第10話 纏わりつく暑さ

「ふぅ……」


 扉の前で大きく深呼吸をする。


 放課後。

 美術室の扉の前に立ってから、すでに十分が経過しようとしていた。


 まず何を言うべきかを考えていたら、いつの間にかそれだけの時間が過ぎていたのだ。


 一限目からずっと考えていたけれど、今になってもノープランで来てしまった。


 まずいな。今日伝えるって決めてきたのに、このままじゃ出来ないかもしれない。

 そう思うと、余計に焦った。


「ああもう……! どうとでもなれ!」


 結局勢いのままに挑むことにした。思えば、前この教室を訪れたときもそうだった。


 やっぱりやけに重く感じる引き戸のドアを開けた。


「あっ! 来た!」


 目が合った。嬉しそうに笑った後、恥ずかしさを思い出したかのように顔を耳まで赤くして、ぷいっと目を逸らしてきた。


 それが可愛くて、ちょっと面白くて、緊張はすっぽ抜けたみたいに僕から消えてしまった。


「や。鈴夏。三日ぶり」

「……うん。三日ぶりだね……」


 扉を跨いで教室の中に入ると、声が漏れないようにちゃんと扉を閉めた。今度はやけに軽かった。


 完全に閉め切ったのを確認したら、まずは鈴夏のそばに近づこうと歩みを進めようとした。


「昨日、どうしたの?」


 と、聞かれた拍子に足を止める。そうか。鈴夏は昨日もここで待っていたのか。


「いや、ちょっと悩んでて」

「え⁉ 返事を⁉」


 大きな声で驚かれた。しかも、急に真っ青な顔になって慌てふためいていた。


 ちょっと悪いことしたかな。


「大丈夫。混乱してただけだから。ちゃんと考えてきたから」

「……そうなの? じゃあ、返事は決まったってことだよ、ね?」

「うん」

「―――……それじゃあ、返事、聞かせてくれる……?」


 そして、真っ赤な顔と期待に満ちた目で、彼女は黙って僕の返事を待った。


 後は、僕が答えを言うだけ。好きだと伝えるだけ。

 そんな簡単なことのはずなのに、口が震えるのがわかる。


 多分、今、人生で一番緊張しているな。僕。

 もう一度深呼吸……よし。さぁ言おう。


「僕は君が」


 そのとき、教室に誰かが駆け込んできた。バンッという乱暴な音とともに扉が開かれる。


「蝶名林さん! 大変なことになりましたよ! 今すぐ家に帰りなさい! 校門でご両親が待ってるから!」


 走ってきたからか、はぁ…はぁ…と息を荒くしているその人は、たしか鈴夏のクラスの担任をしている教師だ。


「せ、先生⁉ どうしてここに?」

「そんなことはいいから! 早く帰りなさい! ほら荷物纏めて!」

「え……で、でも今は」

「でもじゃない! それどころじゃないんですよ!」


 その先生の様子は、確かに尋常じゃなかった。必死というかパニックというか。とにかく、なにか大変なことが起きたのだけはわかる。


「鈴夏。僕はいいから、今は言う通りにした方がいいよ」

「けど……返事が……」

「返事なら、落ち着いたら返すよ。答えは変わらないから」


 そこまで言って、ようやく鈴夏は諦めがついたのか、近くに置いていた通学バッグを肩にかけた。

 とぼとぼと悲しそうに、教室を出て行く。


「ほら急いで! ああもう……こりゃしばらく大変だぞ……!」


 先生の後に続いて、鈴夏も廊下を歩いていく。僕は彼女のことを見送った。


「あの……! やっぱり英雄も…………」


 姿が見えなくなる直前。

 階段の前で、鈴夏は振り返って何かを言おうとした。


 けど、「話は今度にしなさい!」という先生の制止でしぶしぶ口を閉じて、階段を下りて行った。

 だから、何を言いたかったのかはわからない。


 それも、次会ったら聞けばいいかと、軽く考えていた。

 

 それから一週間が経っても、鈴夏とは会えていない。

 彼女は、学校に来なくなった。


 六月二十三日。湿気のある、嫌な暑さをした日だった。

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