第23話
午後一時四十五分、敦子はコインパーキングに自動車を置いた。
芽依を連れて、近くにある美容室へと向かう。
敦子は、車内で芽依にダブルブッキングの件を話した。落ち込んだ気持ちを完璧に理解して貰えたとは思えないが、まだ割と近い感触だった。
子供に情けないところを見せた。それでも、今は芽依に話したことで――少なくともオフィスを出る時よりは、気分が和らいでいた。
スーツのポケットに仕舞った、タオルハンカチに触れた。ようやく、気持ちを切り替えられそうだった。
「今日もお仕事頑張ろう」
「はい!」
隣を歩く芽依が頷き、敦子の手をそっと握った。
突然の出来事に敦子は驚くが、温かい手をしっかりと握り返した。
五分ほど歩き、美容室に到着した。
都心からは外れているが、美容室にしては割と大きな店舗だと敦子には見えた。このあたりでは有名なのかもしれないと思った。
強引に笑顔を作り、敦子は扉を開けた。
「こんにちは、はじめまして。ペタルーンの者です。本日は、よろしくお願いいたします」
敦子の挨拶に続き、芽依が行儀良く頭を下げた。
今日は月曜日だからか、店内に客は居ない様子だった。何人か居る店員の、美容師らしき人物――ひとりの女性が、芽依に近づいた。
「こちらこそ、はじめまして! よろしくお願いします! うわー、本物の真依ちゃんだぁ。ていうか、本当に中学生なんですね」
学生服姿の芽依の両手を取り、正面からうっとりと見つめる。
案件はSNSでの反響なのだから、この距離感は間違っていないと、敦子は思う。それに、芽依を
それでも流石に近すぎるため、敦子は少し戸惑った。
「この度は指名してくださって、ありがとうございました」
芽依を見上げると、決して笑顔を崩さず対応している。内心でどう思っているのかわからないが、彼女のプロ意識を感じた。
「本当に綺麗な髪ですね。手入れが行き届いて、マジで完璧ですよ」
実に美容師らしい意見だと、敦子は思った。
もうすっかり見慣れたが――本当に同じ人間種かと疑いたくなるほど、素人である敦子の目からも、芽依の髪は綺麗だった。シャンプーやリンスのCMに出演できると思う。
生まれ持った要素が、全く無いわけではないだろう。だが、日夜しっかり手入れを行っていると、敦子は芽依から聞いたことがある。
母親が率先しているのではなく、芽依が自主的に行っているらしい。モデルなのだから、その手の努力は当然だ――敦子はそう振り返ったところで、沙樹の存在を思い出した。
沙樹との電話で、偶然にも『今回の問題』に気づいた。それから慌ただしかったため、電話があったことを忘れていた。
この美容室の所在地をメッセージアプリで伝えたところまでは、覚えている。しかし、まだ沙樹の姿は無い。
以前の学習塾では、終わり際に現れた。今回も、沙樹からの残念な連絡が無い限り、本当に現れるのかは不確定だ。
沙樹から芽依に連絡があったのかも、わからない。だが何にせよ、芽依に話していない現状が正しいと、敦子は思った。もしも沙樹が訪れた際は驚かせよう、ぐらいに留めておきたい。
「それじゃあ、早速始めていきますね。えへへ……髪だけじゃなくて、実は衣装も用意しているんですよ」
「へぇ。楽しみです」
芽依がシャンプー台へ連れていかれるのを、敦子は見送った。
ここで敦子は、ふと思う。
今回の案件は、一応撮影はあるが――スタイリングがほとんどだ。果たして、同行する必要はあったのだろうか。
芽依ひとりでも問題無かったと、敦子は今になって思う。一彩のロケーションに同行していれば、辰巳悠の手を煩わせずに済んだ。
どうして、その提案が出来なかったのだろう。どうして、ここまで頭が回らなかったのだろう。
敦子は自身の『選択』と『結果』を悔やんだ。再び、暗い気持ちが津波のように押し寄せる。
ああ、いつもそうだった。三年前もきっと――何かを選び間違った結果、取り返しのつかないことになったに違いない。
思考が泥沼のように深く沈んでいく中、携帯電話の振動に、敦子は我に返った。悠から、通話の着信だった。
敦子は店から出て、応えた。
「お疲れさまです、チーフ」
『お疲れー。今、大丈夫?』
「はい」
『いやー、なにカルのロケに行くの、私も久しぶりだからさー。念のため、いくつか確認しておこうと思ってねー』
悠の落ち着いた声から、敦子は言葉通りの意図だと捉えた。ロケーションが始まるまで、まだ時間がある。今回のロケーションに関する引き継ぎは済んでいた。それだけでなく、番組自体に関しても万全の状態で臨みたいのだろう。敦子は悠の、管理職としての矜持を感じた。
電話で擦り合わせを終えると、敦子は店内に戻った。
カット台で何やら施術を受けている芽依の後ろ姿が目に入った。鏡越しに、芽依の笑顔も見え――なんだか、芽依からの視線を感じたような気がした。
実際、芽依が見えているのかわからない。ただの錯覚かもしれないが、敦子は思い出したように笑顔を作った。おそらく、沈んだ表情は店員に見られていないはずだ。
危なかった。タレント本人だけでなく、マネージャーも含め印象の商売だと、敦子も認識していた。
とはいえ、現在は精神面がひどく不安定だと自覚している。それを言い訳には出来ない。敦子はただ、しっかりしなければならないと思った。
その後も敦子は、携帯電話を片手に店の外と内を行き来した。店外でも笑顔を心がけた。
電話はほとんどが悠とのやり取りだった。また敦子から中野一彩にも電話し、謝罪もしておいた。リモートだがこうして手をつくした今、一彩のロケーションは大丈夫だという手応えを得た。
店内の方は、敦子は全体の工程がよくわかっていないが、進捗を確認する程度だった。やはり、必ずしも付き添わなくてよかったと思う。
それでも――錯覚ではなかった。笑顔の芽依から鏡を通し、視線がより強くなっていくのを感じていた。
やがて午後六時、芽依の方が完成した。
別室で着替えてきた芽依が、カット台の並ぶ店内に戻ってきた。
「え――」
その姿に、敦子は思わず息を飲んだ。
ストレートだった黒髪は、強く巻かれていた。一日で戻ると事前に聞いているが、本当だろうかと疑うほどだ。
普段分け目をつけている前髪は、今は揃えられている。それでも決して幼く見えないのは、身長と暗い色の濃い化粧だからだろうと、敦子は思った。
身長がより高く見えるのは、厚底のパンプスを履いているからだ。脚は黒のレースタイツに包まれ――レース素材のハイネックワンピースを着ていた。
敦子の目から、何もかもが自然な風貌だった。少なくとも『コスプレ』の印象は微塵も無い。まるで、外国人のようだ。
「ど、どうですか?」
芽依は声こそ少し不安げだが、どこか嘲笑うかのような、冷たい笑みを浮かべていた。
格好に合わせた雰囲気を出しているのだと、敦子は理解する。
「そうそう、これこれ! いやー、イメージを完璧に再現できましたわ!」
「すっご!」
「なんやこれ! エグいな!」
依頼主を始め店員達が芽依を囲い、携帯電話を構える。カメラのシャッター音が次々と鳴り響く。
「ちゃんとしたスタジオで撮りたいですねぇ」
ひとりだけが大きなカメラを持っていた。プロのフォトグラファーなのか敦子は知らないが、確かに勿体ないと思った。
「ありがとうございます――敦子さんはいいんですか? SNSに載せるんですよね?」
「え? う、うん……。そうだね」
芽依から声をかけられ、敦子は慌てて携帯電話を取り出した。
単純に見惚れていたからだけではない。気分が沈み気味の今、言われるまで忘れていた。SNSのことは自分から提案しておきながら、情けないと思った。
敦子もまた写真を撮っていると、携帯電話の画面上部にメッセージアプリの通知が出た。沙樹からであり、もう少しで到着するようだ。
「いやー。真依ちゃん、ありがとうございます! モデルが最高だから、最高の仕事できましたよ! どんな名前のヘアスタイルにしようか、三日三晩悩んで考えますね」
短い撮影を終え、依頼主が改めて芽依に感謝した。「長いわ!」と周りから口を挟まれている。
敦子がSNSに掲載した写真からこのようなアイデアを出され、依頼主の感性に感服した。この案件を受けて良かったと、そして芽依に同行して良かったと、敦子は初めて思った。
案件自体はヘアカタログの撮影だったと、ふと思い出す。
この格好をした芽依を『サンプル』として売りに出すのだろう。ここまで似合う人間は極僅かであり、詐欺にならないだろうかと敦子は思った。
「わたしの方こそ、ありがとうございました。それじゃあ――着替えるんで、敦子さん手伝ってください」
「り、了解」
芽依に呼ばれ、着替えを行っていた別室へ、ふたりで向かう。
狭い部屋でふたりきりになり、敦子にようやく疑問が浮かんだ。着替えを手伝うなら、店員の方が適任のはずだ。
いや、それよりも、着替えるのはもう少し待って欲しい。本当なら沙樹の登場で驚かせたいが、事情を伝えるべきだと敦子は思っていると――芽依から、両手で頬を掴まれた。
「敦子さん……ずーっとフラフラしてましたよね?」
強引に目を合わされ、芽依が不機嫌な表情だと敦子はわかった。
これを見せたいがために、わざわざふたりきにしたのだと、察した。
「
化粧で顔の血色を抑えている。ダークレッドの唇が動く。涙袋と目尻は、やや黒味を入れたアイメイクで――陰鬱な雰囲気が、普段よりも一層強かった。
しかし、それがとても似合っていた。正面からそっと囁かれ、敦子は背中がゾクゾクと震えた。
「ていうか、地味に寂しかったんですから……。ずっとわたしの傍に居てくださいよ……敦子さん」
青いカラーコンタクトレンズの入った瞳に、涙が浮かぶ。
紛れもなく
しかし、暗い気分が加速することはなかった。自らの言動を悔やむ気持ちが、ただ強かった。
「ご、ごめん」
敦子は芽依の瞳をじっと見つめ、彼女の目尻に指を伸ばす。
少しだけ溢れた涙を、そっと拭った。それがせめてもの、罪滅ぼしだった。
その時、背後の扉がノックする音に続き、店員の声が聞こえた。
「すいません。真依ちゃんのお母さんがお見えになってますが……」
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