間章 匂い

わたし

 わたしがそれを見たのは、小学校一年生の夏だった。……いや、二年生の夏だったかも。


 休日に出かけるお父さんについていき、電車でどこかへお出かけした。

 乗り換えをして、ようやくついた町は、なんだかわたしの町と匂いが似ていたのを覚えている。


 しばらく歩くと、いつのまにか山の中にいた。ここら辺はだいぶ朧気で、多分草原を歩いて、山の中に入ったはず。


 山の中は森だったり、川が流れていたり、あちこちで知らない子たちが遊んでいたりで、初めて山に入ったわたしは、普段とは違う場所に興奮していた。


 そうして山を歩き回っていたとき、水が落ちる音を聞いた。


 その音が気になって、引き寄せられるように近づいて行くと、やがて、滝が見えた。勢いの強い蛇口みたいに、ジャバジャバ水を出している。


 その滝を一目見たときから、すごくいい匂いがした。


 昔早起きしたときに見た、赤い空模様。それとおんなじ優しい匂いのようで、でもそれよりももっと力強い匂い。


 まるで、わたしの世界が埋め尽くされていくような圧倒的なその匂いに、そのときのわたしは夢中になった。


 滝と、川と、知らない子たち。

 その景色の全部がとても綺麗で、いつまでも嗅いでいたいほどいい匂いだった。

 それでも、家路の曲が鳴る六時までには家に帰らなくちゃいけなかったから、とりあえず持っていたかばんに匂いを詰め込んでから帰った。


 帰り道、中々歩きださないわたしを、お父さんが仕方なくおんぶしてくれて、それが心地よくて眠ってしまった。起きたときには自分の部屋のベッドの上だった。


 そのせいで、あの景色があった場所はわからないままだし、お父さんに聞いても、山なんて連れていったことないからきっと夢だろうと笑われて、まともに取り合ってもらえなかった。


 でも、わたしは諦めなかった。いつかあの景色を見つけて、かばんに詰め込んだこの匂いをもう一度嗅いでやるんだと心に決めた。



***



 あの景色を探すために、まずは学校でクラスの子たちに聞いて回った。


 でもこれは上手くいかなかった。というか大失敗だった。


「山の中にあって、滝があって、川があって、お空が燃えてるときの匂いみたいで……―――これどこなのかわからない?」と、見たこと感じたことを、まだ子供だったわたしの拙い表現で尋ねて回った。


「そんなのわかんない。ていうか、空が燃えてるときの匂いって何? 空は燃えないよ?」


 みんながそんなことを言った。誰にも伝わらなかった。


 それでも、わたしはなんとか伝わるように、出来る限りどんな匂いがして、それが他の匂いとどんな風に違うのかを語った。


 今にして思えば、このときのわたしは、場所を尋ねる以外に、その景色がどれほど素晴らしい匂いだったのかをみんなにも知ってほしかったような気がする。


 大失敗だったのは、これだ。


「なんか、すずちゃんってへんな子だよね。なんにも匂わないのに、よくいい匂いがするって言ってるし……」


 友達だったはずの女の子に言われた。


「おい! すずか! おれからはどんな匂いがすんだ⁉ ―――……は? 腐ったたまごみたいな臭い⁉ おい、おまえおれのことバカにしてんの⁉やっぱキモ!てかおまえの方がくせぇ! 近寄んなブス!」


 よく嫌がらせそしてくるいじめっ子だった男の子に言われた。


「蝶名林さん。先生ちょっと心配だわ……。匂い匂いって、なにか悪い病気なのかもしれないわよ? 一度お父さんかお母さんに言って、大きい病院に連れてってもらいなさい」


 クラスの担任だった先生に言われた。


 蝶名林 鈴夏はどこかおかしい。


 そんなうわさがクラスで広まった。

 匂いについて話しすぎたせいで、それまであまり知られていなかったわたしの魔法のことが知れ渡り、それを理解しようともしない人たちが一方的におかしなものと決めつけてきた。


 でもまぁ、それも仕方ないことだとは思う。


 小学生なんてそんなものだし、わたしだって滅多やたらに話すべきではなかった。

 そう頭の中で理解していても、心は追いつかず。わたしはトイレの個室でこっそり泣いた。


 わたしの世界をおかしいと決めつけられるのが悲しかったし、この綺麗な世界のことをみんなが知らないのも悲しかった。

 トイレで泣いていたせいか、少し辺りが臭かったのは今でも覚えている。


 それからは、なるべく目立つことを避け、匂いのことは一切話さないようにした。

 それでも、一度根付いたイメージは拭い切れなくて、三年生になってもまだ、わたしは変人だと言われ続けた。



***



 はじめてわたしの世界を知ってくれる人が現れたのは、小学校四年生のときの夏頃。

 ある日の夕食で、お父さんがテレビを見て「ほんと、汚い世界だな……」とつぶやいているのを聞いた。


 たしか、誰かが何かをしたとかのニュース番組だったと思う。内容はさっぱり覚えていない。


 ただ、お父さんのつぶやきだけが頭に残っていた。


 それは違うと言いたかった。世界は綺麗なんだと、汚くないよと言いたかった。

 でも、言葉だけじゃ伝わらない。

 見てもらえなきゃわかってもらえないだろうから、わたしは布団の中で良い方法はないか考えた。思いつくまで寝ないつもりでだったのに、結局すぐ寝ちゃったけど。


 それで次の日、国語の授業中にふと窓の外を見ると、プールの様子が見えた。太陽の光を浴びてキラキラ輝く水の中で、知らないクラスの子たちが心底楽しそうにはしゃいでいる。


 なんだかお祭りみたいな匂いだ。にぎやかで楽しそう。

 あ、そうだ。これを見せれば、お父さんもわかってくれるかも。


 そう思いついたけど、見せる手段がなかった。カメラは学校に持ってきちゃいけなかったし、お父さんをここに連れてくることだってもちろんできなかった。


「―――みるみる後ろに流れていきます」


 悩んでいる間に、音読の順番が近づいてきた。


 まっずい。今どこ読んでるかわからない。

 焦ってわたしは教科書を見た。急いでページをめくり、今音読されている一文を探す。


 ……あった。意外とすぐ見つかった。よかった。これで注目されることもない。

 ほっと安心したからか、なんとなくそのページを眺めてみる。


 すると、下部に挿絵が描かれていることに気が付いた。これを見れば、このページのシーンがどういうものなのかが一目でわかる。文字だけじゃわからないところを補完してくれる。


 それが、絵の持つ力だと気が付いた。


「これだぁ!」


 自然と声が出ていた。結構大きな声だったと思う。


 教室のみんながびっくりした顔でわたしを見てきたけど、そのときのわたしには、そんなこと些細な問題だった。


「えー……蝶名林さん? どうしました?」

「あっ……ごめんなさい。なんでもありません……」


 これはちょっと恥ずかしかった。どこからかクスクスと笑い声が聞こえたし、いつものわたしなら耐えきれなくて泣き出してたかも。


 でも、このときはそれどころじゃなかった。


 すぐにお道具箱から自由帳を取り出して、教科書とノートで先生から隠しながら、こっそりプールの絵を描き始めた。


 音読が回ってきたらものすごい早口で終わらせて、すぐに描くのを再開する。

 

 そして出来たのが、最初の絵だった。


 結果は大成功。お父さんは綺麗だと言ってくれた。

 こうして、わたしはわたしの世界を知ってもらうために絵を描き始めた。



***



 それからはもう、大躍進だった。


 図工の授業で描いた絵はたくさんの人から褒められたし、夏休みの課題として書いた絵は毎年なにかの賞を取っていた。


 小学校を卒業するころには、わたしはちょっとした有名人になっていた。


 わたしの中学校には、同じ小学校の人たちの大半が入学したから、それは中学生になっても続いた。


 変な感じだった。あんなにわたしのことをおかしいと言って距離を取っていた人たちが、みんな手のひらを返してわたしと仲良くなろうとする。


 休み時間に絵を描いてるときなんて、クラスの半分くらいが集まってきて、いろんなことを言ってきた。

 「こうした方がもっと綺麗になるよ!」って言われたときは、結構イラっとしたなぁ。


 多分、この人たちは周りに仲良しアピールがしたかったんだと思ってる。

 女子は自分の地位向上のため。

 男子は周りへのけん制のため。

 人気者の鈴夏と仲良くしたい人だけがわたしの周りに集まってきた。そんな人たちにも明るく接したわたしを誰か褒めてほしい。


 で、さすがに絵を描くのに集中できなかったわたしは、美術部に入部した。


 でも正直、こっちの方がひどかった。


 部のみんながわたしと距離を取ってきた。時折こちらを見ているのに、目が合うとすぐに顔を背けてくる。


 気になって一度、部長をしていた女の子に理由を聞いてみた。そしたらこう言われた。


『蝶名林さんに比べたら、ウチたちの絵ってみんなカスだから』


 その言葉を聞いて以降、わたしは美術部に行かなくなった。

 わたしにとっての絵って、そういうのじゃないんだけどなぁ。


 それを伝える日は、結局来なかったけど。



***



 あと、これはどうでもいい話なはずだけど、でもちょっとだけ他のことよりも記憶に残ってることがあった。


 二年生の…たぶん秋くらい。一年の男子から告白された。


「先輩の絵を見たときから、ずっと好きでした! 俺と付き合ってください!」


 こんな感じのことを言ってきたと思う。


 告白は初めてじゃなかった。一年のころから同級生の人だったり先輩だったり、いろんな人から告白されていた。


 でも、全部丁重にお断りさせてもらった。興味がなかったのもあるけど、わたしのことを知らない人から告白されるのがよくわからなかったし、知ってる人でも多分わたしのことは見ていなかったと思うから。


 ただ、その後輩くんからの告白だけは受けた。

 ちょうどそのころ、恋愛漫画にハマっていたから。


 漫画を読んで、恋愛が綺麗なものだと思っていたそのころのわたしは、自分でも体験してみたくなったってわけだ。出来ることなら恋愛というのががどんな匂いなのかも知りたかった。


 ……それに、多分ちょっとだけ期待してた。絵を見て好きになってくれるなら、わたしの世界を知ろうとしてくれるんじゃないかって、ほんの少し期待してた。


 まぁやっぱり、それは叶わなかったんだけどね。

 匂いとかのことをそれとなーく説明したとき、ずいぶんと引きつった顔をしていた。


「鈴夏先輩って、その……厨二病的なやつ…なんすか?」


 厨二病だって! ふざけんな!


 だから、その日の帰り道に丁重に関係を断った。

 後輩くんは焦って引き留めようとしてたけど、どこかほっとした顔をしてたのをわたしは見逃さなかった。


 結局のところ、後輩くんも人気のある鈴夏と付き合いたかっただけで、わたしと付き合いたかったわけじゃないみたいだった。


 それからの告白は全部お断りした。わたしが付き合った人は後輩くん一人だけ。ほんとはカウントしたくないんだけどさ。


 そして、わたしは恋というものを経験することなく、中学時代を終えたのでした。


 やっぱりこれ、どうでもいい話だ!



***



 最後に、高校生になったわたしのこと。

 一番大事なものは最後にとっておかなくちゃね。



 といっても、一年生のときの話はあんまり必要ない。


 中学のころのせいで、告白してくる人はいなくなって、代わりに女子がもっと集まってきた。


 なら、やることは変わらない。人気者の鈴夏でいよう。


 だって嫌われたら、きっとわたしの世界を汚されるから。


 彼女たちと話すため、学校で絵を描く時間は放課後にしかなかった。


 運がよかったのは、美術部がわたし一人の部活だったこと。これなら、中学みたいなことにはならない。


 そうやって過ごしていくうちに、一年が過ぎた。


 そして、また夏が来た。


 君と出会えた。夏の雨の匂いがした。


 はじめて会ったとき、その匂いに惹かれた。きっとあれが一目惚れっていうんだろうね。


 君はわたしのことをまったく知らなくて、わたしも君のことをまったく知らない。

 でも、匂いで感じた。


 君はわたしのことを知ろうとしてくれる人だって。


 だから、怒って帰っちゃったときと、次の日「最低だ」って言われたとき、実はものすごく悲しかったなぁ。ダメだったかぁ…って心の中で落ち込んだんだよ。


 それでも、君からはあの匂いを感じていたから、諦めたくなかった。自分の世界を信じてるからね。


 わたし、君が怒ってたわけが誤解だってわかったから、なんとか誤解を解こうと頑張ったよ。あのときもやっぱり、匂いのことを信じてもらえるか不安だった。


 でも、君は匂いのことを疑わなかったし、「なるほど」って当たり前に受け入れてくれた。やっぱりあの匂いは間違ってなかったんだって思うと、勝手に口がにやけてたの。


 それで、デートをして、君がわたしのことを知ろうとしてくれるたびに、君の匂いがどんどん大きくなっていって、わたしは君のことをどんどん好きになっていった。


 あっ。もちろん、好きになったのはそれだけじゃないよ。

 君の笑う顔も好きだし、わたしのために色々考えてくれるのも大好き。


 一回目のデートのとき、事前に調べてくれていたのがどれだけ嬉しかったか、君はわかってないんだろうね。

 実は、あのときのわたしは、君を見定めようなんて思ってたんだよ。

 途中から楽しくなって、そんなことどうでもよくなってたけどね。


 そして、二回目のデートの今日、初めて恋の匂いを知ったの。恋って、カルピスみたいな匂いなんだね。そのまんまじゃん!


 それを知ってから、もう気持ちを抑えるので精一杯!


 途中あんなことがあったから、すごく怖くて泣いちゃいそうだったけど、君に心配をかけたくなくて、大丈夫なフリをした。でも、手は繋いでほしかったな。


 けど平気だよ。君が守るって言ってくれたから、安心できたよ。それで、君と話しているうちに怖かったこともきれいさっぱり忘れちゃった。


 それだけ君に夢中だったのに、電車でまだまだわたしのことを知ろうとしてくれた。それでもっと夢中になった。


 そんなときにあんなこと言われたら、普通我慢できないよ。大好きな君の匂いが、溢れ出して止まらないんだもん。


 今もまだ、君を思い出すとすっごく顔が暑くなる。夏のせいじゃないよ。


 次に君の顔を見たら、恥ずかしくて顔を手で覆いたくなっちゃうし、心臓のバクバクが止まらないと思うけど。


 わたし、ちゃんと待ってるから。あの教室で、君の返事を待ってる。

 だから、きっといい返事を聞かせてね。

 それが終わったら、手をつないで一緒に帰ろうね。次はどこに出かけるか一緒に考えながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る