17.アンタッチャブル


 じじじじじと鳴くのはアブラゼミか。

 午後二時の熱波のなか、額に浮いた汗をぬぐいながら、和樹は裏道を歩いていた。傷みの目立つアスファルトは、下から竹の地下茎によって押し上げられている。風になぶられて笹がサラサラと涼し気な音を立てているが微塵も涼しくない。すでに家に帰りたい気持ちを押し殺して、鉄板の上を歩くような拷問に耐えて進んだ。

 暑さも最高潮に達した八月の盆過ぎ。本来であれば暑さ寒さも彼岸までであろうに、ここ近年は気温が上昇する一方で、もはや四季などどこへ行ったのだ状態だ。

 裏道から校舎の西側にある、その狭い側道を抜けてゆくと、やがて道幅が広がり、その先には高校の敷地にめり込むような形で、小南商店がちんまりと角地を占めていた。

 角を曲がって店の表側に回ると、ベンチに座っていた柊太が「よっ」と片手を上げた。

「お疲れさま」

 和樹が声をかけると、柊太はしょっぱそうに顔を歪めて「よどんでるねぇ」と率直な感想を述べた。

 二人店内に入ると、命がよみがえりそうなほどに、しっかりと冷房が効いている。エアコンを使うのを嫌がるお年寄りが多いと聞いているが、小南商店では嘘のようだ。

「はいはい、いらっしゃい。暑かったでしょ」

 とことことゆっくり店の奥から出てきたおばあさんに会釈をしつつ、二人は冷蔵庫の中からラムネを一本ずつ抜いた。釣銭なしの支払いを済ませたあと、二人して大きく冷気を吸い込み、決死の覚悟で店の外へ出る。

 とたん、一気に熱波が二人の全身を包んだ。ゆで上がりそうになるのに耐えながら、二人なんとかベンチに腰掛ける。ラムネの蓋をぽんと押し込んで、ごくりと飲み干せば炭酸の刺激と甘さでむせ返りそうになった。

「――で? 茜先輩はライン完全無視って?」

「うん」

 ラムネビンを片手に、和樹はどんよりと俯く。

「あのあと、二人でこっそりプールでランデヴーして」

「してない」

「きゃっきゃ仲良く戯れて」

「戯れてはない」

「自宅に招いてお風呂まで共にした仲なのに」

「一緒には入ってないって」

「なんでそこから二週間以上もシカト喰らってんだと」

「――はい、そうです」

 はああと和樹は深く重い溜息を吐く。

「なんだろう、オレなんかしたんだろうか……いや確かにちょっと調子に乗ったことは認める。そこは認める。でも、茜さんの話聞いてなんかおかしな返しをした記憶はないし、オレの話もちゃんと聞いてくれたし、えーなんだろう、母さんが出したパンツのサイズが小さかったとか?」

「和樹ぃ、さすがに迷走しすぎだってばよ」

「わからない……茜さんがもうわからない」

 俯いたままブツブツと唸り続ける和樹に、柊太は苦笑う。

「しっかりこいわずらってんねー」

 最早否定する元気もない。和樹は毒素のような溜息を吐きながら、道の彼方でゆれる逃げ水を眺めた。それは和樹に、あの夜に見た水面のことを思わせた。

「まあ、あのあと茜先輩から何を聞いたんかは、僕からは聞かないけどさ」

 ラムネに口をつけ、柊太もまた溜息を吐く。

 プールで茜が語ったことは、二人きりだったからこそ打ち明けてくれたものだったかも知れない。そう思うと、勝手に自分の口から他の皆に内容を伝えてはいけない気がした。

 だが、あの話にはとても重要なことが含まれていたのは間違いなく、皆に共有していいかを確認するためにも、茜本人に連絡を返して欲しかった。今のところ全敗だが。

 そして、和樹の家から怒ったように、そしてまるで逃げ帰るようにして出ていく直前に、茜が言った、父親に自分のことを一切話すなという、あの言葉の意味を、和樹はずっと考えていた。

 自分が風呂に入っている間に、何か親が彼に失礼なことをしたのではないだろうか。疑わしいとは思いつつも、親に対して「何か余計なことをしたか」と聞くのも、こちらの手の内が透かし見られてしまいそうで、できずにいた。

 あっという間に飲みほしたラムネのビンを、柊太は両手ではさんでコロコロしながら唇を尖らせる。

「正味の話さー、椎菜先輩も予備校の予定が詰まってるし、校内での残りの手紙の探索は純ちゃんがやってるじゃん。手紙もほぼそろって話の流れは掴めたから、できる解釈は全部出切っちゃってんだよね」

「うう……」

「夏樹さんと椎菜先輩達との関係も全部わかったし」

「柊太と純哉さんと夏樹さんの関係もね……」

「だからぶっちゃけ、あとは探れるとこなんて、手紙にあった、夏樹さんに絡んでたヤツが何者なのかーってのとさ、そいつが本当に夏樹さんの失踪に関わってるのかってとこしか残ってないんだよな」

「そうなんだよな……わかってはいるんだよ、オレも」

 そして、そこから先へと進む方法が、自分達のカードにはないのだということも。

 一人の人間が姿を消すというのは大ごとだ。周りの多くの人間を巻き込んで、その人生を変えてしまうことになる。茜はまさにその波を被った被害者の一人で、はっきりと言葉にはしたくないが、夏樹がすでに存命していなかった場合、そしてそれが誰かの手によるものだった場合、彼は被害者遺族という肩書を背負うことになってしまう。

 あくまでも和樹達は学生だ。夏樹の手によって隠された手紙をかき集めて、そこに残されたことを読み取るくらいが関の山なのだ。そして茜達ががんばって手紙を見つけた結果、それを受け取るべき相手だった純哉には、その大半の言葉はすでにしっかりと届けられている。

 やれることは、全てやってしまった。ここから先は、もう警察や探偵事務所の出番になる。

 本当に肝心な、『夏樹の失踪の真相を暴き、彼女が今どこにいて、どうなっているのかを明らかにする』という部分に関しては、あまりにもアンタッチャブルすぎるのだ。

 しかし、失踪当時ですら警察はまともに捜査をしてくれなかったと茜も言っていた。果たしてここからどうしろというのだろう。本当にどうすればいいのか。

 オレが必ず真相を引きずり出してやる、などと大見得を切ってしまったが、完全に勢いだけのノープランだった。あまりの情けなさに穴を掘って入りたくなる。完全にあの状況、夜のプールダイブに呑まれていた。

 げっそりとしながらラムネを飲みきると、和樹は空きビンを足元にことりと置き、空になった両手で自分の顔を覆った。

「いっそのこと、自分からのこのこ出てきてくれないかな、気持ち悪いのきみ

「嫌な君だなオイ……」

「えーもー、オレが夏樹さんに似てるっていうんだったら、女装してその辺うろうろしたらいい?」

「プライドは売らないほうがいいよ、和樹……」

「じゃあ柊太が女装して」

「それやる理由が見つかったら教えてくれる? てゆーか、ちょっと暑さでやられ過ぎじゃないか? どっか涼しいとこいく?」

「えー、プールは茜さんとがいいれす」

「じゃあ、気分転換にカラオケでも行くかー?」

「柊太」

「んー?」

「オレ、音の外れた歌聞くと吐き気するんだよ」

「――お前、結構言うよねぇ」

 ぶううんとエンジン音がして、ききぃと宅配の車が目の前で停車した。「こんにちはー」と重そうなダンボールを抱えて配達員が店の中へ入ってゆく。開いたガラス戸の隙間から、ふうっと流れ出てきた一瞬の冷気に二人恍惚の表情を浮かべるも、すぐにその楽園の戸は閉ざされてしまった。無念である。

「そういえば、ここの店も、夏樹さんと純ちゃんのお気に入りでさ」

「そうなんだ」

「夏樹さんが一年で、純ちゃんが中三の時とか、わざわざ純ちゃんここまで夏樹さんに会いにきて、背伸びしてラムネおごったりしてたんだって」

「――そっか」

 甘酸っぱいな、などと浮かれたことを口から出すのは、さすがに控えた。

 これが今目の前にいる人達だったなら、そういうこともできたのだろうが、指先をすり抜けていってしまった恋心と、それを一身に受けていた人は、まるでこのラムネの泡のように揺れて空気に溶けてしまった。

「じゃあ、こちらにサインをお願いします」

 店の中から大きな声が聞こえる。ぼうとしながら、和樹はゆっくり振り返った。

 配達員の前にいるのは、おばあさんでも、おじいさんでもなかった。

 暗い色のTシャツに、グレーのズボン。少し伸びかけた黒髪に、口元には白いマスクをつけていた。

「ありがとうございましたー」

 頭を下げると、配達員はきびきびとした動きでガラス戸を開けて出てくる。ひやりと流れてきた風。マスク姿の男が、じっとこちらを見ている。ああ、前にもこの人を店で見たことがある、そう思った。あの時は茜と一緒だった。

 マスクの男は、腰を屈めて近くの台の上に荷物をおいた。どさ、と、思いの外重い音がする。それから、ざり、ざり、とスリッパの底を擦るような音を立てて、こちらへと向かってきた。

 男の動きに気付いて気を利かせたのか、配達員はドアを閉めずに会釈をして車へと戻ってゆく。マスクの男は、ゆっくりとガラス戸をくぐると、静かに和樹達を見下ろした。

 見ている。じっと見ている。和樹の顔を。

「―――よ」

 もごもごと聞き取りにくい声で何かを言われて、「え」と声を上げた。

「ラムネのビン。開いたなら、もらいますよ」

「あ、ああ。すいません、ありがとうございます。ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでしたー」

「ありがとうございます」

 男は、和樹と柊太からラムネビンを受け取ると、ゆっくりとガラス戸を閉めて店の奥へと引き上げていった。

「あー、おじちゃんとおばちゃんの息子さん、僕はじめてみたかも」

 柊太の言葉に、「ああ」と和樹は生返事をした。

「いやー、なんかさぁ、あの人、ちょっといい匂いしたよな」

「そう、だね」

「何の匂いだっけなー、覚えがあるんだけど」

 冷たい空気を引き連れて、彼からふわりと香ったのは。

「メープルシロップだよ……」

 和樹の目は、まだ奥へと消えていった男の背中を追っていた。


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