嘘つきのわたしと、泣き虫のキミ

未田@12.01新連載開始

前編

第01章『嘘つきのわたし』

第01話

 四月一日、火曜日。

 大西敦子おおにしあつこは携帯電話のアラームで、午前七時半に目を覚ました。今日から起床時間と出勤時間が一時間遅くなったが、帰宅時間もそれだけ遅くなるため嬉しくなかった。

 沈んだ気分で朝食を摂ると、洗面台の前に立った。


「はぁ……」


 大きな溜息を漏らす。鏡に映る自分の顔は、両目が腫れていた。昨晩、泣いて寝たのであった。

 普段よりも少し濃い色のアイシャドウで誤魔化すも、違和感は拭え切れない。敦子は仕方なく、コンタクトレンズではなく眼鏡をかけた。髪のセットも面倒になり、汚いブラウンのロングヘアを一つ結びでまとめた。

 そして、数年ぶりにスーツを着ると、六年前の就職活動を思い出した。だが、今はあの頃のようなフレッシュが皆無だ。むしろ――


「転職しようかな……」


 鏡に映る自分に、本心をぽつりと呟いた。

 敦子は支度を済ませると、午前九時過ぎに自宅である賃貸マンションを出た。

 今日から電車ではなくマイカー通勤だが、やはり嬉しくなかった。都心のオフィス街へ向けて、穏やかな晴れ空の下、憂鬱な気分で自動車を走らせた。


 午前九時半、とあるオフィスビルに到着した。地下駐車場の、指定された場所に車を置いた。

 二十二階建ての三階と四階に、敦子の勤め先である『株式会社ペタルーン』が入っている。敦子はエレベーターで――昨日までは三階だったが、今日は四階のボタンを押した。

 死にたいほどの憂鬱な気分だった。しかし敦子はひとりきりのエレベーター内で、強引に切り替えた。そして、昨日新たに受け取った社員証を首にかけた。

 笑顔を浮かべ、四階の一室に入った。


「おはようございます! 本日から、お世話になります!」


 敦子は可能な限り、明るく挨拶をした。

 部屋オフィスには既に三人の社員が居た。ふたりが敦子に会釈し、ひとりが立ち上がった。


「大西さん、おはよう。うんうん……いい感じじゃん。今日からよろしく」


 営業部のチーフ、辰巳悠たつみはるかが笑顔で挨拶をした。

 アッシュグレーの前髪無しショートヘアの彼女と、敦子はこれまで面識が無かったわけではない。彼女が三十四歳独身であることを、知っている。

 そう。敦子は昨日まで総務部の人間として、営業部の悠と関わることがあったのだ。

 そして今日からは、悠が敦子の上司になる。

 敦子は悠に対し、特に悪い印象を持っていない。どちらかというと、役職相応に仕事ができるのだと、尊敬の念があった。

 だからこそ、この仕事への本音が――なんだか申し訳なかった。


「はい! 頑張ります!」


 反射的に、本音と正反対のことを口にする。敦子に嘘をついている自覚は無い。相槌を打つような感覚だった。


異動してきてきて早々なんだけど、今日は大西さんが担当する子の撮影があってね……。紹介するよ」


 敦子は自分の席へ案内されるより先に、ファイルを持った悠にオフィスの外へ連れ出された。

 社名である『Petalune』は『petal花びら』と『lune』を合わせた造語だ。『花びらのように可愛い女性から、月のように艷やかな女性まで』の意味が込められている。

 この会社は、女性タレントを『商品』として扱っている芸能事務所だ。所属タレントを含め、従業員は約六十名。本社はこの国の首都にあり、ここは約二十名が所属する西部の事業所となる。


「いやー。それにしても、助かったよ。大西さんマイカー持ってるし、子供の扱いにも慣れてるし……むしろ、なんで今まで営業に居なかったんだろうね」


 廊下を歩きながら、営業部に引き抜いた理由を悠が話した。

 敦子は二週間前の内示でも、同じ内容を聞いている。

 たったそれだけの理由なのかと、今も到底納得できない。特に後者は、大学生だった頃を指している。あのアルバイトは、確かに子供と接する機会が多かった。だが、保育に特化したものでもなければ、その手の資格を所持していない。


「ど、どうしてでしょうね……」


 とはいえ、言ったところで相手を不快にさせるだけだ。敦子は胸内に隠し、苦笑した。


「それに、女性だからウチの『商品』と『間違い』も起きないしねー」


 三年前まで、同性と交際していましたけど――悠の軽い口調にすかさず言葉を挟みたいところだが、いくつかの意味で大問題になるため、言えるはずがなかった。

 この時、敦子は悠の冗談じみた危惧を聞き流していた。『商品』の年齢からその可能性は絶対に無いと、気にも留めなかった。


 敦子が悠に連れられた先は、会議室のひとつだった。

 この中に、自分が担当する『商品』が居る。そう思っても、内心では憂鬱からどこか投げやりになっているため、敦子は特に緊張しなかった。

 ノックも無しに、悠が扉を開けた。

 テーブルを挟んで椅子三つずつが対面で置かれているだけの狭い会議室には、ひとりの女性が居た。扉が開くと同時、すぐに立ち上がった。長い黒髪が揺れた。

 その動作を、敦子は礼儀正しいと感じるも――それ以上に、背の高さに驚いた。自分が百五十センチに対し、十センチ以上は大きい。


「おはようございます!」

芽依めいちゃん、おはよう。調子はどう?」

「ばっちりです! 今日もお仕事、頑張ります!」


 笑顔で悠に頷く様はとても明るい。

 白のフリルブラウスと淡いベージュのプリーツスカートという格好からも、敦子は清楚で落ち着いた印象を受けた。

 いや、誰が見ても間違いなく好印象を受けるだろうと思った。それほどまでに強烈だ。普段接することのあるサービス業の店員とは、明らかに何かが違う。

 整った顔つき、柔らかな笑顔、自然な素振り――そして少女と呼べる若い雰囲気があるからこそ成せるのだと、理解した。


「いいねー、いいねー。それでなんだけど……こちら、白石しらいしさんの後任の、大西さん」


 悠から紹介され、敦子はようやく緊張した。無意識に背筋が伸びた。

 胸の鼓動が早くなるのを感じながら、正面の女性を見上げた。微笑む彼女と目が合うが、逸らさなかった。


「今日からミスミさんのマネージャーになる、大西です! よろしくお願いします!」


 挨拶の後、まるで社外の人間に対するかのように深々と頭を下げた。

 だが敦子は女性に顔を覗き込まれ、そして両手を取られた。引っ張られるように、顔を上げる。


「わたしの方こそ、よろしくお願いします! 大西さん」


 満面の笑みに、敦子は頭が少しクラクラとした。

 数年前からファッションモデル『水澄真依みすみまい』として活動しているこの少女の本名は、美澄芽依みすみめい。敦子が担当するふたりのタレントのひとりだと、事前に聞かされていた。

 同じ社員として、敦子は芽依の存在を知らなかったわけではない。最後に所内で見かけたのが何年前なのか、思い出せないが――芽依に対し『子供』や『小さい』といった印象を持っていた。活動成果を目にする機会も無かった。

 だから、いつの間にかこれほど大きくなっていることに、とても驚いた。情報では、十四歳のはずだ。しかし、身長と垢抜けた雰囲気から、少なくとも高校生には見えた。大学生だと言われても、疑わないだろう。

 いや、モデルとして賃金が発生するのだから、身体や雰囲気等の外観に優れているのは当然だと、敦子は思った。これが自分の扱う『商品』なのだ。


「それじゃあ、早速なんだけど撮影現場げんばに行って貰えるかな?」


 悠の持つファイルを、敦子は手渡された。中には今回の撮影に関する書類の他、社用の携帯電話が入っていた。


「本当は、最初は私も同行するべきなんだけど……。いやー、ごめんね。今日めっちゃ忙しくて、誰も付けられないんだー」

「え?」


 あははと冗談のように笑う悠に、敦子は血の気が引くのを感じた。

 営業という社外で顧客と折衝する業務は、しばらく現場教育OJTがあるものだと思っていた。だが、最初からひとりで行かされるようだ。

 怖い――もし何か失敗があれば、自分だけではなく事務所を巻き込む恐れがある。何が失礼にあたるのか、常識の範囲でしかわからない。

 敦子は強い不安に襲われるが、悠から「名刺持ってるよね?」の問いに、こくりと頷いた。異動前、総務部で手配した新しい名刺を所持している。

 ただでさえ営業の仕事に抵抗があったため、敦子は今、泣き出したい気分だった。それでも表向きかおは、引きつりながらも笑みを浮かべていた。


「大丈夫ですよ! わたしが一緒ですから!」


 再び、芽依から両手を握られる。

 敦子は見上げると、自信に満ちた芽依の表情が――子供でありながら、たくましく見えた。


「そうそう。先方と芽依ちゃんのお付き合い、長いからねー。こう言っちゃ何だけど……今日のところは、挨拶と送り迎えだけでいいから」

「は、はぁ……」


 ふたりからそのように言われると、敦子は幾分和らいだ。マネジメントするはずの対象に先導されるのは、なんとも情けないが。

 それでも、他者や事務所に迷惑をかけることだけは、避けなければならない。キリキリと胃が痛むのを、我慢した。


「わかりました。行ってきます」


 敦子は悠に頷いた後、芽依に目をやった。

 芽依の表情が、より一層明るくなったように見えた。芽依は椅子から、ノーカラーコートと鞄を取った。


「現場に着いた時と帰る時は、連絡してねー」

「はい! 行ってきます!」


 芽依が代わりに返事をして、敦子の腕に抱きついた。

 敦子はドキッとする一方で、子供らしい行動だと感じた。

 とはいえ、明るく礼儀正しく、そしてしっかりしたところから、芽依の第一印象は非のつけどころが無かった。完璧と言ってもいいだろう。

 そう。『商品』としては扱いやすいに違いない。その意味では、営業という仕事において、とても安心した。

 それが勝っていたからこそ、この時はまだ――完璧が故の違和感に気づかなかった。

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