第18話
食事が済んだのは、午後九時前だった。
敦子は大人として、十四歳の芽依を帰すべきだと思った。しかし、芽依に帰る気配が無いだけでなく――マネージャーとして、まだ帰せなかった。折角の『練習』なのだから、何らかの手応えが欲しかった。
芽依の見た目は、確かに年齢の割に大人びている。それでも、食事ではやはり年相応の印象だった。
食事という場面が悪いのだろうか。それとも、何か別のアプローチを仕掛けるべきだろうか。敦子はそのように考えながら、商業施設内にあるチェーン店のカフェに、芽依と入った。
「私はホットラテにするけど、芽依ちゃんは何飲む?」
「そうですね……。これにします」
芽依が指さしたのは、シーズナルメニューである、ゆずシトラスソーダーだった。
純粋にそれが飲みたいのか、それともコーヒー類が苦手なのか、敦子にはわからない。どちらかというと、後者のように感じた。
カフェの店内に空席はあった。だが、注文した飲み物を受け取り、芽依に外へ連れ出された。
向かった先は――この『公園』の目玉である、芝生の広場だった。
「ここ、綺麗ですよね」
芽依の言う通りだと、敦子も思った。
都心であるため、周りには背の高いビルが立ち並んでいる。夜空の下、それらが無機質に輝いている。
その中で――薄暗くとも、開けた空間からは芝生の感触が足に伝わり『自然』を感じた。優しい夜風が、草木の匂いを微かに運んでくる。
なんとも奇妙な感覚であり、しかし敦子は不思議と落ち着いた。
「うん。でも……」
広い空間は、決して空いているわけではない。それなりに人影があるが、静かだった。
皆、噴水を囲むように、芝生に座っていた。敦子の目には、ふたりずつ座っている影が映っている。
そう。ここに居るほとんどが、恋人らしき雰囲気だった。昼間はまだしもこの時間帯ならば無理もないと、敦子は思った。
そして、気まずかった。『マネージャーとタレント』には場違いだと、緊張する。
「あそこに座りましょう」
だが、芽依は特に周りを気にする様子も無く、空いている場所へと敦子の手を引いた。
芽依がどのような意図でここに連れて来たのか、敦子にはわからない。ただ、思春期の中学生には興味があるのかもしれないと思った。
芽依とふたり並んで、芝生へ座った。地面は夜風と同じく、冷たくはなかった。
「これ、匂いすっごい良いですよ」
透明のプラスチックカップに入った炭酸飲料を、芽依が差し出す。
ここに来るまでに、既に互いに飲み始めている。敦子はカップの縁に、芽依の唇の跡が薄っすらと見えた。
戸惑うも、言われた通り匂いをかいだ。柚子とシトラスのさっぱりとした香りに、気分が安らいだ。
「ホントだ。私、これ好きかも」
「せっかくなんで、一口どうぞ。わたしも、敦子さんの一口ください」
自然な流れだった。だが――間接キスになるのではないかと、敦子は焦った。
いや、芽依は十四歳だ。これしきのことで、子供相手に動揺してはいけないと、なんとか自身を落ち着かせた。
それでも、芽依の唇跡は敢えて避けて飲んだ。香りと同じく、さっぱりとした味わいだった。
きっと、これが純粋に好きで選んだのだろうと、敦子は今になって思う。
何につけても芽依の言動を勘繰ってしまうが、今はどうでもよかった。それぐらい、安らいだ。
「ありがとう。美味しかったよ」
「わたしもですけど……こんな時間にコーヒー飲んで、寝れなくなったらどうしましょ」
「そこまでキツいカフェインじゃないよ。もしそうなったら思い込みの問題だから、気にしちゃダメ」
「そう言われると、余計気になりますよ。寝れなくなったら、責任取って話し相手になってください」
「えー。それはやだ」
敦子は笑いながら話を流した。
芽依との付き合いも一ヶ月近くになるが、本音から近い部分で話せているような気がした。出会った当初は、とても考えられなかった。
冷静になり、ふと周りを横目で見ると、恋人の他、友人らしき女性ふたりの姿もいくつかあった。緊張していたのがバカみたいだった。自分達もそのように見られているかもしれないと思った。
「それじゃあ、練習しましょうか」
芽依がプラスチックカップを地面に置き、敦子の顔を覗き込んだ。
「敦子さん、甘えていいですよ? わたしは天使です」
「いや……そうは言われても……」
「天使みたいにって言ったの、敦子さんじゃないですか」
「それはそうだけど……」
芽依の主張は何も間違っていない。だからこそ、敦子は後ろめたさを感じながらも、戸惑った。
担当するタレントの練習に付き合うのは、マネージャーとしての仕事だと思う。それでも、十四歳に甘えるという真似は、流石にできない。
いや、敦子は拒むのをなんとか正当化したい気持ちで――甘えさせる姿が本当に正しいのか、疑問に思った。イメージに近いようで、厳密には違うような気もする。
「恥ずかしいのは、わかります。それじゃあ、こう考えてみてください」
敦子は、芽依が拗ねると思っていた。落ち着いた様子なのが、意外だった。
「お仕事……敦子さん、めちゃくちゃ頑張ってますよね? でも、報われないなら、どうですか?」
妙に現実味のある仮定だと、敦子は感じた。
この仕事に対し、割と努力しているつもりだった。それを他人に主張するつもりは毛頭無いが。
成果が出なければ評価されない社会だと、理解している。営業職では、より顕著だろう。
いくら中野一彩という『中堅』を抱えているとはいえ、芽依がこれから先、奮わなければ――敦子は、悪い可能性を想像した。
「割と真剣にヘコむんじゃないかな」
想像しただけで、気分が落ち込んだ。
今現在、こうして芽依に時間と労力を割いている。彼女が『良くない状況』に立っているのを理解しているうえで、報われて欲しいと願う。
「死にたいぐらいに、ですか?」
「うん……たぶん」
少なくとも、自宅でひとり涙を流すだろう。
かつてそうした際、死にたいとは思わなかった。いや、何もかもがどうでもいいと投げやりになっていて――自覚が無かっただけで、結局のところ命の存続すらどうでもよかったに違いない。
敦子はそう理解し、より憂鬱になった。
「でも――わたしは敦子さんが頑張ってるの、知ってますよ」
ふと、隣に座っている芽依に、敦子は引き寄せられる。
そのまま地面に倒されそうな勢いだった。だが、実際に倒れたその先は――芽依の膝だった。
「ちょ、ちょっと――」
柔らかな感触が顔に伝わり、沈んでいた気分が一瞬どこかに消し飛ぶほど、敦子は困惑した。
取り乱しそうになった。しかし、一応は公然の場であるため、なんとか堪えた。
そんな敦子の頭に、芽依の手がそっと載った。
「敦子さんはお仕事がんばって、偉いですよ」
優しく頭を撫でられ、敦子は芽依を見上げた。
周りからの無機質な光に照らされ、微笑む表情が見えた。
「大変なのに……とっても頑張ってます」
きっと、誰かにこうして肯定されたかったのだと、敦子は思った。
この一ヶ月を、無かったことにしてはいけない。異動した際は転職を考えたほど、本当に辛かった。
今も、まだ慣れない仕事をこうして続けている。結果論としては、順調だ。だが心のどこかでは、今なお辛い部分がある。
気づかないようにしていた。見ない振りをしていた。しかし、芽依によって振り返ざるを得なかった。
「毎日大変なのに……生きてるだけでも、偉いですよ」
十四歳にそう言われたところで、本来であれば響くはずが無かった。たったそれだけの人生経験に、説得力があるはずがない。
だが、芽依は全てを悟りきったような、優しい笑みを浮かべていたのだ。十四年の人生では到底至らない域だ。
敦子は、驚くよりも感動した。
包容力に溢れるそれは、大人びた顔つきからも――天使というより女神だと、敦子は思った。
今なお頭を撫でられ、ただ満たされていた。まだ報われていないにも関わらず、過程を肯定されるだけで心地よかった。
どこか曖昧な空間の中、瞳の奥が熱くなる。この場で涙を溢れさせても構わないだろう。きっと、この女神は受け止めてくれるはずだ。何人たりともを救うはずだ。
敦子は芽依の頬に手を伸ばそうとするが――なんとか抑えた。
「……どうですか?」
芽依から訊ねられる。
何を指しているのか敦子は理解しながら、起き上がった。
「撮影……もしクライアントから指定無いなら、それでいこう。私のイメージにドンピシャ以上。絶対に良い画が撮れるよ」
大きな手応えがあったのは事実だ。練習に付き合って良かったと、敦子は思う。
芝生に座ったまま芽依の手を思わず掴み、力強く頷いた。
あくまでマネージャーだと、敦子は自分に言い聞かせる。ひとりの女性としての本心を、誤魔化したのであった。
最高だったよ、ありがとう――芽依が欲しいであろう台詞を、言えるはずがなかった。
「そうですか……。わたし、ばっちり掴みました」
芽依が微笑む。
一瞬だけ物寂しい表情を浮かべたのを、敦子は見逃さなかった。
後ろめたさはある。意図的に本心を隠して誤魔化すのは、即ち嘘をつくのと変わらない。
そう。大西敦子は美澄芽依と適切な距離を保つため、嘘をついたのであった。
これ以上のめり込んではいけないと、無意識に警戒した。
それでも、敦子は芽依の両手を取った。
この大きな手応えから、ある衝動が込み上げていた。結果的には『代わり』になるが、罪滅ぼしの意図と考える余裕すら無かった。
「ねえ、芽依ちゃん! モデルだけじゃなくて、俳優も目指そう! 芽依ちゃんなら、絶対になれるよ!」
夜空の下、芝生の匂いに包まれながら、敦子は芽依の瞳を真っ直ぐ見つめて提案した。
芽依がこの先もタレントとして生き残るためには、この道しか無いと思った。いや、現在以上に成果を上げられるはずだと、確信に似た予感があった。
「はい……。わたし、俳優になります」
きょとんとした表情の後、芽依は真剣な顔つきで――力強く頷いた。
(第06章『天使』 完)
次回 第07章『フォロワー』
敦子は水澄真依のSNSアカウントを開設する。
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