10.生きてるうち
今日の校内は人気が少ない。
八月ももう目前に迫っており、部によっては遠征などの予定もあるのだろう。がらんとした空気感と、息のつまりそうな熱気。教師が数名出てきているのだろうが、職員室は遠く、また数少ない生徒の気配も、声がかすかに反響してくる程度で、薄かった。
図書準備室でファイルを広げ、手紙とその順番を確認する。やはり、
このまま準備室に二人きり、手紙とメモを眺めていても、何らかの新事実が浮かび上がってくる気配はない。なので、まだ見つかっていない封筒を求め、二人校内の探索に向かうことにした。
ぺたぺたと上履きを鳴らして廊下を進む。
さまざまな場所をうろうろしながら、
音楽室のピアノ裏に。
放送室の棚に紐でくくって吊るされた、校内放送のタイムスケジュールが書かれている紙を挟み込んだクリアファイルの中に。
体育準備室の、バレーネットを収納してある棚の奥の壁に。
プールの女子更衣室の、天窓のちかくに。――これは、実際に更衣室の中に入ったわけではなく、外を横切ったときに説明したということだが。
そういったことをしながら、転校してきてまだ日が浅いうちに夏休みに突入してしまった和樹のために、茜が校内を案内してくれていることはすぐにわかった。新しい封筒をさがすためという理由で校内を移動しているはずなのに、茜は、どこかしら遠くを眺めるような目で、のんびりと歩を進めていたからである。
中庭の、例のパーゴラの横を通り過ぎながら、ふと和樹は口を開いた。
「茜さんは、将来のこととか、進路ってどうするんですか」
茜も
「そうだな、どうするんだろうな」
茜の手が伸び、パーゴラの柱に触れた。ついとなでる指先が、ひらり翻る。
「和樹は? 進路は考えてるのか」
「あ、まだわかりません……」
「音大じゃないのか?」
「えっ」
びくりとして足が止まる。一歩先を進んでいた茜も、ゆっくり立ち止まって振り返った。
「このあいだ、プールでアプリいじってただろ。曲作るやつ。音楽、やってるんじゃないのか」
見られていたのかと気恥ずかしくなる。
「やって、はいます。音楽をずっとやりたいとは漠然と思ってますけど、でもそれで進学とか、仕事にするかっていうと、また話が違う気もして……」
ふわりと熱い風が過る。
「よし、涼めるとこにいくか」
「えっ」
「暑いから」
「もしかしてプールですか」
「いや」
茜がうっすらと笑いを浮かべる。
「さすがにクレームがついた」
「クレ、え、誰からですか?」
「今の部長、二年からだ」
「――水泳部のですか」
「一応、部員が使わない早朝だけってことで、顧問には許可は取ってたんだがな。さすがに三年が我が物顔で使ってるのは気に食わないって話になったんだろう」
「そんな」
「仕方ない。そうやって責任や管理を引き継いでいくものだ。俺も自由勝手にやりすぎた」
そういうと、茜は先へ進み始めた。遅れて和樹がついてゆくと、「まあでも」と茜が小声を発した。
「だからこそ、やれるうちに夢中になるのがいい」
「――それは、音楽のことですか」
「限らないよ。やるもやらないも、決められるのは生きてるうちだけだからな、全部」
茜が案内したのは、旧パソコンルームだった。今は生徒一人一人がノートパソコンを持参しているので、稼働率は低いが、それでも情報処理部が根城にしていたり、またワープロ検定試験を行うのに使われているらしい。
勝手知ったるなんとやら、茜は壁面のコントロールパネルを開いて冷房を入れると、教室の奥の一席、特にエアコンの当たりがいいところに腰を下ろした。和樹にも手で座るようすすめる。大人しく従い対面に座れば、茜は頬杖をついて窓の外を見た。
「和樹は、父親の仕事の都合で越してきたんだよな」
「はい。あの、半導体のとこです」
「わかるよ、金に苦労したことがないやつの顔してる」
瞬間どきりとした。だが、すぐに茜がはっと目をこちらへ向けた。
「悪い意味じゃない。空気感がやわらかいって言いたかった。すまん、口の利き方がうまくなくて」
「ああ、いえ……そのとおりだと思います」
「さっき、進路のこと聞かれたけど、俺は就職一択だ。もう何社か地元の会社の試験受けてる」
「えっ」
「この夏も何社か予定入ってる。『調査部』の表の活動内容が評価されてな。思ってたより条件がよくなってる」
「そう、なんですか」
茜はやはり感情の乗らない目で、じっと和樹を見た。
「うちは、母親と俺と二人でな。正直大学に行くだけの金はない。奨学金てのも考えたが、あれもやっぱり借金だからな。目途が立たんものを背負うと思うと、母親がまた体調を崩す。だから、一旦働いて、自分で金貯めて、それでもまだ行きたいと思ってたら、大学に行こうと思ってる」
なんだろう。この衝撃の苦みは。
和樹は引きつるように笑うと、視線を窓の外へ向けた。涼しい風にあおられて、暑さに疲れた身体に、今さらだるさが追いついてくる。
「強いんですね。茜さんは」
そう小さく呟くと、茜は「強いという問題じゃない」と、本当に何でもないことのように、さらりと言葉を返した。
「俺の人生だ。俺なりにやるやらないを決めて、それで生きてるだけだ。――疲れたなら、ちょっと寝るといい」
「そうします」
腕の中に顔を埋めて、居眠りを装い、茜から顔を隠した。
今の自分の情けない表情を、茜にだけは見られたくなかった。
「和樹。……和樹」
切羽詰まった小声で肩を揺さぶられ、瞬きながら目を開ければ、知らぬ間に眠りに落ちていた挙句、周囲は朱と薄闇に染まっていた。
「えっ、うそ、いま何時」
「しっ、静かに」
茜の指先が和樹の唇に触れる。音もなく立ち上がり和樹の方へ回ってくると、有無を言わさずカーペットの上に引きずり降ろした。
「えっ、ちょ、茜さん……?」
「誰かいる、廊下にだ。何か、おかしい」
茜にそう言われて、その時はじめて和樹は気付いた。
何かを引きずりながら、こちらへと近付いてくる、その物音に。
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