第30話
六月二十五日、水曜日。
敦子はいつも通り、午前九時半にオフィスへ到着した。
「大西さん、ちょっといい?」
朝一番、チーフの辰巳悠から声をかけられた。
内容については時期としても、敦子はおよその察しがついた。しかし、
わざわざふたりきりになったことから、どちらかというと嫌な予感がした。
「え、えっと……一次審査の結果、きたんですよね?」
小さな会議室で、敦子は悠と向かい合って座った。
自分の心臓がうるさく鳴っている。とても、始業前の気分で知りたくない。可能であれば、心の準備が整うまで、もう少し待って欲しかった。
「うん、受かってたよ――おめでとう」
神妙な面持ちのまま、悠がぽつりと漏らした。言葉と表情が一致しないため、敦子は結果を理解するまで少しの時間を要した。
芽依が一次審査を合格した。オーディションの最終審査へ進める。
敦子はテーブルの下で小さくガッツポーズを取った。期末試験が近づいているが――今日も芽依を学校帰りに呼び出し、対策を練らなければならないと思った。
ここでようやく、悠が微笑んだ。
「大西さん、ごめんね。とりあえず、謝らせて……。私は正直、ここまで残るとは思わなかったから……」
その理由で頭を下げるために場所を移したのだと、敦子は察した。
事務所が芽依をどのように扱っているのか、敦子は知っている。少なくとも、これまでの非を謝罪して欲しいわけではなかった。きっと芽依も同じだろうと思う。
敦子はただ、芽依の実力を認め、ここまでの実績を称えて欲しかった。
「私もビックリしました。一概に偶然とは思いませんけど、確かに芽依ちゃんも頑張りましたけど……今回は、いろんな要因が重なった結果じゃないでしょうか」
本心としては、十中八九――芽依の実力によるものだ。しかし、敦子はペタルーンの従業員である以上、芽依の肩だけを持たず、謙遜した。
事務所相手に強く出るのは、最終的な合格を掴み取ってからだ。
「そうかもしれないけど、結果的には大西さんのやり方は正しかった。大西さんを営業に連れてきて、本当に良かったと思ってる。芽依ちゃんと良いコンビだから、これからも頑張ってね」
「ありがとうございます。でも、私だけにじゃなくて……芽依ちゃんにも同じこと言ってあげてください。絶対、良いモチベになりますから」
「あはは……そうだったね」
敦子は、その部分には口を挟んだ。自分のことはどうでもよかった。
「さて、次は最終審査だけど……ここまで残った以上は『爪痕』を残せてる。もしも今回ダメだったとしても、何らかの反響はあると思うよ」
そのように言われ、敦子は妙に納得した。最終審査は、制作のプロデューサー、監督、脚本家、演出担当らの目に触れることになる。
以前の、自己啓発ポスターのように――別の案件へ紹介、或いは起用される可能性があるかもしれない。そのようなことを、今まで考えなかった。
だが、それにありつけたとしても、そのような結果になったとしても、きっと素直に喜べないだろうと敦子は思う。
「とりあえず、コレで夏の予定は入れてくるつもりです」
敦子は、悠なりの気遣いに感謝した。
だが、まずは最高の結果を残すつもりだ。今は『次』のことなど頭に無い。
不敵な笑みを浮かべていることに、敦子は気づかなかった。
「そうだよね……。芽依ちゃんなら選ばれるって、私も応援してるよ」
「ありがとうございます!」
*
七月二日、水曜日。
敦子は午前六時半に、エアコンの効いた寝室で目を覚ました。
七月になった途端、猛暑日が続いていた。すっかり夏だ。
朝食を摂り、敦子は身支度をした。外は暑いが――春に芽依が選んでくれたスーツに袖を通した。これが敦子にとっての『勝負服』だった。落ち着いてから、次は夏用のスーツを一緒に買いに行こうと思った。
化粧には気合を入れ、髪をひとつ結びでまとめた。
あくまでも審査を受けるのは芽依だが、マネージャーとして彼女に相応しい格好を心がけた。
準備を終え、自動車に乗った。
テレビの天気予報では、雨は降らないと言っていた。しかし、フロントガラスから見える空は、どんよりと曇っていた。蒸し暑いものの日差しは無いと、前向きに考えることにした。
午前八時十五分にオフィスへと到着した。
始業前の時間帯は、ガランとしている。だが、オフィスビル四階にあるメイクルームは、灯りがついていた。
「おはようございます」
敦子は部屋に入ると、スタイリストに化粧を施されている芽依と――彼女の母親である沙樹の姿もあり、驚いた。
「お母様、いらしてたんですか?」
「大西さん、おはようございます。今日は大事な日やさかい……ここまで応援に来ましたわ」
普段はフワフワとした雰囲気の沙樹だが、いつになくやる気に溢れていると、敦子は感じた。母親として、逞しかった。
沙樹の整った身なりから、これから仕事に向かうのだろうと思った。もしかすれば、遅刻を前提に時間を割いているのかもしれない。何にしても、沙樹の気持ちは伝わった。
「来て頂いて、ありがとうございます。芽依ちゃんも、喜んでますよ」
芽依が鏡越しに背後が見えているのか、敦子はわからない。いや、芽依の本心はわからない。
ただ、今は喋られないのか――芽依は右手を挙げ、親指を立ててみせた。
「大西さんには、ほんまにお世話になってます。ここまでこれたんも、大西さんのお陰ですわ。せやから……今日も、よろしゅうお願いします」
沙樹から深く頭を下げられ、敦子は慌てた。
こうして最終審査まで残ることが出来たのは、紛れもなく芽依の実力だ。謙遜ではなく、咄嗟に本心が口から出ようとした。
しかし――芽依を俳優の道へ誘ったのも、今回のオーディションを紹介したのも、自分だ。ここで芽依に振るのは、間違っている。マネージャーとしては、最後まで責任を果たさなければならないと思った。
「任せてください! 今日もしっかりと、芽依ちゃんのサポートします!」
敦子は美澄母娘に、力強く頷いた。
絶対の自信が無ければ、虚勢でも無い。ただ、自分の中にある純粋な気持ちを示したまでだ。
芽依は一次審査と同じ格好に仕上げた。
準備が済み、敦子は芽依を自動車の助手席に乗せた。
最終審査の会場へ向けて走り出すと――隣に座る芽依から、緊張が伝わった。
いや、ひどく怯えているのがわかった。
「珍しいね」
敦子は運転をしながら、それだけを漏らす。
これまで、どのような仕事も芽依がそつなくこなすのを見てきた。敦子の知る限り、緊張した姿は初めてだった。
きっと沙樹も知らないのだろうと思った。
「そりゃ、怖いですよ……。もし落ちたらどうしようって、考えてしまいます」
とても弱々しい声が、敦子の耳に届く。
ここにきて芽依の『素』が出ているのは、敦子にとって予想外だった。沙樹の存在が却ってプレッシャーになったのだろうかと思った。
何にしても、マネージャーとして支えればいけないが――どのように励ませばいいのか、わからなかった。
若いんだから、まだ次がある。真っ先に浮かんだのがそれだった。辰巳悠からの受け売りも、思い出した。
だがやはり『今』を真剣に取り組んでいる芽依に、否定を促す言葉をかけたくない。それに、敦子もまた投げ出していいと思いたくない。
「うう……まさか、こんな時にヘラるなんて……。やっぱりわたし、死ぬしかないですね」
「ちょっと待って、芽依ちゃん! もうメイク済んでるからね!?」
グズグズと鼻を啜る音が聞こえ、敦子は化粧が崩れることを最も恐れた。審査の自己PRまで、泣いてはいけない。
だがこのままでは涙が溢れそうだと、焦った。なんとかして、抑えなければならない。
敦子はここでふと、先日購入したものを思い出した。
赤信号で停車した際、後部座席に置いた鞄から取り出した。
「これ、御守代わりに持っといて」
敦子は芽依に、ファンシーなウサギが刺繍されたハンカチを手渡した。
先日ショッピングモールで買い物をしていた際、見かけたものだった。ウサギが芽依を彷彿とさせ、もしも芽依が泣いた時に使おうと購入した。
御守代わりとは仰々しいが、まさか『予防』として使うことになるとは思わなかった。
「わぁ、可愛いですね。いいんですか?」
「芽依ちゃん専用のハンカチだよ。でも、今はまだ使わないでね」
「ありがとうございます! 冷や汗かいて過呼吸になりそうな時は、これを握って素数を数えますね」
「ねぇ、芽依ちゃん……。そんなこと言う余裕あるってことは、実は緊張してなかったりしない?」
信号が青になり、敦子は半眼で前方を眺めてアクセルを踏んだ。
「そんなことないですよ。死ぬほど怖いに決まってるじゃないですか」
ケロリとした様子の芽依から、敦子の疑念は強まるが――何にせよ、これが『いつもの調子』であるため安心した。
きっと、このようなふざけたやり取りが出来るほど落ち着いている方がいいのだと思うことにした。
やがて、コインパーキングに到着した。
敦子はエンジンを切り、自動車から降りようとした。
「あ、敦子さん! すいません……ワガママ聞いて貰ってもいいですか?」
だが、芽依から呼び止められた。
敦子は助手席に振り返ると――芽依の方が身長は高いが、上目遣いを向けられているように感じた。
芽依が自分の膝の上で、ウサギのハンカチを強く握っているのが見えた。そして、これまでの付き合いなら、敦子は芽依が今この瞬間は本当に緊張しているのだと思った。
「わたしのこと……抱きしめてくれませんか? 敦子さんパワー、注入してください」
「え!?」
恥ずかしがる様子で恥ずかしいことを言われ、敦子まで恥ずかしくなった。
だから、先日の『デート』を思い出した。帰り際、芽依に情けない姿を見せ、抱きしめられたのであった。
「しょ、しょうがないなぁ……。芽依ちゃんが頑張ってくれるなら……」
敦子としては『借り』を返すつもりだった。運転席から身体を伸ばし、助手席の芽依をそっと抱きしめた。
エンジンと共にエアコンも切れ、車内はすぐに蒸し暑くなっていた。その中で、敦子の腕の中に確かな温もりがあった。不快ではなかった。
大人びているのに、身体も大きいのに――子供らしく緊張しているのが伝わった。
頭を撫でそうになったが、髪も一応セットしているため、堪えた。
「どう? 元気出た?」
「は、はい! 五百倍ぐらい出ました!」
明るく頷く芽依に、敦子は微笑んだ。
「よし。それじゃあ、行こうか」
最終審査の会場は、テレビ局の会議室だ。レンタルスタジオを使うほどの
ローカル局だが、敦子がここを訪れるのは二度目だった。一度目は仕事ではなく――大学生だった頃の就職活動だった。
そう。かつて敦子は、ここで働きたい気持ちがあった。しかし、不採用となった。
いけないと思うも『落選』の印象が浮かんだまま、正面玄関をくぐった。
敦子はなんとか払拭しようとした。それに際し、当時の記憶を掘り起こしたのは、おかしくないのかもしれない。
しかし――テーマパークの一件もあり、当時交際していた恋人の記憶が蘇ったのは、なんだか解せなかった。確かに、就職活動を応援されていたが。
何にしても、思わぬところで嫌な予感へと繋がった。
敦子は釈然としない気持ちで、一階の受付へ向かった。
ちょうど、受付には先客が居た。ふたりの女性だ。
ひとりはオレンジブラウンのロングヘアーであり、妙に明るい色だと敦子は思った。そして、自分と同じぐらいの背格好に――既視感を覚えた。
「すいません。オーディションの件で伺いました、向坂です」
もうひとりの女性が口にした苗字で、敦子は確信した。瞳が大きく見開いた。
「……え? 千春?」
敦子は立ち止まり、思わず漏らした。
声が届いたのか、明るい髪色の女性が振り返る。
きょとんとした表情で敦子を見た後、パッと表情が明るくなった。
「うわー、敦子じゃん! 久しぶり――てか、こんなところでバッタリ会うなんて、あり得る!? すごくない!?」
子供のようにはしゃぐ女性に対し、敦子は呆然と立ち尽くした。隣の芽依から、不安な様子が伝わる。
目の前の事実に、理解も感情も追いつかない。敦子もまた、まさかこのような状況で彼女の顔を見るなど、思いもしなかった。
(第10章『予感』 完)
(前編 完)
次回 【幕間】第11章『すれ違い』
向坂千春は大西敦子と恋人として交際し、そして別れた。
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