすら忘れてしまっていた。暫く奥へ進めば森全体を喧しく揺らしていた虫の音も遠ざかり、それがくぐもった囀りとなった後、遂に風の喚きと雨漏りだけが残ったので、私は硬い洞窟の床から足を離す時に聞こえる水の引き剥がされる音に意識を向けながらふらふらとランタンの丸い光に照らされる副隊長の背中についていった。やがてまっすぐ続く下り坂が終わり、傾きの無い平坦な床の広がる広い空間に出た。そこへ足を踏み入れたことで私たちをこの秘密を潜ませる洞穴から排斥しようと企む風は弱まったが、強風の冷たさによって誤魔化されていた得体の知れぬ悪臭が強まったので、私たちは大広間の入口で足を止めた。しかし臭いに慣れたか、或いはそれを拒むことを諦めた副隊長が闇に覆われた空間に入っていくと、私は真の孤独を恐れて背中を追った。


 下り坂の廊下から離れて以降再びランタンの光が天井や壁を照らすことは無く、私は自分たちが岩の上で広大に広がる闇の中を歩いているような錯覚に陥った。闇の向こうから反響する雫の音がこの空間の広さを示し、私たちに孤独を自覚させることが数回あったものの、それ以上の何かが起こることは無い。ただ、私の身体の奥底から怯えて叫び、立ち上がろうともがく本能が、何かの到来を警告していた。霧状の深淵が充満し、微かな風に乗って漂う悪臭の向かう方向だけが私たちが正しく前に進んでいることを保証してくれていたように思う。副隊長を闇の中へ失われないよう距離を保って歩き続け、足の疲労が無視できないほどにまで強く感じられるようになってきた頃、急に副隊長は立ち止まった。何も言わず、ただ前方のやや上を眺めていたので、私もその左に立った後同じように前を見上げた。それは恐らくこの広い地下空間の最奥の壁で、岩肌に傷のついたものだった。ただしそれが爪痕だったと仮定すれば、その主は間違いなく一掻きで人間の腑を抉り取り、或いは圧し潰してしまいそうな大きさの爪を持っていると確信できた。作り物であると疑わざるを得ないスケールのものだったが、記録ではこの密林に現代人が入ったことはなく、過去如何なる人物がここに隠れ潜んだとしても、これほどのものを壁につけることは不可能に思えた。そして恐ろしいことに、それは一つ二つではなかったのだ。岩の、視界に小さく見えるほどの高度の場所にさえ、その偉大さを示すようにそれが刻まれていたのだ。それの実在があまりに恐ろしく感じ、私は何か自然現象が奇跡によって作用して偶然発生したものであると信じたかった。副隊長に何を尋ねようと思ったのか今では思い出せないが、私はその壁から何かを見出して、そしてそのことを聞こうと思ったと覚えている。そして、それが果たされる前に、私たちが最奥にいる洞窟の広場にひときわ強い突風が吹き、そして背後から悪臭と生ぬるい空気が漂ってきたことに私は気付いた。ついに何かが迫ってきたことが分かった。私と副隊長は言葉を交わすまでもなく洞窟から抜け出すための行動を始めた。壁を伝って、その広場の隅を渡ることで、背後からそれに襲われることの無いよう努めた。ゆっくりと一歩ずつ、音を出さないように壁に背を向けながら広場中央の闇を常に警戒した。その方向からは強い腐臭が絶えず漂ってくるので、その凌ぐべき何かの位置を知るのはそう難しいことではなかった。二度の方向転換の末に、私たちは岩の壁に開いた見覚えのある形状の巨大な穴を見つけた。ゆっくりと慎重に、常に匂いの主の方を睨みつけながら、私たちは上り坂の麓に辿り着いた。そして小休憩の後、再びその悪臭が強まるのを感じ取って私たちは坂を上り始めた。今度は私を先頭に置いて、副隊長が後ろについた。緊張と疲れ、そして重力の為に行きよりも困難に感じたが、しかし私たちは暗闇から迫るかもしれないそれを恐れていたので、それらの要素を理由として怠けることはしなかった。同時に私と、恐らく副隊長も安堵していた。それは怪物の動きからの推察だったが、私たちはその考えに確信めいたものをもっていたのだ。腐臭を纏うそれは、足が遅いはずだ。未だ臭いが途絶えないことを考えるとやはりそれは私たちを追っているのだろうが、しかしその程度のものならばさして恐るべきものではないだろう。そういう信用があった。きっとそれは人間の精神を理不尽から守る為に備えられた楽観性バイアスとも言うべきもので、窮地に陥っている人間の正常な思考回路だった。つまり私たちは、無自覚に自らの危険を悟っていたのだ。圧倒される恐怖と共に漆黒の中にいた事実が、親愛なる二人の仲間を今失おうとしている状況が、明確にその脅威の存在を仄めかす壁に遺された暴力性が、この出口の無い森が、私たちを取り巻く全ての絶望が私たちの四肢に巻き付いて更なる地獄へ引き摺り込もうと企んでいた。そして、その事実に気が付くには、人間はあまりにも愚鈍だった。坂の向こうに外の光が見え始めた頃、私はようやく希望を手にしたと思った。そうしてまた一歩と踏み出したとき、突如背後に続いていた足音の一対が消滅した。

「ああっ!」

副隊長の臆病に弱った喘ぎがして後ろを振り返ると、怯えきった表情のずり落ちて、首の上から何も無くなった副隊長が立っていた。帽子を被ったその頭が坂を転がり、深淵の中へ消えていった。それから暫くの沈黙を挟んで、硬く脆いものと柔らかいゲル状のものをまとめてつぶしたような、水気を含んだ嫌悪される音が通路に響いた。私は目の前で友人が失われる瞬間と迫り来るそれの悍ましき所業を遂に目の当たりにして、自分が愚かにもそれを侮っていたことを漸く悟った。坂の下、地獄からそれが現れる。副隊長をいともあっけなく殺した悪魔が姿を現す。あの壁を散々切りつけた殺人には過ぎた凶器の持ち主が今にも私の視界の中にやって来ようとしているのだ。私は今まで現実への信用とバイアスによって堰き止められ続けていた混乱と嘆きと絶対的な怯えをばら撒きながら、発狂したように洞窟の出口へ一心不乱に走った。これ以上何も見たくは無かったのだ。

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