第9話 ほどけて、繋がる世界
夏は、その勢いを緩めることなく、世界を黄金色に焼き尽くしていた。
八月の上旬。
月影蓮は、一人、あの公園の、ペンキの剥げたベンチに座っていた。
数週間前にひかりと再会し、翔太に電話をかけた、まさにその場所だ。
目の前のバスケットコートでは、小学生たちが甲高い声を上げながらボールを追いかけている。
空は、どこまでも高く、深く、そして暴力的なくらいに青い。
巨大な入道雲が、空の半分を覆い尽くし、その純白の頂は、太陽の光を受けて眩いほどに輝いていた。
ジリ、ジリ、と鳴り響く蝉の声が、まるで熱そのものに音があるかのように、鼓膜を震わせる。
彼のポケットの中のスマホには、数日前にやり取りした、翔太からのメッセージが残っていた。
あの、震える指で通話ボタンを押した日。
数回の、心臓が止まりそうになるほど長いコール音の後、翔太は電話に出た。
『……もしもし』
その声は、蓮の記憶の中にある声よりも少しだけ低く、そして、戸惑いに満ちていた。
蓮は、準備していた言葉のほとんどを忘れてしまい、ただ、こう言うのが精一杯だった。
『……翔太?俺、月影だけど。今、少しだけ、いいか?』
そこから始まった会話は、ひどくぎこちなく、途切れ途切れだった。
だが、蓮は、ひかりに教わった、たった一つのことだけを、必死に守った。
ジャッジをしない。
自分の正しさを主張しない。
ただ、鏡になる。
『あのさ、俺、ずっと考えてたんだ。中学の時のこと』
『……ああ』
『あの時、俺がお前に言ったこと、覚えてるか?』
『……まあな』
『俺、ずっと、自分が正しいこと言ったって信じてた。お前のためだって、本気で思ってた。でも、今になって思うんだ。俺のあの言葉、俺のあの『正しさ』が、もしかしたら、お前をすごく傷つけたのかもしれないなって。お前の心を、無視してたのかもしれないなって』
彼は「ごめん」とは言わなかった。
安易な謝罪は、また別の形の自己満足になってしまう気がしたからだ。
彼はただ、自分の認識が、唯一の真実ではなかったかもしれない、という可能性を、ありのままに伝えた。
電話の向こうで、翔太が息を呑む気配がした。
長い、沈黙。
そして、翔太は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
あの頃、彼がどれほどプレッシャーを感じていたか。
蓮の才能と自信が、どれほど眩しく、そして同時に、どれほど彼を追い詰めていたか。
蓮の「正論」が、彼の逃げ場をすべて奪う、最後の宣告のように聞こえたこと。
二人は、その日、二時間近くも話した。
そして、その週末に、再会した。
駅前のカフェで、向かい合って座った二人の間には、まだ少し、ぎこちない空気が流れていた。
だが、それは、かつてのような拒絶や断絶の空気ではなかった。
長い間、凍りついていた川の氷が、春の日差しを受けて、ようやく、ミシミシと音を立てて溶け始めたような、そんな気配に満ちていた。
完全な和解では、まだないのかもしれない。
失われた二年間は、あまりに長い。
だが、蓮の心にあった、翔太に対する怒りや、自分は被害者だという自己憐憫は、跡形もなく消え去っていた。
代わりに、そこには、友人の痛みを理解したことで生まれる、温かい、そして少しだけ切ない共感が、静かに満ちていた。
ほどけて、そして、また、新しく繋がり始めた世界。
蓮は、ベンチに座りながら、空を見上げた。
高く、青い空。
彼の心も、まるでこの空のように、どこまでも晴れ渡っているように感じられた。
***
夏休みが明け、九月になった。
長く続いた猛暑も、ようやく峠を越え、朝晩の風には、秋の気配が微かに混じるようになっていた。
校庭の桜の葉が、少しずつ色を変え始め、空を鳴きながら渡っていく鳥の群れが見られるようになった。
夕暮れが、日に日に早くなっていく。
教室の窓から差し込む西日の色も、真夏の暴力的なオレンジ色から、どこか物寂しさを感じさせる、赤みを帯びた黄金色へと変わっていた。
二学期が始まった二年A組の教室は、明らかに、その空気を変えていた。
そして、その変化の中心にいたのは、間違いなく、月影蓮だった。
夏休み前とは、まるで別人のようだった。
かつて彼の全身を覆っていた、他者を寄せ付けないような刺々しさや、他人の不幸を糧にするような危うい輝きは、すっかり鳴りを潜めていた。
今の彼は、まるで嵐が過ぎ去った後の、静かな湖面のようだった。
穏やかで、深く、そして、周りの景色をありのままに映し出す、澄んだ存在感を放っていた。
その変化に、クラスの誰もが気づいていた。
そして、人々は、再び彼の周りに集まり始めた。
だが、その目的は、以前とは全く違っていた。
愚痴や不満をぶちまけて、ネガティブな共感を求めるためではない。
ただ純粋に、新しい「月影蓮」という人間に興味を惹かれ、彼と話をしたいからだった。
その日も、放課後の教室で、一人の女子生徒が、蓮に相談を持ちかけていた。
クラスメートの男子と付き合っている、萌という生徒だった。
「ねえ、蓮くん。聞いてよ。彼氏の拓也と、喧嘩しちゃったんだ」
萌は、少し涙目で、蓮に訴えた。
「拓也が、私のこと、全然分かってくれないの。『もっと俺を信じろ』って言うけど、不安にさせるようなことばっかりするくせに!ひどくない!?」
以前の蓮ならば、間違いなくこう言っただろう。
『ひどいな!拓也、マジでデリカシーなさすぎだろ!悪いのは全部アイツだ!』
そして、萌のネガティブな感情を煽り、自分を「唯一の理解者」として彼女の心に君臨したはずだ。
だが、今の蓮は違った。
彼は、まず、萌の話を、一切遮ることなく、最後まで黙って聞いていた。
そして、彼女が話し終えると、深く一度頷き、静かに言った。
「そっか。拓也にそう言われて、すごく悲しかったんだな。分かってもらえないって感じて、辛かったんだな」
彼は、善悪をジャッジしない。
ただ、彼女の感情、彼女の主観的な「真実」を、そのまま、鏡のように受け止めて、返した。
萌は、自分の感情を正確に言語化され、肯定されたことで、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
「うん…そうなの…」
「拓也が悪い、って思うよな。俺も、話だけ聞いてると、そう思う」
蓮は、彼女の視点を、一度は完全に受け入れる。
「でもさ」と、彼は続けた。その口調は、ひかりのそれを、どこか彷彿とさせた。
「拓也には、拓也の見えてる世界があるんだろうな。彼が『信じろ』って言う時、彼の頭の中では、どんな景色が見えてるんだろうな」
それは、断定ではない。
ただの、可能性の提示。
そして、蓮は、決定的な問いを、優しく投げかけた。
「で、萌は、本当は、どうしたいの?拓也と、これから、どうなりたい?」
答えを与えない。
解決策も示さない。
ただ、問いかける。
相手が、自分自身の心と向き合い、自分自身の力で、答えを見つけ出すための、手助けをする。
萌は、ハッとしたように顔を上げた。
そして、うつむき、しばらく何かを考え込んでいた。
やがて、顔を上げた彼女の表情は、すっきりとした、覚悟を決めたものに変わっていた。
「…そっか。私、ただ、拓也に謝ってほしかっただけなのかも。でも、本当に望んでるのは、仲直りして、また楽しく笑い合うことだ。私、自分の気持ち、ちゃんと拓也に話してみる。怒るんじゃなくて、私がどう感じたか、を」
そう言って、彼女は「ありがとう、蓮くん!」と、心からの笑顔で言うと、拓也のいる部活の部室へと、走っていった。
蓮は、その後ろ姿を、穏やかな気持ちで見送っていた。
誰かに依存させるのではなく、その人が、自分の足で、力強く歩き出すのを見届ける。
それは、彼が今まで味わったことのない、静かで、しかし、深い充足感に満ちた喜びだった。
教室の隅で、ひかりが、その様子を、母親が我が子の成長を見守るような、温かい目で見つめていたことに、蓮は気づいていなかった。
蓮の変化は、彼が直接関わらない場所でも、静かな波紋を広げ始めていた。
蓮に相談して、自分で問題と向き合うことを覚えた萌が、今度は、別の友人の相談に、同じように乗っている。
ひかりという、たった一滴の「青いインク」から始まった物語。
それは、美咲や、健太や、沙耶や、優衣という、いくつもの拡散点を生み出した。
そして今、月影蓮という、クラスで最も影響力のあった「王様」が、強力な拡散源として生まれ変わったことで、その流れは、もはや誰にも止められない、巨大な潮流となっていた。
二年A組の教室は、物語の冒頭とは比較にならないほど、穏やかで、安全で、そして、幸福な場所に変わりつつあった。
誰もが、ありのままの自分でいることを許され、他人の「違う形をした真実」を、尊重し合える場所。
その日の放課後。
蓮とひかりは、二人きりの教室で、窓の外を眺めていた。
秋の日はつるべ落とし、という言葉通り、太陽はあっという間に西の山の端へと沈み、空は、オレンジと、ピンクと、深い紫が混じり合った、息を呑むほど美しいグラデーションに染まっていた。
「…なあ、ひかり」
蓮が、ぽつりと呟いた。
「俺、最近、やっと、お前の言ってたことの意味が、ほんの少しだけ、分かった気がするよ」
「…うん」
「自分の内側が変わると、本当に、見える景色まで変わっちまうんだな。お前って、やっぱり、すげえよ」
それは、蓮の、心からの言葉だった。
ひかりは、嬉しそうに、でも、少しだけ寂しそうに、首を横に振った。
「ううん。すごいのは、私じゃないよ」
彼女は、蓮の目をまっすぐに見つめて言った。
「自分で自分の弱さと向き合って、怖くても、ちゃんと一歩を踏み出した、蓮くんが、すごいんだよ。私は、本当に、何もしてない」
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。
もはや、そこに、かつてのような対立や、依存の関係はない。
同じ真理を見つめ、同じ景色を美しいと感じる、対等で、深く信頼し合った「同志」のような空気が、二人を優しく包んでいた。
自分の内面の変化が、こうして現実の世界の風景を変えていく。
その、不思議で、しかし、どうしようもなく確かな手応えを、蓮は、今、感じていた。
個人の、たった一人の人間の救済が、巡り巡って、世界全体の救済へと繋がっていく。
そんな、壮大で、しかし、希望に満ちた物語の、本当の始まりを、彼は予感していた。
秋の、一番星が、美しく染まった空に、瞬き始めていた。
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