第九章:星の海の漂流者
探査艇「亀」は、生まれ故郷の海の重い水圧から、ゆっくりと解き放たれていった。深度一万二千メートルから始まった浮上は、乙姫にとって、過去との決別の儀式のようだった。青白い光に満ちた竜宮の街並みが、やがて深海の闇に溶けていく。さようなら、私の完璧で、孤独な王国。
やがて船体は、彼女の母星の広大な海面に、音もなく躍り出た。
ハッチを開けずとも、壁面のスクリーンが外部の光景を映し出す。空には、巨大な赤い恒星と、小さな白い恒星が、奇妙なバランスで浮かんでいた。双子の太陽が照らす、永遠の黄昏。それが、彼女が捨て去る故郷の空の色だった。
「亀」は大気を突き抜け、絶対的な静寂の宇宙空間へと至る。母なる惑星が、ゆっくりと、しかし確実に小さくなっていく。乙姫は、その光景を、ただ黙って見つめていた。もう、涙は出なかった。
恒星間航行は、孤独な旅だった。
狭い船内には、機械の低い唸りと、自分の呼吸の音だけが響く。かつて、この同じ空間で、タロウが歓声を上げていたことが、遠い昔の夢物語のようだ。
「カメ」
彼女が、かつてタロウが名付けた愛称で呼ぶと、AIは即座に応答した。
『はい、女王陛下。ご命令を』
その声は、タロウと話していた時の、あの過剰に明るい「接待モード」ではなく、平坦で、事務的なデフォルトのものに戻っていた。
「……以前の乗員、ウラシマ・タロウの、音声記録を再生して」
『承知いたしました。どの記録を再生しますか?』
「……すべて」
次の瞬間、船内に、あの懐かしい声が響き渡った。
『ひゃー、すっげえな! やっぱり海の底じゃねえか!』
『なあ、カメ、ありゃなんだ? コンブみてえなのがユラユラしてらあ』
乙姫は、目を閉じた。壁一面のスクリーンには、彼が「コンブ」と呼んだオリオン大星雲が、壮大な光を放っている。その景色と、彼の無邪気な声が重なり合い、彼女の胸を締め付ける。この孤独な宇宙で、彼の声だけが、彼女の唯一の同伴者だった。
旅は、順調ではなかった。
この旧式の「亀」は、本来、母船「時渡り船」からの支援を前提とした、短距離探査艇だ。単独での恒星間航行は、無謀そのものだった。
最初に異常をきたしたのは、物質合成機だった。
『警告。栄養素ペーストの生成効率が12%低下。一部の必須アミノ酸の合成に失敗しています』
次に、船内の生命維持装置が、不規則な唸りを上げるようになった。
そして、太陽系が間近に迫った頃、ついに、致命的な警告が鳴り響いた。
『緊急警報。緊急警報。主動力伝達系にカスケード障害を検出。船体フレームへのエネルギー供給が不安定です。警告します。このままでは、大気圏突入時の高熱と衝撃に、船体は耐えられません』
コンソールの画面には、船体の模式図が映し出され、その半分以上が、危険を示す赤色で点滅していた。イソラが算出した「73.4%」という故障確率が、今や現実のものとなっていた。
だが、乙姫の瞳には、迷いはなかった。
スクリーンの向こうに、青く輝く、小さな、小さな惑星が見えている。
地球。
タロウが生まれ、そして消えていった場所。彼女の、千三百年の旅の、ただ一つの目的地。
『女王陛下。これ以上の航行は、論理的に不可能です。生存確率は、現在、1%未満』
AIが、最後の警告を発する。
乙姫は、震える手で、操縦桿を握った。
「カメ。残りの全エネルギーを、船体の物理障壁と、前面の断熱フィールドに集中させなさい」
『無謀です! そんなことをすれば、他の全システムが停止し、二度と再起動できなくなります!』
「構いません」
彼女は、手動で安全リミッターを解除した。赤い警告表示が、狂ったように点滅する。
「1%は、ゼロではないのでしょう?」
その声は、女王ではなく、ただ愛する人の最期を見届けたいと願う、一人の女性のものだった。
『……最終コマンド、承認。女王陛下に、幸運を』
AIの静かな声と共に、「亀」は最後のエネルギーを振り絞り、燃え盛る火の玉となって、地球の大気圏へとその身を投じた。
西暦1803年、日本の夜空を、一つの巨大な「流れ星」が、引き裂くように落ちていった。
それは、誰の願いも叶えることのない、あまりにも悲しい、鎮魂の光だった。
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