常若比売の天降り婚

根占 桐守

プロローグ

万枝 常若

 熱い液体が、血みどろ少女の横っ面を叩くようにぶちまけられる。ぱりん、と音を立てて、少女が頭から被った茶が入っていた湯呑は、少女の足元で粉々に砕けた。このお茶は、もうすぐ少女を訪ねて来るという「国のお偉い様たち」とやらに、出される予定のものだったはず。


 少女の管理者である屋敷人たちが、少女を見ることなく、淡々と少女を責める。


「よりにもよって、邦神治安総局ほうじんちあんそうきょくのおかみの方々が訪問されるこの日に……なにゆえ、勝手に〈箱〉から出られたのですか。あなたがこの〈箱〉から許可なく出ることは、国から許されておりませぬ」


〈箱〉とは、少女の背後にある、四面に分厚い御簾みすが垂れ下がった、箱状のおりの如きかごを指している。少女は幼き時より、この〈箱〉から許可なく出ることを禁じられていた。


 それにもかかわらず、今日の少女は生まれて初めて、その禁を破って外に出た。そのために、少女は屋敷人たちに熱い茶を何度もかけられ、湯呑を目の前で幾つも叩き割られて、責められ続けている。


 少女が生まれて初めて禁を破ったのには、理由があった。ゆえに少女は、それを事務的に報告しようと小さな口を開く。


「ここ一年。ずっと、又隣の山界さんかいで膨張している〈神遺かむい〉の気配がいくつかあった。そこから人間の子ども、二人分の泣き声がいつも聞こえていた。救いを求めていた。〈神遺かむい〉の鎮魂ちんこんわたしの務め。助けを求めるか弱い人間を救うことも、わたしの務め。禁を破ろうとも、神の務めは果たさねばならない。だからわたしは、箱を出た。報告は以上」


 そこまで言い終えた瞬間、また熱い茶を屋敷人からぶちまけられた。少女の前髪から熱い雫と冷めた雫がしたたり、それらが傷塗れの白い頬を伝って血と混じると、幾筋も滑り落ちてゆく。もう慣れ切った折檻せっかんに、少女は眉一つ動かすことはない。


「その『わたし』という呼称はおやめください。何度申し上げればよいのですか。あなたは山神やまがみ御方々おんかたがたに、女であることを知られてはならない。ゆえに、『僕』とお名乗りくださいませ。あなたは男です。よろしいですね?」

「ああ、恐ろしや、恐ろしや……今のが山神の御方々の耳に入っていなければよいが」

「女の祟り神でありながら、禁まで破るとは……なんと嘆かわしい。なんと忌々しい。なんとおぞましい……次に禁を破ることがあれば、我々はあなた様の所為で死ぬこととなるでしょう」

「う、ううう……うあああ、あ……」


 屋敷人たちが正気を失ったような焦点の合わない目を漂わせ、口々に唾を飛ばして悲鳴を叫ぶ。

 少女は男だ、少女は女の祟り神だ、と。言う事は矛盾していたり、支離滅裂だったりしている。しかし、少女は屋敷人たちの罵りを素直に全て受け止めて、小さく頷いて見せた。


「わかっている。が悪かった。もう、箱からは出ない」


 少女が温度を感じさせない声色でそう告げると、屋敷人たちが〈箱〉の御簾を上げた。一刻も早く、少女に〈箱〉の中へと戻って欲しいのだろう。屋敷人たちは誰も少女を視界に入れることはなく、「恐ろしや、恐ろしや……」とぶつぶつ震えている。少女は箱の中に入ると、四方を御簾に囲われたその中央で、静かに腰を下ろして正座した。


 屋敷人たちが御簾の向こうで整列するように並び、畳に額を擦り付けて少女に首を垂れる。


「それでは、〈呪いの客神まれびと〉様……本日は一日中、勉学をせよと国より仰せつかっております。禁を破られたあなた様は今一度、この日本の成り立ち、そして御身おんみの立場をわきまえていただかなければとのことです」


 屋敷人たちが声を揃えて、少女に迫る。


「いざ、〈呪いの客神まれびと〉様——客神十二柱まれびとじゅうにはしらの神話を、復唱なさりませ。御身が二度と禁を破らぬように」


 屋敷人たちにそう脅迫されて、少女は目を伏せながら口を開いた。




 日本には、八百万やおよろずの神々がおわす。

 八百万やおよろずの神の御方々おんかたがたは、非常に気まぐれであった。

 ゆえに日本全土は、気まぐれな神々の魂の残滓が引き起こす巨大な災害現象——「神遺かむい」が降り注ぐことが、いにしえより日常と成っている。

 しかし、気まぐれな八百万の神の中でも、人と近しく在る神々がいた。


 それが、山神である。


 日本人は国土の八割を占める「山界さんかい」という神々が息づく無数の山世界と共に在った。太古より山を崇め奉り、山を守り、山と共に生きてきた。

 山の神々は豊かで、女を嫌う激しい気性でもあるが、人の子に関心がある珍しき神々であった。

 そして唯一、人々の意思が通じる稀な神であった。

 ゆえに人々は、山神を通して気まぐれな八百万の神々を祀るためにも、より一層山神を貴んだ。

 それに山神も応え、人の子らが他の八百万の神々から受ける「神遺」を転じて祝福と成すため。山神は己の化身ともいえる現人神を人界に遣わす。


 火炎、灰、呪い、獣、蟲、狩猟、水、雪、風、大地、金鉄、気。


 これら十二の山を司る異能を授かりし、神々の末席に連なる現人神たち——彼らは〈客神十二柱まれびとじゅうにはしら〉と呼ばれていた。




 幼き頃から数え切れぬほど復唱させられた神話を唱えた、少女——〈客神十二柱〉が一柱、〈呪いの異能〉を司る客神たる「万枝よろずえ 常若とこわか」は、伏せていた銀色のを、ゆるりと上げた。

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