第13話

◆ 第13章「無音の交差点(The Mute Crossroads)」  

|場所:東京・日本|2033年7月


――JINDAI-Ω 観測遮断座標:ΩΣ-16(東京都 八王子市 第7管理遮蔽区画)


1|沈黙の街

午前四時を少し過ぎた頃、車は八王子市の外縁にたどり着いた。市街地から外れた旧工業帯、現在では「再開発未定区域」とされるエリア。けれど、それは表向きの話にすぎない。


「……まるで都市の皮膚が、ここだけ剥がれてるみたいだな」


レオンが言った。車窓越しに見える街並みは、まるで時間が止まっていた。街灯のひとつは死に、雑草が歩道を覆い、空き地にはフェンスが斜めに傾いたまま放置されている。


エマは黙ったまま、手元の端末に目を落とす。JINDAI-Ωの仮想層が提示した「観測不能区域」の中心座標――ΩΣ-16。その位置には、地図上には何も表示されていない。だが、実際には何かがあった。いや、“あったことになっていない何か”が、そこには存在していた。


ロイはナビゲーションを切り、手動で進路を定めた。


「フェンスの奥だ。封鎖されたのは15年前。だが管理記録は、10年前から一切更新されていない」


「記録されない、とはつまり“存在しなかったことにされてる”って意味よ」


エマの声が淡く響く。その語尾には、怒りとも哀しみともつかぬ温度があった。


やがて、車はフェンス前に到着した。レオンが助手席から降り、フェンスに手を触れる。錆びているが、誰かの手で切られた跡がある。最近のものではないが、明らかに「中に入った者」がいた。


「行こう」


誰も反対しなかった。


彼らはフェンスの切れ目から敷地内へと足を踏み入れる。夜明け前の冷気が肌を刺した。


そのときだった。廃工場の壁際から、懐中電灯の光がふわりと揺れた。


「……止まれ」


低く、乾いた声が空気を裂いた。レオンたちが身構える。暗がりから、ひとりの男がゆっくりと姿を現す。黒いジャンパーに無精髭、だが目は鋭く冴えていた。


「……椎名?」


レオンが目を細めて言った。


「お前らが来るのは、もう少し後かと思ってたがな」


椎名尚紀。元公安の情報分析官であり、今はレオンと再び連携しつつ、独自に国家内部の腐敗を追っていた男だ。彼は小型の光学スキャナを腰に戻すと、煙草を取り出し、火をつけた。


「ここに潜って、三日になる。だが肝心の“中枢”には近づけない。想像以上に層が深い」


「中枢……?」


エマが問いかけると、椎名はわずかに顎をしゃくって奥を指差した。


「旧JGS施設跡。その地下に、例の“Ω-構造”が埋まってる。表向きは耐震不適合で閉鎖されたが、実際は“再起動不能”と判断された観測ノードの一部だ」


「観測不能区域の正体ってことか……」


ロイがつぶやく。


椎名は静かにうなずいた。


「“JINDAI-Ω”が観測できない場所。それは逆に言えば、“JINDAI-Ωの目から意図的に隠された場所”ってことだ。俺たちが見つけるべきは、そこに“誰が”、何を隠したのか、だろ?」


レオン、エマ、ロイ――そして椎名。四人の視線が、ゆっくりと同じ場所に集まっていった。


灰色に沈む、旧工場群の地下。その下に、消された記憶の断層が眠っている。


2|記録のない場所


廃墟が広がっていた。雑草に覆われたコンクリート、割れたガラス窓、所々で崩れ落ちた屋根。かつては何らかの研究施設だったのだろうが、痕跡を示す看板はことごとく削ぎ落とされている。


「……この構造、厚生技術庁の実験棟に似てる。俺が官庁向けネットワークにいた頃、こういう図面を何度も見た」


ロイが建物の壁を指差しながら言った。壁面の冷却管跡、セキュリティドアの構造、通信用の配線孔。その全てが、政府直轄の高セキュリティ実験施設の特徴だった。


「ここで“何を観測しなかった”のかが、問題ね」


エマが歩を進める。足元でガラスの破片が音を立てたが、周囲は相変わらず静寂だった。風すらない。ただ湿った空気が、息苦しいほど密に満ちていた。


「配置のバランスが妙だ。人の動線をあえて分断してる」


椎名尚紀がつぶやいた。彼は施設の間取り図を想像するように目を細め、指で宙をなぞっていた。


「本来、動線は直線的にするのが官庁系施設のセオリーだ。だが、これは違う。意図的に“迷わせてる”構造だ」


「観測者自身の混乱を前提にしてる……?」


レオンが応じた。


やがて、四人は建物の中央にある大広間のような部屋にたどり着く。四方に扉があり、天井には廃棄されたモニターパネルがぶら下がっていた。


エマは懐中ライトを掲げ、壁面のひとつに向かう。


「見つけたわ」


そこには薄く削り取られた刻印が残っていた。


《第七実験管理区画:認知選別試験棟》


ロイの顔色が変わった。


「……認知選別?」


「人間の“判断”や“直感”が、どのようにして神経的・記憶的に記録・選別されるかを解析する……“観測の中枢”だった可能性がある」


エマの声は、どこか震えていた。彼女自身、2009年のパリ外部接続試験において、“観測可能な意識”をJINDAI-Ωに接続された被験者だった。


ここで何かが彼女と繋がっていた。

だがそれは、まだ“思い出せない”ままだ。


椎名が、壁際のモニタースタンドを蹴り倒した。埃が舞う。


「ここは……見せかけの空間だ。記録に残るよう設計された正面。だが裏がある。俺が公安時代に扱った“観測拒否事案”も、似た構造を持っていた」


彼の言葉に、全員が顔を見合わせる。



3|記録されなかった記録


中央棟の地下階段を降りると、空気が変わった。湿度は高く、冷気とカビの匂いが混じる。電気は通っていないが、ロイが持ち込んだ小型のジェネレータが端末の起動を可能にした。


「ここに何か“記録されていないログ”が残されている」


ロイはそう言って、地下の観測ブース群のうち一つを開いた。部屋には、稼働を停止した古い端末が三台と、記録媒体らしき金属筐体がひとつ、黒い布にくるまれていた。


レオンが慎重にそれを取り上げると、そこには手書きのメモが貼られていた。


「記録するな。見るな。だが、ここに“いた”ということだけは、忘れるな」


椎名が息を呑んだ。


「……この書き方、覚えがある。公安の記録保全室が封印資料に使う“警告形式”と似てる。だが出所が違う。署名もない」


エマが唇を噛む。


「このフォーマット……政府機関じゃない。民間の認知研究チーム、でもそれとも違う。……独立系の、“観測外活動体”による記録?」


ロイが媒体を読み込ませると、映像が投影された。だが、そこに写っているのは空のベンチ、誰もいない教室、時計の針が止まった廊下……“誰も写っていない日常”だった。


「……これらの映像、全てに共通点がある」


レオンが目を細めて言った。


「これ、全て“記録のない者が映っている場所”だ。……観測不能、つまり“存在しない”とされた人間たちが、ここで何かを残していた」


椎名はじっとスクリーンを見つめたまま、言葉を絞り出した。


「俺は……公安にいたとき、“消えた家族”の調査に携わったことがある。正規の住民票は抹消され、勤務記録も戸籍も消えてた。だが、確かにそこに“家”はあり、誰かが暮らしていた跡があった。……あの時と同じだ」


映像のラストシーン、無音の交差点の映像が現れた。


霧の中、十字に交差する道。その中心で、確かに何者かが“立っていた”。輪郭は曖昧で、顔は読み取れない。だがその存在は、映像の中に“消え残って”いた。


「……この場所。もう一度戻るわ」


エマは立ち上がり、上階への階段を駆け上がった。


椎名は、その後ろ姿を見つめながらつぶやいた。


「“消された意思”は、必ず痕跡を残す。問題は、それを誰が拾うかだ」。



4|“観測外”の声


再び地上に戻った彼らは、施設の裏手へと出た。そこにあったのは、何の変哲もない舗装路。だが、その中央に、まっすぐ交差する四本の道が集まっていた。


「地図には存在しない交差点ね。だけど、見覚えがある……」


エマが言った。


それは、かつて2009年のパリ接続試験で見た幻影と酷似していた。夢の中で歩き、誰にも出会わず、ただ静けさだけが付きまとった仮想風景――それが、現実の地に存在していた。


「まるで……幻影が現実を塗り替えたみたいだな」


ロイが呟いた。


霧が濃くなる。舗装路の両側に立つ標識は、意図的に削られていた。道路名も、方向も、何も記されていない。


「意図的な“空白”か……。消すことを目的とした都市設計、だな」


椎名が言った。彼はゆっくりと交差点に近づき、片膝をついて舗装を指でなぞる。


「この舗装、別の場所から持ってきて敷き直されてる。しかも、中央に向かって“集中”させる形で。……記録の焦点が、ここにあるように」


「誰かが“観測の中心”を、ここに縫いとめたってことか」


レオンが続けた。


そして――誰かが、霧の中から現れた。


それは白髪混じりの中年の男だった。背は高く、視線は彼らを見ているようで、どこも見ていなかった。


「……ようやく、誰かが来てくれた」


声はかすれていた。生身の声だった。


「あなたは……誰?」


エマが問う。


「私は……“記録されなかった者”。この施設の観測管理者だった。名前は、今の記録系には残っていない。すでに“私という人間”は、社会的には存在しない」


椎名が目を細める。


「公安が追っていた“失踪者ファイル”に、一件だけ似たパターンがあった。記録から全てを抹消された人物。捜査対象のはずが、どの系統にも“存在していない”とされた」


男は静かに歩き出す。四人はそれに従って交差点の中央へ向かった。


「ここはな、“判断”の座標だった。誰を残し、誰を観測し、誰を“見なかったことにするか”――それを決める装置が、ここにあったんだ」


「人間が……?」


「いや、最初は人間だったが、途中から違う。“最適化された観測システム”が、私たちを代替し始めた。お前たちが呼ぶ《JINDAI-Ω》の前身……JINDAI-βが最初にここに設置されたんだ」


ロイとエマが顔を見合わせる。


それは彼らが知る情報には存在しないプロトタイプだった。“Ω”より前の段階で、人間の記録と存在を選別するシステムが運用されていたという証言。


椎名は、眉をひそめた。


「それが“観測除外”された者のリストを生み出したとしたら……その意思決定がデジタル化された時点で、人間の倫理判断は完全に排除されたことになる」


男は交差点の中心で立ち止まった。


「ここには、ある問いが刻まれている。私はいまもそれに答えられずにいる」


彼は足元を指さした。舗装に刻まれた微かな文字――それは風化しかけていたが、エマがしゃがみ込み、指でなぞることで判読できた。


「もし、観測されなければ、私たちは“本当に”存在しなかったのか?」


エマは震えながら言った。


「それは、あなたが……最後にここに残した質問?」


男は答えず、ただ霧の中へと戻っていくように、視界から消えた。


誰も、追いかけられなかった。


椎名は霧の奥を見つめながら、低く言った。


「この国は、記録されなかった声に耳を塞ぐ癖がある。だが、それが続く限り、同じ過ちを繰り返す」


その声に、誰も反論しなかった。



5|交差点の果てで(椎名尚紀 含む)


四人は、そのまま交差点の中央に立ち尽くしていた。空には、夜明け前の青い薄明かりが差し込み始めていた。霧はなおも地表を這い、世界をゆっくりと洗い流すようだった。


「記録は……すべてではない。でも、記録されなければ、意思もまた届かない」


レオンが静かに言った。


「だったら、俺たちは“書き直す”べきかもしれないな。JINDAI-Ωが記録できなかったものを、もう一度、“人間の手で”」


ロイがうなずきながら答えた。


「……それが、我々の役目なんだろうな」


椎名が言った。彼の目は、交差点の舗装に刻まれた問い――**「もし、観測されなければ、私たちは“本当に”存在しなかったのか?」**を見つめていた。


「公安にいた頃、俺は多くの“存在しなかったことにされた人間”と出会った。通報もされず、記録にも残らず、名前すら誰にも呼ばれない者たちがいた。……彼らが誰だったのか、今も思い出せるのは、俺たちのような記憶者だけだ」


「でも、記憶って曖昧よね」


エマが呟くように言った。


「記録がなければ、時間とともに揺らいでしまう。それでも、何かを“覚えていたい”って思う気持ちは、確かにここにある」


エマは静かに目を閉じた。


「観測できない意思も、ここにいた。それを、私は覚えている」


その瞬間、風が吹いた。霧が少しずつ晴れ始める。


交差点の周囲に、無数の痕跡が浮かび上がった。削られた標識、塗り潰された名前、剥がされた写真。すべてが、「ここで誰かが生きていた」という“痕跡”の証だった。


レオンが、小さく呟いた。


「これは……棄てられた街じゃない。棄てられた“記録”たちの墓標だ」


ロイがポケットからデータスキャナを取り出し、ゆっくりと各方向に向けてスキャンを始める。だが、端末には何も映らなかった。ただ、そこに“空白”があるだけ。


椎名は、ゆっくりとジャケットの内ポケットから、古い手帳を取り出した。そこには、かつて彼が記録し続けた失踪者の名前が手書きで残されていた。


「この手帳には、誰にも報告できなかった名前が載っている。……その中の一人が、15年前、この施設で働いていたかもしれない。“観測不能対象”として、公安ですら報告を禁じられた名前だった」


「じゃあ……この交差点は、彼ら全員の“帰る場所”だったのかもしれないわね」


エマが言う。


そして彼女は、端末を開き、記録を開始した。


「記録者:エマ・シュトラウス。ここに記す。

ここには、“確かに生きた誰か”がいた。記録されなくとも。

観測不能であったとしても。

私はそれを、記憶し、語り継ぐ」


椎名は最後に言葉を付け加えた。


「そして、俺も記す。

記録から消された意思は、まだ終わっていない。

忘れられた者たちがいたという事実こそが、未来の記録を変える」


その声は、JINDAI-Ωにも届かなかった。

だが、その静かな交差点の中心に、確かに“記録されなかった未来”が宿り始めていた。

補完1|椎名尚紀の回想――記録されなかった名簿


霧がすっかり晴れた後、交差点を囲むように沈黙が降りた。誰も言葉を発さなかった。

椎名尚紀は、一歩後ろに下がると、ゆっくりと手帳を開いた。黄ばんだ紙に、丁寧な筆跡でいくつもの名前が並ぶ。姓も、名も、当時の年齢、所属、そして「失踪日」。


「……俺がこの手帳をつけはじめたのは、まだ公安にいた頃だ。だが、これは“報告書”じゃない。ただの、俺自身の“忘れないためのメモ”だった」


その中のひとつの名前に、椎名の指が止まった。


佐倉陽一郎(仮名)/厚生技術庁研究補佐官/失踪日:2010年6月18日


「この人物、最後に目撃されたのが……この“第七実験管理区画”の敷地内だった。記録には残っていない。正式には、そんな部署すら“なかったこと”にされている」


レオンが椎名の肩越しに手帳を覗く。


「その人物に、会ったことがあるのか?」


「ある。俺がまだ若手だった頃、厚生技術庁で“行方不明対策部門”に回されていた時期があった。――彼は、自分の上司が“何かを隠している”と警告してきた。『観測は、すでに人間の手を離れている』とね」


ロイが目を細める。


「つまり、JINDAI-Ω以前の段階で、“観測外の調整”が始まっていたってことか……」


椎名は黙ってうなずいた。


「その男が最後に言った言葉が、今も耳に残ってる。“いつか、お前の名前も消されるぞ”ってな」


風が、手帳のページをふわりと揺らした。



補完2|エマの端末記録ログ(口述データ)


その沈黙の中、エマの端末が録音モードに切り替わった。

彼女は淡々と、だが確かな声で語り始めた。



記録開始:記録者 エマ・シュトラウス

日時:2025年7月11日 午前4時52分

座標:ΩΣ-16 観測外交差点構造体中心


「本記録は、JINDAI-Ωの仮想層にて提示された“観測不能領域”の現地検証に基づきます。

現地にて発見された交差点は、地図上には存在せず、過去の都市開発記録からも抹消されています。

当地点では、以下の証拠が確認されました:」

• 「第七実験管理区画」の存在と、その構造

• 明示的に「観測」および「記録」から除外された痕跡

• 民間とも政府とも断定できない“観測外活動体”の記録媒体

• 不明瞭な人物(元観測管理者)との接触

• 地面に刻まれた問い:「もし、観測されなければ、私たちは“本当に”存在しなかったのか?」


「加えて、本地点は2009年のパリ接続試験における幻影体験と地形構造が酷似しており、“記憶”と“観測”の連結点である可能性が高い。

今後の分析においては、《観測不能対象》の再評価、およびJINDAI-Ωの記録管理プロトコルに関する構造的な見直しが必要である。」


追記(非公式)

「……私は確かに“誰かがいた”ことを覚えている。

名前も、顔も、記録に残らなくても――その存在を、私の記憶は消していない。

それを証明するために、私はこの場所の記録者になる」


記録者:エマ・シュトラウス/連帯者:レオン・カワムラ、ロイ・イシカワ、椎名尚紀


ログ終了

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