Case 2-3 脳神経覚醒実験体
午後一時五十八分。
柔らかな日差しが街路樹の葉を通し、亜里紗の肩に落ちていた。
その視線の先にあるのは、喫茶『わかば』。
緑色の小さな屋根と木製の看板が、都会の片隅にどこか温かみを与えていた。
その入口の前で、亜里紗は立ち止まり、静かに深呼吸をした。
呼吸とともに、頭の中で手順を一つひとつ確認していった。
――南部警部への連絡。
――手紙の内容を全て報告済み。
――喫茶店での単独行動は了承を得たうえで、南部警部は外で待機。
――危険への備えも万全。簡易型スタンガン、銃、偽装眼鏡に内蔵された緊急信号機、それらを装備済み。
「問題なし」
亜里沙はそう呟いた。
手紙を読んだ直後、亜里紗は真っ先に南部に電話を入れた。
そのときの南部の低く、慎重な声が今も耳に残っていた。
「……もうすでに伝えていると思うが、私が君について知らされていることは、君が幼い頃に脳の疾患を抱え、当時保険適用されない最先端技術を用いた手術を必要としていたということ。」
「その際、君の家族は、最初の脳内干渉装置の臨床試験被験者になる代わりに、手術を無償で受けるという契約を結んだ。」
「その試験では、脳内干渉装置の導入は成功したが、その実験の副次的な産物として、君の“脳神経系の覚醒”が起こった。このことは、記録自体も厳重に封印されている。これはトップシークレットで、直属の上司である私以外には、ほとんど知られていない」
電話口での南部の声は、いつも以上に重く、慎重だった。
だが亜里紗は、それを受け止めながらも、はっきりと応えた。
「わかっています。――けど、私は知りたいんです。なぜ自分だけが覚醒したのか。これから、私の体はどうなってしまうのか。そして……同じような力を持つ人間が、どんな思いで生きているのかを。」
「……君の覚悟は受け取った。だが、油断するな。こちらも外で待機している。何かあれば即応する」
「ありがとうございます、南部さん」
その通話を終えてから、亜里紗は慎重に準備を整えた。
自分が警察官であること、そして“覚醒者”であるという事実が、これまでの人生をどれほど複雑にしてきたか。
けれど今、ようやくその正体に近づく機会が訪れようとしているのかもしれなかった。
店の前で、再び小さく息を吐いた。
「よし!」
一言、自分に気合を入れ、亜里紗は扉を押し、静かに喫茶『わかば』へと足を踏み入れた――。
扉の内側には、優しいジャズが流れていた。
午後の陽射しが木漏れ日のように差し込む、穏やかな空間。
けれど、金城亜里紗の心は張り詰めた弦のように静かに震えていた。
カウンター越しの店員に「待ち合わせです」とだけ告げると、店内をゆっくりと見渡した。
喫茶店の奥、壁際のひとつのテーブルに座る男。
店内なのに、まるで舞台衣装のような黒く長い帽子を被り、姿勢よく椅子に腰掛けていた。
長い指の片手を軽く上げ、彼はまっすぐ亜里紗を見つめていた。
その目には、冷たい熱が宿っていた。
亜里沙は歩み寄り、静かに声をかけた。
「……黒木 玲さん、ですか?」
男は口元に薄い笑みを浮かべてうなずいた。
「金城 亜里紗さんですね。――映像で見るより、実物のほうがずっと美しい」
そう言って、差し出された手は冷たく、骨ばっていた。
亜里紗は、わずかなためらいの後、「ありがとうございます」と声を返し、差し出された手を握った。
だがその瞬間――
「……驚きました。映像で見たあなたは、もっと冷酷な印象でした。
感情を殺した機械のような、そういう目をしていた。……表だから隠しているのですか?それとも、これは覚醒の影響……?ふふ、実に興味深い……」
そう呟きながら、黒木はその目を妖しく光らせ、まるで毒を孕んだ蛇のように舌なめずりをした。
「できることなら、その冷酷なあなたに、罵倒されてみたかった」
ぬるりと、手をなぞられた。
ゾクリとした悪寒が亜里紗の背中を走り抜ける。彼女は反射的に手を振りほどき、一歩下がった。
「……ッ!」
声にならない拒絶。けれど黒木は悪びれもせず、微笑みを絶やさなかった。
落ち着け、と心の中で繰り返しながら、亜里紗は席に座り、店員に
「コーヒーをください」と短く頼んだ。
すでに用意されていた冷たい水を一口含んだ。
氷が喉を通る感触が、焦りを静かに沈めてくれた。
深く息を吐いたあと、亜里紗は真正面から男を見た。
「――あなたは、一体、何者なんですか?」
その問いに、黒木は微笑みながら静かに頷き、まるで詩でも語るような口調で言葉を紡いだ。
「私が知ることなら、すべてお話ししましょう」
「あなたは驚くかもしれませんが……私は“最初の覚醒者”であるあなたの脳神経データを基にして生み出された、覚醒の“再現”を目指す実験体です」
亜里紗の心臓が一瞬跳ねた。
「その成功率、わずか0.10%。その極めて細い確率の糸を通り抜け――私は完全なる覚醒に至った。あなたに会うために、この世に“創られた”存在なのです」
そう告げる黒木の表情は、敬意と、そしてどこか――執着に似た情念に濡れていた。
亜里紗は、息を呑んだまま、ただその言葉を飲み込むことしかできなかった。
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