銀の糸、時の涯て
めろいす(Meroisu)
第一部:竜宮 ~完璧な世界の囚人~ 第一章:静寂の女王
深度一万二千メートル。
その惑星は、地表の九割以上が一つの広大な海に覆われていた。そして、最も重い水圧がかかるその海の底に、都市はあった。名を「竜宮」。かつて星々の海を渡り、争いと無秩序の果てに安息を求めた古代の民が、永遠の平和を誓って築き上げた、自己完結型の海底都市国家。
ここでは、太陽は概念でしかない。都市を照らすのは、遺伝子操作によって最適化されたバイオ発光サンゴの青白い光。大通りを滑るように進む無音のビークル。そして、女王の庭園に咲き誇るホログラムの桜は、プログラムされた通りに完璧な花びらを揺らし、決して散ることはなかった。
死も、飢えも、病もない。あるのは、数万年かけて最適化された、完全なる調和。
そして、完全なるがゆえの、底なしの静寂。
乙姫は、その静寂のただ中で、玉座に座っていた。
彼女はこの完璧な世界の女王であり、そして、ただ一人の囚人だった。
「ワダツミ」
彼女の静かな呼びかけに、玉座の空間そのものが微かに振動して応える。声はない。都市管理AI「ワダツミ」の意思は、光のパターンと情報流として、乙姫の脳に直接届けられる。
《肯定。女王陛下。ご命令を》
「教えて。完璧とは、美しいものかしら」
乙姫の問いは、詩的で、曖昧で、答えのないものだった。彼女は、ワダツミがそれを理解できないと知っていて、敢えて問いかける。それが、この完璧な世界で彼女に許された、唯一の気まぐれだったからだ。
《定義によります。工学的観点において『完璧』とは、誤差・欠損・無駄がゼロの状態を指し、それは最も効率的で安定した状態、すなわち『機能美』の極致と定義可能です》
「そう。機能美…」
乙姫は、ガラスドームの向こうで揺れるホログラムの桜に目をやった。一片の狂いもなく、永遠に舞い続ける光の粒子。美しい。だが、心が揺さぶられることはない。かつて、竜宮のライブラリ「アカシャ」で見た、惑星「地球」の「春」という季節の記録。風に吹かれて不規則に舞い、やがては地面に落ちて朽ちていく、あの不完全な桜吹雪の映像の方が、なぜか彼女の心を締め付けた。
「私の民は、幸せかしら」
《肯定。全市民のバイタル、ストレスレベル、欲求充足率は、常に最適値に維持されています。飢えも争いもなく、定められた生を全うする。これ以上の『幸福』の定義は、現在までのシミュレーションではじき出されていません》
乙姫はそっと目を伏せた。
そうなのだ。ここは、幸福ですらシステムによって管理されている。喜びも、悲しみも、愛憎さえも、かつて彼らの祖先が捨て去った「バグ」でしかない。感情の起伏という非効率なエネルギーの浪費をなくし、民は永遠の平穏を手に入れた。
そして女王である彼女だけが、古代の遺伝子情報を保持する「オリジナル」として、その胸に消せない孤独を抱き続けている。
民は彼女を敬うが、愛しはしない。
彼女は民を慈しむが、心を通わせることはない。
永遠に続く、完璧な孤独。
それが、女王乙姫に与えられた宿命だった。
その時だった。
玉座の間に、数百年ぶりに、穏やかならぬ警報が響いた。それは、けたたましい音ではない。ただ、都市の照明であるサンゴの光が、一斉に警告を示す赤色へと、静かに、しかし有無を言わさぬ力強さで脈動を始めたのだ。
ワダツミからの情報が、奔流となって乙姫の脳に流れ込む。
《緊急報告。地表探査ドローン『亀』ユニット7より、カテゴリー・イレギュラーのシグナルを検知》
《観測対象惑星『地球』、太平洋、日本列島沖にて、予期せぬ生体反応に接近・接触》
《対象の生命活動は活発。しかし、嵐により極度の危険状態にあり》
《深海律第百八条『知的生命体の保護と観察』に基づき、ドローンの裁量により、対象の一次保護を決定》
《対象は、現在、当竜宮へ移送中です》
乙姫は、思わず玉座から立ち上がっていた。
数万年の静寂。完璧で、退屈で、予測可能な未来しか存在しなかった彼女の世界に、初めて観測不能な「ノイズ」が紛れ込もうとしていた。
それは、嵐の海で溺れかけた、一人の人間の男だった。
彼の名は、浦島太郎。
この出会いが、完璧な世界を内側から崩壊させ、時空を超えた壮大な悲劇の始まりとなることを、まだ誰も知らなかった。
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