アンデルセン症候群
いずみなみだ | 泉 涙
第1話 存在と無
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何をするにもおっくうで、起き上がる気力もない。オオイズミはそのまま横たわっていた。今は一体何時なのだろう。うっすらと東向きの窓がほのかに明るくなってきた。また今夜も寝つけれなかったか…。そう独り言ちると、オオイズミはそのまま天井を眺めていた。
病気になってこのかた、睡眠薬を適量限界まで服薬しても、オオイズミには至福の睡眠時間は訪れなかった。強めの睡眠薬だけではない、抗不安薬を併用しても、気分の落ち込みは晴れなかった。それどころか、最近すっかり増悪している。最近?それは何のことだ、もう何もかもがどうでもいいはずではなかったのか…。
大学病院の精神神経科で受診し、抑うつ状態、うつ病との診断が下されてから幾日が経ったのだろう。オオイズミにはどうでもいいことだが、もう数年の月日が流れている。今日はその大学病院の精神神経科に通院をする日だ。結局、今月も良い報告を主治医に持っていけれそうにもない。「引き続き、強い自責感による気分の落ち込みが続いています」。簡潔に要約すればこの一言で現在の状態を表せる。現在に何の期待もしていない自分を責める感情が高ぶっていく。
そうではない、主治医との約束の日だ、今日は。オオイズミはけだるげに時計を確認した。
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K大学付属病院の朝は早い。早く受付を済まさなければ、その分自分の受診の順番が遅くなる。オオイズミはJR信濃町駅で下車すると、まっすぐに病院へと向かった。何も食べていないがどうでもよい。睡眠欲に加えて、食欲もまったくなかった。すれ違う、スーツを着たサラリーマンたちはこれから仕事に向かうのだろう。仕事…そんなことをしていた時期もあったな。オオイズミは自嘲気味に思い出すと、精神神経科で受付をし、広い待合室の長椅子に腰かけた。
それからどのくらいたったのだろう、「オオイズミさん、オオイズミさん、診察室2番にお入りください」とのアナウンスが聞こえる。いつもどおり主治医のミウラ先生の声だ。オオイズミは診察室のドアをノックし、入室する。
「こんにちは。最近はどうですか」とミウラ先生が気さくに声をかけてくれる。しかしオオイズミには、良い報告ができない。
「引き続き、強い自責感による気分の落ち込みが続いています」
「そうですか。最近、特に困っていることはありませんか」
「やはり睡眠をとることがとてもとても難しいです。現在、適量限界まで睡眠薬を処方してもらっていますが、昨夜も寝つけませんでした。また食欲もありません」
「睡眠薬は8時間ほど眠れるものを処方しているのですが、もっと長い時間のものの処方を希望しますか?」
「いえ、眠れる、というよりは寝落ちして意識のない時間が1日6時間ほどあります。体は休まっているはずなので、今のお薬がベストだと思います」
「ふむ」
ミウラ先生は熊のように一息ついた。「身体の調子のほうで何か困ったことはありませんか。総合病院なのですぐに内科などで診ることができますよ」
とにかく、何かあったら予約日時でもなくていいから病院に来て、とのミウラ先生の言葉を背に、今日の受診は終わった。自己嫌悪で嫌になる。
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帰宅し、ベッドに横になると、オオイズミはゆっくりと目を閉じた。目を閉じれば思い出されるのは過去の記憶の断片であった。オオイズミは自分がうつ病になる経緯を今日も思いだした。もう何度反芻したことだろう、結末の変わらない映像記録だ。
パワハラ・セクハラで社内で有名な課長に入社早々人事異動で当たってしまったこと。その課長はオオイズミの前任者の先輩も精神疾患で「つぶしていた」こと。男性特有の性的表現の会話にはついていく気もなかったこと。それだけが人間関係を壊す理由とはならないし、グループの調査役さんや女性の主査さんには大変よくしていただいた。職場の人間関係の一部が悪かったからといって、うつ病になってしまっていることがオオイズミには悔しかった。さんざん仕事ができないと叱責を受けたが、それだけでは心が折れはしなかったと思いたい。
しだいに的確な判断ができなくなり仕事上のミスが増えた。前任者の先輩も精神疾患になっていることから人事部の判断は早かった。オオイズミは休職を余儀なくされ、会社所有の寮で療養生活を送ることとなった。そしてうつ病は長引き、退職した。
オオイズミが残念に思うのは、仕事をはく奪されたことだけではない。当時プライベートで付き合っていて、婚約(!)までしていた彼女に振られてしまったことが最大のショックだった。あとは、オオイズミからプロポーズするだけで、二人の幸せな結婚生活を営めたのに。それなのに。
唯一、オオイズミを慰めてくれるのは、その彼女とのデートの思い出だ。大学1年次から付き合い、その期間は9年にもなっていた。その彼女との思い出だけあれば、もう俺には何もいらない。現在も未来も必要もない。意味もない。意味すらはく奪された無に何の価値があるのだろうか。
オオイズミは、もう泣けなかった。泣くことさえできなかった。
(続きます)
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