第17話 聖夜を君と.3
聖名は、大月家のリビングに足を踏み入れ、慣れた手付きでご飯の支度やお風呂の準備を始めた静海を見たとき、自然と彼女が一人っ子であること、そして、おそらくは母親はいないのだろうということに気づいてしまった。
それほどまでに家は閑散とし、そして、静海の家事の動きは手際が良かった。お客様では申し訳ないから、と手伝いを申し出ることすら気がひけるくらいに。
ジャケットを脱ぎ、タートルネック姿になった静海。同い年とは思えないスタイルの良さが強調されたその恰好に聖名が魅入っていると、「荷物、適当に置いといて」と言われたので、大人しくそれに従う。
「適当に鍋でもいい?」
「え、晩ごはん作るの?」
「あれ、食べないの?」
きょとん顔で尋ねてくる静海。聖名は相手のずれた感覚に苦笑しつつ、「とってもありがたい提案なんだけど、こういうときは先に夕食を食べていくか聞いてもらえると嬉しいな」とお願いする。
「なるほど、そっか…。分かった。じゃあ、聖名、晩ごはん食べる?」
「んー…お言葉に甘えてもいい?」
「もちろん」
微笑んだ静海は、それからすぐに鍋の準備を始めた。何かと手伝おうとソファから腰を上げると、静海はそれを淡白に拒絶した。
「台所にあるものは触ってほしくないから」と今までで一番悪い意味で心臓にくる言葉を貰った聖名は、顔をひきつらせて再び元の位置に戻った。
(き、きっと静海なりのこだわりがあるんだよね…あはは…)
トントントン、サクッ、サクッ…と、野菜を包丁で切る音が聞こえてくる。それに交じり、雪を狂わせる風が窓を震わせる音が聞こえるも、静海の集中している綺麗な顔を見ていれば、気にもならなかった。
家事もできて、綺麗でかわいい。そのうえ、スタイルだって良い。
欠点なんてどこにもなかった。ちょっとずれてるところだって、静海のチャーミングなところだ。
(障害者だなんて、何かの間違いとしか思えないなぁ…勝手に誰かが言ってるだけなんじゃないの――って、そんなわけないんだろうけど、そういうの、どうでもよくなるくらい魅力的…)
聖名は、自分が静海に募らせている甘酸っぱい想いが、日に日に大きくなっているのを感じていた。
静海と過ごす時間は以前より圧倒的に長くなっているのに、それに比例するみたいに時間が過ぎる速度は上がっていく。
トラブルがあって静海のいる電車に間に合わない日はすごく落ち込むし、適切なコミュニケーションを会得しつつある静海が、他のクラスメイトと会話しているだけでも妬ましくなる。
静海を揺さぶろうと思って触れれば触れるほど、自分のほうが満たされず、揺さぶられていくばかり。
飲めば飲むほど喉が渇く、塩水みたいなこの気持ちを、人は恋と呼ぶのかもしれない…。
「静海」
「なに」
静海は料理に夢中で、こっちを向いてもくれない。
私はこんなに貴方を見ているのに。
「好きだよ」
胸の奥に住み着いた言の葉の先から、ぽたり、と雫が垂れる。
雫が地面に落ちて数秒、聖名はぼうっと上の空で真っ黒になった携帯の画面を見つめていた。
しかし、ハッ、と我に返り、とんでもないことを口にしてしまったと気づくと、慌てて静海のほうを振り返った。
願わくば、聞こえていないとか、静海が鈍感すぎて『なにが?』と聞き返して来ないかとか祈る。だが、虚しくも静海は絶句してこちらを見つめていた。料理の手だって止まっている。
(あ、や、やばい…どうしよう)
ぐるぐると頭が回り始める。スクランブル交差点並みの混雑具合に、言葉たちは己の行き場を見失っていた。
幸か不幸か、静海もまだ止まっているせいで、急かされることはなかった。
たっぷり一分ほど時間が経ってから、聖名はソファの上で体操座りになり、その間に半分ほど顔を埋めて口を開いた。
「な、な、鍋がね?鍋が好きだなぁ…って思ったの」
酷い言い訳だ。静海相手なら、これでなんとかならないだろうかと望みを託す。
「鍋…」と静海もようやく声を発する。「そっか、鍋のことか…」
どちらとも言えない反応にやきもきしていると、静海がゆっくりと顔を上げた。
「好きだよ、私も」
さっきの名残か、ほのかにまだ顔が赤い。
なんというインパクトなのだ、と改めて静海の造形の良さに惚れ惚れする。
それにしても、と聖名は静海と視線を交差させたままで、『静海も遠回りに気持ちを口にしているのではないだろうか?』と考えた。
だが、数秒して、聖名は心のなかだけで力なく首を左右に振る。
(ない…あの静海に限って)
こういう煩雑なやり取りを苦手とし、好まない静海がそんなことをするはずはないのだ。
静海の作ってくれた鍋料理は絶品であった。
美味しいよ、と何度感想を伝えても、「ふぅん」しか言わない冷淡さからは、とても想像がつかないほどに繊細な味だ。
雪と冬の冷気で凍えていた体も温まってきた。ソファにかけたコートはまだ湿っているが、着ているセーターの下はぽかぽかしている。
ごちそうさまを済ませ、片付けに入る。静海は自分が食べ終わったらすぐに片付けを始めていたから、ちょっと焦っていたのだが、彼女はやはり、『台所には入るな』と厳しく聖名を押し戻した。
静海は皿洗いを手際よく終わらせると、キッチンカウンター越しに、「コーヒーと紅茶どっちがいい?」と尋ねた。
「え、いいの?申し訳ないなぁ…」
「いいから、どっちがいい?」
鋭い一突き。
そうだ、遠回しなやり取りは静海にとってストレスでしかないんだった。
気を取り直して、静海に飲み物のオーダーを行う。
「えっと、それならコーヒーをお願いしたいかな」
「了解」
「あ、ブラックで」
「え?」静海が素っ頓狂な顔を浮かべる。「ブラック?聖名が?」
「んー…?そうだけど」
自分がコーヒーをブラックで頼むと、周囲はいつも意外そうな顔をする。理由は尋ねるまでもなく分かっている。自分が童顔で、幼く見えるからだ。
「なんか、意外」
「へぇ、なんでですか?」
わざとらしく敬語を使ってみせるが、静海に聖名の不服さは伝わらなかったようで、何も変わらないトーンで彼女は言った。
「聖名って、一緒に出かけたときはよく甘い物を頼むから。ほら、初めて一緒に行ったショッピングモールでも、パフェ頼んでたし」
「あぁ…そういうこと。なるほど、確かに」
これは危うく勘違いするところだった。静海の発言は合理的で何の異論もない。
聖名は自分がよく童顔だとからかわれることを静海に伝えた。それで勘違いされたと思ったと説明すれば、静海は若干不愉快そうに眉をひそめる。
「顔の造形と味覚に関連性があるなんて話、聞いたこともない。だから、そんな合理性の欠片もない発言、聖名は気にしなくていい。時間の無駄だ」
いつもの如く一刀両断。
なるほど、自分のコンプレックスをついばむ言葉を斬り捨ててもらえると、とても爽快だ。
普段の何倍も美味しく感じるコーヒーに舌鼓を打ちつつ、聖名は携帯で天気予報を確認した。
どうやら、雪は深夜帯にかけてまで降り続くようだった。つまり、このままこうしていても事態は改善しないということである。
それを伝えると、静海は平然とした様子で、「別にいいんじゃない」と告げた。
「えぇ、ちょっとくらい、心配してくれてもいいじゃない…?」
「誰を?」
「む、私だよ、もちろん」
「ん…?なんで?」
「なんで?」こればかりは我慢できず、聖名は目くじらを立てた。「雪すごいんだよ?真っ暗だし。こんな中を私が一人で帰っても心配しないの?」
バシッ、と叩きつけるように言い切る。ショッピングモールの帰りほどはないが、久しぶりにハッキリと自分の怒りを表出した。
だというのに、静海はきょとんとした顔である。
なんでそうなるかな、と眉間に皺を寄せると、静海がパチパチと瞬きをしながら首を傾げた。
「暗い中を帰る…?聖名、家に泊まるんだよね?」
やはり、私は発達障害というものを侮っていたのだろう。
暖かいお風呂に肩までしっかり浸かりながら、聖名はそんなことを考えていた。
互いに困惑しつつも絡まった糸を解いた結果、静海が口にした『家に来る?』は、『家に泊まる』と同義だったとのことであった。
まさかそんな、普通は短い時間お邪魔するだけだろう、と疑問を抱いたものの、すぐにこれもまた自分の普通だと思い直し、聖名は静海の提案に乗った。
もちろん、その提案に乗るのにも紆余曲折があったわけだが、結果のほうが大事だろう。多くは語らない。
思えば、静海が家に着いて早々にお風呂を入れる準備をしたことだって、そういうことだったのだ。
(それにしても…)
顔を半分ほど湯船につけて、ぶくぶくと泡を吐き出す。
浮かんでは破裂してを無限に繰り返す泡沫は、自分の心を写したようだった。
(お泊り…静海と、一日、一緒…)
コンビニで必要なものを購入した後、「先に風呂に入っておいで」と本を片手に告げた静海を思い出す。
ちょっと手をつないだくらいで顔を赤くするくせに、こういうときは凛としてスマートだった。
家族にもすでに許可は取った。思わぬ雪に降られ、バスも止まって帰るに帰れないことを伝えれば、両親ともにすんなりと許可を出してくれた。
娘の発言を疑いなく信じてくれる両親を愛おしく思う一方、母が暖かい言葉と共に吐き出した、「こういうとき、避妊の話をしなくてもいいのはありがたいことね」という下品極まりない言葉だけは許せず、聖名は押しつぶすようにして電話を切っていた。
お風呂から上がり、脱衣所兼洗面所に出る。
稼働している脱衣所用ヒーターのおかげで、真冬でも比較的暖かい。
静海から借りたパジャマに着替える。それから、ささっと肌の手入れなどを済ませ、髪を乾かしてから歯を磨く。
下着に加え、この歯ブラシもコンビニで買ったものだ。
高校生には決して安くはない出費だが、ホワイトクリスマスの夜に想いを寄せている相手と過ごすための対価と考えれば、安いものである。
リビングに戻れば、次は静海が入れ替わりでお風呂に入った。
「二階に上がって一番奥が私の部屋だから、そこで待ってて」と静海に言われたので、その通り、階段を上がる。
階段の途中、壁にかけてある何枚かの写真に目がいった。
どれも美しい風景の写真で、大きな湖や見覚えのある山が幻想的に収められていた。
静海が撮ったのだろうか、とぼんやり思っていたところ、右下に記録されてある月日がもう半世紀ほど前であることに気づき、そうではないのだと察する。
静海のカメラは祖父の遺品だと聞いた。だとしたら、これも彼女の祖父が撮影したものなのかもしれない。
自分のなかで納得する答えを出した聖名は、そのまま静海の部屋に向かった。
言われていた場所にたどり着き、本当にこの部屋でいいのだろうかと迷いつつも扉を開ける。
暗い部屋の中では、月光と、暖色の光を放つ電気ランタンと、ファンヒーターの奥で燃える赤い焔の輝きだけが息をしていた。
理由は分からないが、ここが静海の部屋なのだと直感する。静海のまとう空気感に似たものが、この一室には息づいているからだろうか。
聖名は、静海のものらしいベッドに腰掛けると、窓の外に浮かんでいる月と、白い冬を黙って眺めた。
月明を受けてきらきらと輝く雪を見守っているうちに、聖名は一日の疲労がどっとのしかかって来ているような感覚を覚え、上半身をベッドになげうった。
その拍子にふわりと香ったのは、静海の甘い匂い。
匂いを嗅いだ瞬間、このベッドがいつも静海の使っているものだと思い出し、ドキリと胸が高鳴る。
わずかな罪悪感と、抗いようもない欲望に突き動かされ、聖名は静海の枕へと手を伸ばし、そして、顔を埋めた。
静海をかき抱いているみたいな感覚に、うっとりとする。
(静海…早く、上がって来ないかな…)
血液に乗って広がっていく、静海の香り。
耳はリズミカルな心臓の鼓動を聞き、肌はその上にぞわりとした感覚を波紋のように滑らせている。
「静海…」
好きだよ、と口の中だけで呟く。
本人がいなくたって、意識してしまうとそれが真っ直ぐ言えない自分の弱さを…自分は愛せないだろう。
――ぞっとするほど、私は静海に恋をしている。
大月静海という孤狼に魅せられた私に、もはや、ごまかしの通じる場所は残されていない。
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