第10章『予感』
第28話
六月九日、月曜日。
敦子は、珍しく土日の休日だった。土曜日は芽依とテーマパークで遊び――複雑な気持ちになる時もあったものの、リフレッシュできた。
休日明けの今日、オフィスで事務仕事を始めること一時間。
「大西さん、ちょっといい?」
午前十一時過ぎ、敦子は営業部チーフの辰巳悠に、オフィス内で呼ばれた。
悠の様子は明るいというより、上機嫌に見えた。敦子はある予感を持ちながら、悠の席へ向かった。
「書類審査の結果、きたよ」
笑顔の悠から、手招きされる。
やはり、敦子の思った通りだった。芽依のオーディションの応募締め切りが、五月三十一日までだった。時期的に、そろそろ書類審査の結果が出る頃だと思っていた。
敦子は悠のにこやかな様子から、結果についておよそ察した。言い渡される直前の緊張すら無いまま、悠の机に回り込み、パソコン画面を覗いた。
「一次審査のお知らせ……」
事務所宛てに届いた――画面に映し出されている電子メールの題名を、敦子は口にする。
メールの本文には、時間と場所が記されていた。
敦子は合否に関する言葉を探すが、どこにも無い。それでも
「え? これ、応募した人全員に送られてるんじゃないですよね?」
思っていた内容とは少し違うため、敦子は戸惑った。
「ああ、これ? オーディション関係の文言なんて、こんなもんだよ。合否がはっきり言い渡されるのは、最終審査の時だけかな」
「へぇ。初めて知りました」
「ていうか、一般的にはここで三割……多い時は半分ぐらい落ちるよ」
「そんなにですか!?」
敦子は素直に驚いた。
初めて臨んだオーディションで――書類審査など、ほとんどが通過する印象を持っていたのだ。事前に知っていれば、より念入りに記入していただろう。
とはいえ、所属事務所の信頼、これまでの活動実績、そして容姿で審査された結果だと、敦子は思った。SNSに関する記入欄もあったため、フォロワー数としては有利だったはずだ。
「私がチラッと聞いた話だと、今回七百人ぐらいの応募があったみたい。やっぱ全国放送だし、倍率高いよね」
これも、敦子が初めて知った情報だった。
テレビドラマ『月灯りのレコード』はローカル局が制作し、深夜帯だが全国放送される。規模としてはそれほど大きくない。しかし、助演を選出するオーディションが、敦子は業界内でも注目されていると理解していた。
それでも、多くて三百名ほどだと思っていた。二十歳の役を演じる女優が一体どこに七百名もいるのだろうと、驚くよりも不思議だった。
いや――ローカル局が制作するため、近隣の地域からの応募しかないという先入観が、敦子にはあった。実際は、おそらく全国から応募があったのだろうと思う。
そして、その中で選ばれるのはたったひとりだ。
そのように考えると、険しい道のりだと敦子は感じた。
「とりあえずスタートラインに立てたんだから、そこは喜ぼう。それから、次の一次審査でたぶん十人以下まで減らされるから、頑張ってこ」
「は、はい!」
書類審査の通過率が実際にどれだけだったのか、敦子はわからない。
だが、次の一次審査、そして最終審査――どちらの壁も高いと感じた。
敦子は書類審査の件を伏せ、学校帰りに事務所へ寄るようにと芽依に伝えた。
午後四時半、芽依がオフィスに現れた。
六月になり、衣替えがあったのだろう。ジャンパースカートに、ブレザーではなくベージュのカーディガンを羽織った姿が、敦子はなんだか珍しかった。
「敦子さん、お疲れさまです」
「お疲れさま。とりあえず……会議室に行こうか」
敦子はノートパソコンを持ち、席を立った。
普段からよく使用している狭い会議室で、芽依とふたりきり――向かい合って座った。
「早速だけど、オーディションの書類審査、受かったよ! おめでとう!」
悠の言っていた『スタートライン』が、敦子は妙にしっくりときていた。本気でオーディションの最終的な合格を目指す者にとって、書類審査など通過して当然なのだろう。
それでも、敦子は芽依の士気を高めるため、笑顔で祝った。素っ気ないメールを悠から転送されたが、敢えて見せなかった。また、人数に関することも伏せた。
「本当ですか!? わたし、嬉しいです!」
芽依が笑顔で喜ぶ。
敦子には、素直で純真な態度に見えた。だが、表情とは裏腹に、彼女もまた受かって当然とでも思っているのだろうか――一瞬そのように考えるも、呼び出した用件に早々と移ることにした。
そう。書類審査の合格を伝え、祝うためではない。
「それで、次の一次審査なんだけど……」
敦子は、メールに書かれた案内に沿って説明した。
一次審査は来週の火曜日、六月十七日に行われる。内容としては演技、台詞読み、自己PRで審査されるようだ。早速対策に取り掛からなければならないと思い、芽依を呼び出したのであった。
内心、焦りはあった。だが、マネージャーとして芽依を不安にさせてはいけないため、落ち着いた態度を心がけた。
「芽依ちゃん、レコード喫茶のことはわかってきたよね?」
「はい。そこはなんとか……」
オーディションの概要は、最低限の情報しか与えられていない。明白であるのは、舞台がレコード喫茶であり、未亡人の主人公の娘役ということだけだ。
敦子も芽依も、レコード喫茶という言葉を初めて聞いた。時代背景も含め、ふたりでそれについて調べ、理解に努めた。
やはり、芽依にとって最も重要なのは『役への解釈』だと、敦子は思う。舞台だけでなく、年上の役を演じるにあたっても――不安は完全に拭えない。だが、それについては芽依を信じるしかなかった。
「演技と台詞読みは、当日に台本の一部を渡されるぶっつけ本番みたいだから……あとは、自己PRかぁ」
就職活動における面接のようだと、敦子は思った。
いや、実際それと変わらないだろう。しかし、十四歳の中学生には馴染みが無い。
「自己PRって何ですか?」
「自分のパブリックリレーションズ――要するに、自分の強みをアピールすること」
オーディションでは、マネージャーは一般的に別室で待機になるようだ。審査の場へ芽依ひとりで行かせ、短い時間で何かを伝えさせなければならない。
「うーん……。応募書類には、大人びてるのと演技が上手いのを書いたけど、それは見ればわかるし……芽依ちゃん、何か得意なことある?」
それを理解していないのはマネージャーとしてよくないと思うが、敦子は訊ねた。
否、これまで芽依と接してきた中で、思い当たる節がひとつだけあった。
芽依は、感情の切り替えが異様に早い。役者として明確な強みであると、敦子は考える。だが、抽象的であるため、伝え方が困難だ。自己PRでは避けるべきだと思い、提案しなかった。
「そうですねぇ。わたし、秒で泣けますけど……これってアピールポイントになりませんか?」
「え? そんな特技あったの?」
敦子は初耳だと思っていると、すぐに芽依の瞳から涙が頬を伝った。
芽依が提案してから十秒も経っていない。何か構える様子が無い点では自然であり――少なくとも悲壮感が漂っていない様子では不自然だと、敦子は奇妙な感覚を受けた。
「こんな感じです」
ぽつりと漏らし、芽依が涼しい表情で涙を拭う。
敦子にとっては、実に不思議だった。『機械的に泣いた』という表現が、しっくりとくる。だからこそ
「す、すごいよ芽依ちゃん! あれ……ごめん、ちょっと待って」
敦子は思わず興奮するが、ふと気づいた。
これまで何度も、芽依が泣いているところを見てきた。情緒不安定で泣き虫な少女だと思っていた。
だが今この瞬間、覆ることになる。『演技』で泣いていた可能性が、充分に考えられる。
「どうしたんですか?」
「えっと……何でもないや」
いや、それはあり得ないと敦子は断言した。
自分の知っている美澄芽依が
それに、大切なオーディションを控えている今、敦子は勘繰りたくなかった。
「ちなみにだけど、それどうやってるの? 何かコツとかあったりする?」
「コツというか……敦子さんから捨てられるシチュエーションを想像したら、百パー泣けます」
「ゴメンね、毎回そんなに重いこと考えさせて……」
芽依が冗談なのか真剣なのか、敦子にはわからない。潤んだ瞳を向かられ、引きつった笑みを浮かべた。
身震いしたが、オーディションのためには仕方ないため、頭を下げた。
「よし! じゃあ、自己PRはそれでいこう! 一応、何人かの審査員の前でやることを想定して、練習しておいて」
「はい!」
力強く、芽依が頷く。
辰巳悠からオーディションの実態を聞かされ、敦子は気圧された。不安にもなった。
だが、それを払拭させるほどの手応えを得た。芽依ならきっと上手くいく――自分が担当する『商品』を、改めて信じることにした。
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