明治怪異譚〜薬師の花嫁〜

野生のイエネコ

第1話

 桜散る夕暮れの帰り道、私の運命は一変した。


 風呂敷に包んだ針箱を抱え、裁縫の師匠宅から戻る途中のことであった。ガス灯がぽつりぽつりと灯り始めた宵闇の中、突然、男性の叫び声が春の静寂を破った。


「待て! お梅! 今度こそ逃しはしない……!」


 振り返ると、袴姿に洋風の外套を羽織った男が、息せき切って何かを追いかけている。歳のころは二十五、六であろうか。まるで西洋の絵画から飛び出してきたような端正な顔立ちは、しかしその美貌に似合わなぬ壮絶な表情を浮かべている。瞳に深い憂いと、憎悪とも呼ぶべき激情が宿っていた。

 右手には小さな小瓶を握りしめ、何かに狙いを定めるように振りかぶっている。


 男の目線の先には、白い霞のような影が宙を蠢いていた。

 

「くく……お前様に捕まるようなわっちではございませんよ。ああ、ちょうどいいところに年頃の娘が……わっちの器となるにちょうど良い」


 白い霞から、なぜか嫋やかな女の声が聞こえてきた。ふわり、ふわりと白い影が私の元へと近づいてくる。桜が舞うように華麗ながら、獲物を狙う蛇のように俊敏な動き。なぜか私はその場に釘でも打たれたかのように動けなくなった。


「今度こそお前を仕留めてみせる!」


 男は私のことが目に入っていない様子で、小さな小瓶を白い影に向かって投擲した。しかし、一足早く白い影は私へと吸い込まれていき、小瓶から飛び散る液体が私の頭にかかる。ひんやりとした雫の感触が頬を伝うのを、どこか遠くの出来事のように感じていた。


『ああ、これでこの娘は私のもの』


 ゾッとするほど美しい、鈴を転がしたような声音が、やけに冷たく頭の中に響いた。体の中に、氷のように冷たい何かが流れ込んでくる。苦痛、絶望、男たちの哄笑。檻の中から見る、遊郭の明かり——。

 

 ぽたりぽたりと雫を滴らせながら、私は焦った顔で走り寄ってくる男を視界の端に収めつつ、意識を失った。


 ◆


「ああ、お目覚めですか」

「あなた、は……」


 ゆっくりと瞼を開くと、そこは見知らぬ家屋の畳の上。意識を失う前に見かけた、袴姿の男が私を膝の上に寝かせて顔を覗き込んでいた。

 間近で見る横顔は、まるで能面のように美しく整っている。鼻筋の通った端正な顔立ち、切れ長の瞳、薄い唇——どれをとっても非の打ち所がない。けれど、そこまで考えて私の意識は一気に覚醒した。

 よく知りもしない男の家で、なぜ寝かされているのか。


「きゃ、ふ、不審者!?」


 私が慌てて飛び起きると、男は顔を顰めて「失礼な」と言った。


「あなたが気絶をしたから、休めるところまで連れてきただけです。帰りが遅くてお家の方も心配しているでしょうが、事情があってあなたをこのまま帰すわけにはいきません」

「ど、どういうことですか?」


 男は袂から小さな小瓶を取り出した。その小瓶は、私が気絶する直前に投げつけられたものとよく似ている。中には薄緑色の液体が入っていて、洋燈ランプの光を反射している。


「私は薬師寺京介。退魔の薬酒屋、神々に薬酒を捧げ、また悪しき霊には薬酒で封印する。そのような役目を代々仰せつかっている薬師寺家の者です。」

「薬師寺家……」


 薬師寺家といえば、薬酒の販売で有名な名家だ。まさかあやかし祓いのようなことまでやっているとは知らなかったが、気を失う前の記憶がその話を真実だと思わせる。


「あなたには封印の薬酒が誤ってかかってしまった。悪しき霊があなたの身体には封印されている。このまま家に帰すのは、危険すぎる」

「なっ、そんな……、それじゃあどうしたら……」


 私は戸惑い、言葉を失う。京介と名乗ったその男は、仕方なさそうに溜め息を深く吐きつつ、唐突にこういった。


「封印が解け、怨霊を祓えるまで、この家で暮らしていただくしかないでしょう」

「この家で? そのようなこと、父様と母様が許すとは思えません」


 私の家、高山家は、没落した古い士族。今でこそ借金もあり貧乏暮らしだけれど、血筋だけは尊い家系だ。その分、両親も矜持が高く、他所のお家で男性とともに暮らすなど、許すはずもない。


「ですが、あの怨霊は危険です。かつて人を取り殺したこともある、強力な悪霊です」

「そんな……」

「ですから、契約結婚しましょう」


 京介さんは私に諭すように説明すると、突然そんなことを言い出した。


「契約……結婚……?」


 ちかり、ちかりと洋燈の明かりが点滅する。私の動揺を反映するように、襖に映る影が揺らめいた。


「怨霊を祓うまでの契約として結婚し、この家で暮らしてもらいます。あなたには誤って封印の薬酒をかけてしまうという危害を加えてしまいましたから、その分の補償もしますし、生活の面倒も私が見ましょう。ですから、どうかこの話を受けてください。お梅……、あなたに取り憑いた悪霊ですが、お梅だけは逃すわけにはいかないのです」


 混乱しつつも、私は『補償』というその言葉に気が惹かれていた。家計は借金で火の車だ。この話を持って帰れば、父と母は一も二もなく頷くはずである。

 それに、結婚もせずに男の家に逗留するなど、外聞も悪い。悪霊に取り憑かれてしまった以上、私に取れる選択肢はないに等しかった。

 でも、結婚とは——。


「女中として奉公するような形では駄目なのでしょうか?」

「我が薬師寺家の秘密にも拘るため、詳しいことは言えませんが、血の契りを交わした妻でなければ十全な加護を受けられぬのです。それにお梅は付け火をする怨霊。もしあなたの体が乗っ取られれば、付け火を行う恐れがある。そうならぬよう、封印を強めねば」


 私が戸惑っていると、言いにくそうに京介さんは説明した。付け火とは……恐ろしい。そのような真似をして、自分が何人も人を殺めることになったらと思うと、是も否もなかった。

 

「分かりました……でも、まずは家に帰らせてください。両親が心配しているでしょうから」

 

 京介さんは一瞬躊躇したような表情を見せたが、やがて頷いた。


「確かに、そうですね。では、ご一緒させていただきます。ご両親にも事情をお話しする必要がありますから」

「事情と言いましても……まさか怨霊のことを」

「ええ、本当のことを」


 私は驚いて京介さんを見詰めた。


「信じてもらえるでしょうか?」

「信じていただきます。薬師寺家には、それなりの方法がありますから」


 京介さんの瞳に、一瞬鋭い光が宿った。

 

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