22.君は


 深夜十時。じいじいと、ケラの鳴く音がする。

 窓の外からふわりと風が吹き込み、カーテンが純哉じゅんやの背中をなでた。

 草むしりの始末を終えて戻って見れば、すでに和樹かずきの姿はなく、鍵も職員室に戻されていたので、それを手に取り、純哉は図書準備室へと戻ってきていた。

 長椅子に頬杖を突きつつ、ファイルをめくりながら、ぼんやりと眺める。

 今更ながら、自分は一体何をしているのだろうと思わなくもない。

 昇進間際だった職場を離れ、全くの畑違いだった用務員になってまで高校に忍び込んだ。あちこち調べまわって、確かにある程度の納得もした。当時はまるでわからなかったことが紐解かれ、宙ぶらりんになったままだった片思いとその喪失に、ちゃんと向き合うことができたようにも思う。

 ――もう、本当に潮時なのかも知れない。

 ふうと溜息を吐き、そろそろ帰らなくてはと立ち上がりかけたその時だった。

 音が聞こえた気がした。

 おやと思い廊下へ出る。確かにチャイムの鳴る音がした。こんな時刻に? と純哉は眉をしかめる。ズボンからスマホを取り出した。深夜十時。しかも夏季休暇中だ。明らかに対応すべき来客ではないだろう。しかし妙な胸騒ぎがして、純哉は階段を下った。

 角を曲がり職員玄関のガラス戸の外を見れば、そこに一人の女性が立っている。見た印象は父兄だ。

 あちらも純哉に気付いたのか、その表にはっとしたものを浮かべる。純哉が鍵を開けて「どうなさいましたか」と聞くと、やっぱりと言わんばかりに、女性の顔に一瞬の安堵が浮かんだ。

「あなた、先日和樹がお世話になった」

「ああ、和樹の……ご家族の方ですか」

 ファミレスへ向かう前に送らせていた写真と車を見ていたのだろう。女性はこくりと頷くと「麻生和樹の母です」と頭を下げた。

「あの、和樹はまだ学校にいたりしますでしょうか?」

 純哉がうっと詰まる。

「帰ってないんですか?」

 母親は難しく顔を歪めてこくりと頷く。

「スマホも、充電が切れたのか繋がらなくて……以前、部活の先輩という方が一度ウチに来られたことがあるんですが、その方が何か知らないか、学校の方から聞いていただくことはできないものかと……。あの、私達も、ここへは越してきたばかりで、まだ知り合いもいなくて。心当たりがその方しかなくて」

「わかりました。ちょっと、お待ちください」

 純哉は慌ててスマホを取り出した。柊太しゅうたに電話を掛ける。しばらく暗闇の中にコール音が続いた。夏のぬるい空気の中に、時おりひやりとした風が混じっては、純哉の首筋をなぶってゆく。背筋がぞっとした。

「もしもし、柊太か?」



 軽快な着信音がリビングに響き、ラーメンをすすっていた椎菜しいなが顔を上げた。

はれは誰だ?」

 椎菜の目の前で、同じく夜食の相伴にあずかっていたあかねが、ずぞりと麺を啜り上げる。椎菜はスマホへ目を向けたまま「柊太君」と答えて通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『あっ、夜分にすいません椎菜先輩。あの、和樹がどこにいるかとかって、今わかりますか?』

 はっと椎菜の目が茜に向かう。ぴくりと三白眼の上の眉が動き、「スピーカーに」と言いながら、茜は卓上のティッシュを抜き取って口元をぬぐった。

 椎菜は自分の座っている椅子の背もたれに止めていた、バスタオル用の白い洗濯ばさみを手に取った。それでスマホを後ろから掴ませて、スピーカーボタンを押し、テーブルの上に立てかける。犬の耳と鼻で落書きされた柊太の写真が待ち受ける。

「柊太。和樹がどうした」

『あっ、茜先輩も! よかった。今さっき純ちゃんから電話があって、学校に和樹のお母さんが見えられて、和樹がまだ帰ってないってことらしいんですけど、先輩方、何か聞いてませんか?』

 椎菜と茜は顔を見合わせた。一気に場の空気が黒く冷える。

「――いや、俺は全く」

 茜が答えると、柊太のがっかりした吐息が、テーブルの上で立てかけられたスマホから零れた。

『そうですか――椎菜先輩は?』

「ごめん、私も全然……」

『そうですよね……いや、僕ね、今日和樹と会ってたんですけど、でも三時には別れたんですよ、小南商店で』

「柊太君、夏期講習があるって言ってたものね?」

『そうなんです。で、僕もさっき帰ってきたばっかで、そしたら純ちゃんから……あの、全然連絡とか来てませんか?』

「連絡、と言っても」

「アカネ、あんまりスマホ見ないもんね……」

 茜は眉間に皺をよせつつ、自身のスマホを取り出した。

 ラインのアイコンの右肩には、赤い五十二件の着信が並ぶ。連日クラスラインに流れてくる、受験生とは思えない夏に浮かれた陽気な写真と、出所の不確かな噂話。濁流のような交流に着いていけなくて、茜は週に一度だけタップし、ほとんどまともに見もせず着信を消すようにしていた。やはり四十数件がクラスラインによるもので、その下には、すでに確認している椎菜と、それから母親の名が並んでいる。

 下へ向けてついと一度スクロールして、「あ」と気付いた。

「何? アカネどうした?」

 茜はちらと椎菜を見てから、再び手元に目を落とした。

「すっかり忘れてた」

「何を?」

 二週間前、あの件があってから、茜は和樹からのラインをミュートにしていた。

 和樹の名前に触れる。表示された数件の言葉達に、茜はぐっと詰まった。茜から返されない返信に、少しずつ和樹が他人行儀に、そして遠慮がちに言葉少なくなってゆくのが一目瞭然だった。ちり、と今更ながらに茜の胸が痛む。ひどく薄情で、冷たいことをした。

 スクロールして最新のメッセージを見た。今日の午後十七時半、茜の目がゆっくりと見開かれ、唇がふるえた。

 椎菜が横から画面をのぞき込む。「ひっ」と息を飲んで口元を手で覆った。

『もしもし? 椎菜先輩? 何かあったんですか?』

「あの、柊太君……アカネのスマホに、和樹君からラインが入ってて」

『はい』

「それに――」

 茜が勢いよく駆けだした。バンとリビングのドアを押し開けて玄関へ向かって一目散に駆けてゆく。

「アカネ⁉」

 椎菜も慌ててスマホを掴み、茜の後を追う。風呂から上がったばかりの弟と廊下で鉢合わせ「あれアカネちゃん帰んの?」と問うてきたが、二人ともそれに返事を返す余裕はない。

 靴を突っかけると、茜はそのまま外へと駆けだしてゆき、遅れてサンダルに足を入れた椎菜が閉まりかけた玄関のドアを押し開けるも、茜は表に停めていた自転車に飛び乗り、いきなりトップスピードに乗せた速さで住宅街を飛び去っていったところだった。

 背中を目で追うしかない椎菜の手元で、柊太が『もしもし? もしもし⁉』と繰り返している。椎菜は険しい顔でスピーカーをオフにすると、スマホを耳にあてて「柊太君」と呼び掛けた。

「アカネ、今自転車に乗って出ていった。和樹君から、夕方の五時半にラインがきてて、それに『犯人の目星がついたかも知れません。さぐりをいれに行ってきます』って一言……」



 茜の駆る自転車が、菰野岩こものいわの家並みを疾駆してゆく。

 夜の中、対向車線のライトに何度も目も射抜かれながら、茜は息も止めてペダルを蹴り続けた。

 悔やんでも悔やみきれない。何をやっているんだ自分は! 夏樹の時だってそうだった。前日のケンカを引き摺ったあげく、雨の日に夏樹を締め出した。そのせいで夏樹の身に何かがあったことを知りながら、ぐずぐずと声を掛けられずにいるうちに、夏樹はいなくなってしまった。

 和樹は不審者に追われたばかりだ。自分も一緒にいたのだから知っているに決まっている。そして、父親の件に気付いてしまったからと、うじうじと距離を取っていてこんなことになった。

 逃げだ。

 自分はいつも、逃げることで大切な何かを失ってきた。

 このまま大通りをゆけば、学校前につけるが、その前にはっと気付いて茜は一本道を逸れた。

 アスファルトも敷かれていない、車幅の狭い砂利道の奥に、昭和レトロと言えば聞こえはいいが、赤いトタン屋根の乗る古い同型の平屋が、そこに数棟建ちならんでいる。そのうちの一軒の前で自転車を滑らせるように停車させると、茜は玄関に駆け込んだ。

 ポケットから財布を取り出し、中から鍵を取り出す。がちゃがちゃと鍵を回して開けると、奥の居間でサブスク視聴をしながら缶チューハイ片手に煙草をくゆらす母の背中があった。靴を脱いでいると振り返り「茜おかえり」と声をかけてくる。

 茜は返事もせずに、右手へ速足で進んだ。部屋から身を乗り出し母が茜の背中に「どうしたの?」と呼び掛けている。茜が廊下を進んで向かったのは夏樹が使っていた部屋だった。

 ドアの前に立ち、一瞬ノックしてしまいそうになるのを止めてから、一瞬深呼吸する。勢いをつけてドアを開けると、ずかずかと机の前に立った。

「何してるの茜」

 追ってきたらしい母がドアの前から茜に問う。茜はやはり黙ったまま、机の袖引き出しの最上段を引いた。

 中にあるのは、生徒手帳と、それから一通の手紙だ。それを取り出し、ぐるりと振り返る。ドアの前にいた母親の隣をすり抜けると、茜はそのまま玄関を飛び出ていった。

 手紙を折りたたんで生徒手帳の間に挟み、シャツの内ポケットの中に押し込む。倒していた自転車を引き起こしたとたん、茜の頬にぽつりと水滴がかかった。ぱらぱらぱらと、夏の雨が落ちてくる。急いで自転車の向きを直すと、茜は再びペダルを全力で蹴った。

 苦笑で頬が歪む。また雨が降るのか。いや、今度こそそのままにはしない。必ず和樹を見つける。もう四の五の言っている場合じゃない。

 疾走する自転車は、急カーブのガードレール際ギリギリを転倒することなく曲がりきり、先日和樹と歩いた裏道からではなく、表通りから進入する坂道を上りきってマンションにたどり着いた。

 表の植え込み前に自転車を寄せて玄関の階段を駆け上がる。噴き出る汗に、血の味がするほどに痛む喉。殴りつけるように脈動する胸を手で一瞬叩いてから、オートロックで部屋番号を入力しようとしたその時だった。

「茜か」

 背後から名を呼ばれて振り返る。見れば入り口のドアから、和樹の母親と純哉が入ってきたところだった。

「純哉さん」

「来てくれたのか」

 茜がこくりと頷くと、和樹の母親が顔を歪めて涙ぐんだ。

「すみません、ありがとうね」

 茜は首を横に振り、「お話があります。お邪魔しても?」と手短に問うた。

 母親は頷き、「伊藤さんにも、それで来ていただいたの」と言ってからオートロックへ向かう。ぴーと音がして、内側のドアが開いた。

 三人エレベーターに乗り込み、茜にとっては二度目の十二階へ向かう。唇を引き締めながら、ぎりと拳を握りしめる。隣に並ぶ純哉がそれを認めたのか、「茜、大丈夫か?」と問うのに、「はい」とだけ返した。カゴの内にモーターの稼働音だけが響くなか、苦い沈黙を破ったのは、ぽぉん、という、のどかな音だった。

 母親が玄関のドア前でチャイムを鳴らす。ややあって、がちゃりとドアが開いた。

 出てきた和樹の父親が、純哉と茜の顔を見るなり表情を硬くする。

「先輩、戻られましたか?」

 奥から別の男の声がする。たすたすと、スリッパでフローリングを踏み進む音がする。リビングのドアがかちゃりと開き、そこから顔を出したのは、不精ヒゲと天パの痩せた男だった。

 純哉の来訪は、予め母親から聞いていたらしい。父親が「ご足労いただきました」と頭を下げる。それから、じっと茜を下から睨み上げた。いや、そう見えただけかも知れないが。

「君は、先日うちに来ていた子だったかな」

 茜はこくりと頷いた。

 和樹の父親――麻生あそう冬樹ふゆきに向ける茜の視線には、恐らく拭い去れない敵意が満ちていたに違いない。だが、状況的にみて、そんなものに拘泥している場合ではないことは、きっと互いに承知しているはずだった。

 茜は胸の内ポケットから、夏樹の生徒手帳を取り出した。折った手紙は指の間に挟み込み、開いた生徒手帳の内側に挟まれていた古い写真を冬樹の目の前に突きだす。一瞬怪訝そうな顔をした冬樹だったが、そこにあった家族写真を見て顔色を変えた。その表情が、見る見るうちに厳しく険しいものへと変わってゆく。

「君は、誰だ」

 茜の三白眼の白目の部分は、青く見えるほどに澄んでいる。

 そこへゆらりとよぎったのは、行方の不確かな殺意と、それから、この十年の間、一度たりとて冷えることのなかった、底の知れない怒りだった。

鍵丸かぎまるあかね。名前ぐらいは知ってるだろう。姫川ひめかわ夏樹なつきの――あんたの娘の、もう一人の弟だ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る