第7話:カフェ迷宮、バグは創造を導く
カフェ「ルナ・マーレ」の店内は、昼下がりだというのに、どこか薄暗かった。
天井の満月のステンドグラスから差し込む光は、以前のような鮮やかな青白さではなく、ぼんやりと曖昧な光を放っている。
壁の古時計は相変わらず止まったままだが、ハルカの脳内では、時間の流れが溶けていくような、奇妙な感覚が続いていた。
心のBGMは、時折、遠い記憶を呼び覚ますかのような、物憂げなメロディを奏でる。
ミサキは、カウンターでコーヒーを淹れながら、ちらりとユウトに視線を送った。
先日の「本心」が暴かれた一件以来、彼女の心のBGMは、時々、素直な可愛らしい音色を混ぜるようになっている。
ユウトは、いつものように店の隅で、ガラクタの山に埋もれて何かを組み立てていた。彼の心のBGMは、常に予測不能な電子音の乱舞だ。
「おいユウト、あんたが前に作った『自動ドリップマシン』、また豆を挽きすぎて止まってるわよ」
ミサキが呆れたように声をかける。
「え、マジ!? あー、そうだった! 昨日まで覚えてたんだけどなー、すぐ忘れちゃうんだよな、最近」
ユウトは頭を掻きながら、マシンに駆け寄る。
彼の言葉に、ハルカの脳内に微かな警報が鳴った。「忘れる」。このカフェに来てから、漠然とした違和感としてあった、記憶の曖昧さ。
ユウトのその言葉が、まるで扉を開くかのように、ハルカの胸にざわめきをもたらした。
その瞬間、カフェの照明が激しく点滅し、店内の空気が一変した。
アンティークな家具が不気味に軋み、壁に飾られた絵画の風景が、一瞬にして別の景色に切り替わる。
ユウトが手にしていたスパナが、次の瞬間には別の工具に変わっていた。
「あれ? 俺、これ持ってたっけ?」
ユウトが首を傾げる。
彼の心のBGMが、まるで壊れたレコードのように、同じフレーズを何度も繰り返しながら、音程がずれていく。
「ユウトくん、大丈夫!?」
ハルカが駆け寄ろうとするが、足元がぐにゃりと歪むような感覚に襲われる。
まるで、カフェの床がゼリーになったかのようだ。
リョウは、いつもの瞑想状態から目を開け、その瞳に驚きの色を浮かべた。
「これは……空間が、時間軸に沿って歪んでいる……?いや、違う。記憶の欠落と混同が、物理的な現象を引き起こしている」
リョウの心のBGMが、高速で情報を分析する音を立てる。
彼の眉間には、これまで以上に深い皺が刻まれていた。
壁に、半透明の文字が再び浮かび上がる。
しかし、それは特定の人物のログではなく、断片的な、脈絡のない「記憶の残像」だった。
「知らない駅のホーム」
「誰かの笑い声」
「車のヘッドライト」
「真っ白な壁」
「なにこれ!? 誰かの思い出!?」
ミサキが壁の文字を凝視する。
彼女の心のBGMは、不規則なノイズ混じりながらも、どうにか解析を試みている。
「いや、違う。これは……『忘却』によって生まれた、この世界の『空白』だ。特に、ユウトの周囲で激しい」
リョウが、ユウトをじっと見つめながら呟いた。
ユウトは、壁に映る記憶の残像を見て、突然、混乱したように頭を抱えた。
「あれ? 俺、何してたんだっけ? いや、ここどこだっけ?」
彼の心のBGMは、完全に音程を失い、断続的なノイズを撒き散らしていた。
ユウトの「会話飛びまくり」というバグが、カフェの歪みと共鳴し、彼の記憶そのものに干渉し始めたのだ。
カフェの空間は、さらに不安定になっていく。
壁が突然遠ざかったかと思えば、次の瞬間には目の前に迫り、カウンターの位置が奇妙にずれて見える。
まるで、ハルカたちが迷路の中にいるかのようだ。
「このままだと、ユウトの記憶が完全に消去されるわ! そして、このカフェの空間も、さらに不安定になる!」
ミサキが焦ったように叫んだ。
彼女の心のBGMは、データロストを警告するアラート音を立てる。
「ユウトくん! 私の顔、見える!?」
ハルカは、ゼリーのように不安定な床を懸命に進み、ユウトの目の前に立った。
彼の「バグ」は「忘却」を伴う会話の飛躍。
それは、現実世界で、彼が何かを「忘れること」で、自分自身を守っていたことの表れなのだろうか。
ハルカは、彼の心のBGMに深く同調しようと試みた。
ユウトの脳内は、まるで巨大な図書館の書架が崩れ落ちるかのように、情報が散乱し、失われかけていた。
その根源にあるのは、「何か大切なもの」を忘れてしまったことへの、無意識の恐怖だ。
「ユウトくん、大丈夫だよ。ここにいるよ。思い出して! ユウトくんは、いつも新しいものを発明して、私たちを驚かせてくれる天才だよ!」
ハルカの声が、ユウトの脳内に響く。
同時に、カフェの空間の歪みが、ほんのわずかに止まる。
「ユウト、あんたの発想力は、意味不明だけど、確かにこの場を救ってきた。今回は、あんたのその『忘れる』というバグで、逆にこの状況を打破するのよ!」
ミサキが、彼の「バグ」を「個性」として肯定する言葉を投げかけた。
彼女の心のBGMは、再び冷静な解析音に戻り、解決策を探している。
ユウトの目に、微かな光が戻る。
彼は、ハルカとミサキの顔を交互に見て、何かを閃いたかのように、目を見開いた。
「そうだ! 忘れるなら、『忘れるための装置』を作ればいいんだ!」
ユウトは、再びガラクタの山に向かって駆け出した。
彼の心のBGMは、混乱のノイズの中から、新たなメロディを紡ぎ出すかのように、規則的で、しかし予測不能なリズムを刻み始めた。
彼は、散乱していた工具や配線、謎の部品を拾い上げ、驚くべき速さで組み立てていく。
彼の指は、まるで何かに導かれているかのように、迷いなく動いていた。
リョウが、その様子を静かに見つめていた。
彼の心のBGMには、微かな納得と、未知の可能性への期待が混ざっていた。
「ユウトの『バグ』は、情報の取捨選択を歪める。しかし、それは同時に、既存の枠にとらわれない『創造』の源泉でもある……」
数分後、ユウトは、手のひらサイズの、奇妙な多面体型の装置を完成させた。
それは、複雑な配線と、いくつもの小さなアンテナが突き出しており、どこか懐かしい、しかし見たことのないデザインだった。
「これだ! 『記憶デフラグメント装置』! これで、余計なノイズを消去して、カフェの空間の歪みを直すんだ!」
ユウトが装置のスイッチを押した。
すると、装置から淡い光が放たれ、カフェ全体に波紋のように広がっていった。
光は、壁の記憶の残像を吸い込むように吸収し、空間の歪みをゆっくりと修正していく。
カフェの床は元の硬さを取り戻し、壁の絵画も元の風景に戻った。
照明の点滅も収まり、店内は再び、ぼんやりと曖昧な光に包まれる。
ユウトは、装置を満足そうに眺めていた。
彼の心のBGMは、新しい発明を終えた充実感で満ちていたが、その奥に、何かを忘れたことによる、微かな寂しさが残っているようにも聞こえた。
「ユウトくん、すごいよ! これで、カフェも元に戻ったね!」
ハルカが感動したように言った。
「ん? 何が?」
ユウトは、きょとんとした顔でハルカを見つめた。
彼の頭から、先ほどの混乱と、自分が作った「記憶デフラグメント装置」の目的が、きれいに抜け落ちていた。
ミサキは、ユウトの言葉に呆れたようにため息をついたが、その顔には、どこか安堵したような表情が浮かんでいた。
「あんたは、本当に……でも、助かったわ」
リョウは、ユウトが作った装置をじっと見つめていた。
彼の心のBGMは、思考を巡らせる音を立てていたが、その中に、これまでになかった「理解を超えたものへの、静かな肯定」が混ざっているようだった。
ナツミは、カウンターの奥で、静かに温かいお茶を淹れていた。
彼女の背後には、今回は人影が見えることはなかった。
彼女の心のBGMは、穏やかな香りを保っていたが、その奥には、「忘却」がもたらす「安らぎ」と「哀しみ」が共存しているようだった。
完璧じゃない。
みんなバグだらけだ。
でも、それでいい。
この奇妙なカフェ「ルナ・マーレ」で、彼らの「脳内バグ」を抱えながらも、世界は確かに続行していた。
そして、彼らの絆は、また少し、昨日より少し、強くなった気がした。
奥の席で静かに事態を見守っていたタカハシ部長は、カップに注がれたコーヒーを一口啜った。
「……忘却は、時に救いとなる。だが、真に重要なものは、忘却の彼方にこそある」
彼の言葉は、ユウトに向けられたものか、それともこのカフェ、あるいは彼らがいるこの世界の真実を示唆しているのか、誰にも分からなかった。
(つづく)
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