第5話「迷子の精霊と、癒しの一杯」
開店初日。
朝から張り切って準備をしたアサギは、カウンターの前で落ち着かない様子でうろうろしていた。
「もう昼近いのに……」
扉の向こうを何度も確認する。でも、森の小道には誰の姿もない。鳥のさえずりと、風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。
「お客様、来ないわね……」
肩を落とすアサギ。焼きたてだったスコーンも、もう冷めかけている。
「大丈夫だよ、アサギ! きっと来るよ!」
フィーが肩の上で励ましてくれるが、不安は募るばかり。
「やっぱり、こんな森の奥じゃ無理なのかしら」
王都から遠く離れた森の中。人通りなんてほとんどないだろう。精霊たちだって、人間の店には警戒するかもしれない。
「看板、もっと大きくした方がいいかしら」
外に出て看板を確認する。『遺跡カフェ、本日開店』の文字は、はっきり読める。でも、誰も通らなければ意味がない。
とぼとぼと店内に戻ろうとした、その時——。
「ひっく……ひっく……」
小さなすすり泣きが聞こえてきた。
「え?」
声のする方を見ると、森の茂みから小さな緑色の光がふらふらと出てきた。よく見ると、それは子供の姿をした風の精霊。半透明の小さな羽が、力なく垂れ下がっている。
「どうしたの? 大丈夫?」
アサギが優しく声をかけると、精霊の子供はびくっと身を震わせた。大きな瞳から、真珠のような涙がぽろぽろとこぼれている。
「にんげん……? こわい……」
「怖くないわ。私はアサギ。ここでカフェをやっているの」
できるだけ優しい声で話しかけながら、ゆっくりとしゃがんで目線を合わせる。
「泣かないで。何があったの?」
精霊の子供は、しゃくりあげながら話し始めた。
「おかあさんと……はぐれちゃった……」
「まあ、それは心配ね」
小さな手で涙を拭う姿が、痛々しい。
「朝の……お散歩で……きれいな蝶々を……追いかけてたら……」
話を聞くと、朝の散歩中に青い蝶を追いかけて、気がついたら一人になっていたらしい。
「大丈夫よ。一緒にお母さんを探しましょう。でもその前に、少し休んでいかない?」
精霊の子供は不安そうにアサギを見上げる。
「ほら、温かいお茶でも飲んで、元気を出しましょう」
手を差し出すと、精霊は恐る恐るその手を取った。小さくて、ひんやりとした手。
店内に入ると、フィーが心配そうに近づいてきた。
「わあ、風の精霊の子だ! 大丈夫?」
「……うん」
精霊の子供は、同じ精霊のフィーを見て少し安心したようだった。
「君の名前は?」とフィーが聞く。
「……ソラ」
「ソラちゃんね! ボクはフィー! よろしく〜」
アサギは、ソラのために特別な紅茶を用意することにした。子供には、優しくて甘い味がいいだろう。
お湯を沸かし、茶葉は少なめに。そして、ミルクをたっぷりと入れる。はちみつも加えて、甘くまろやかに。
「はい、どうぞ。ミルクティーよ。ゆっくり飲んでね」
小さなカップを、ソラの前に置く。湯気が立ち上り、甘い香りが広がる。
ソラは恐る恐るカップを両手で持つ。湯気が顔にかかって、ほんのり頬が赤らむ。
一口飲むと——。
「……!」
大きな瞳が、さらに大きく開かれた。
「あったかい……」
新しい涙が、頬を伝う。でも今度は、悲しい涙じゃない。
「おいしい……おかあさんの……抱っこみたい……」
その言葉に、アサギの胸がきゅっと締め付けられる。自分も幼い頃、母親の温もりを求めて泣いたことがあった。
「よかった。もう少し飲んで、元気を出してね」
ソラは小さく頷き、両手でカップを大事そうに持ちながら、ミルクティーを飲み続ける。一口飲むごとに、表情が和らいでいく。
「おねえちゃん、これ、なあに?」
少し元気を取り戻したソラが、テーブルの上のスコーンを指さす。
「手作りのスコーンよ。食べてみる?」
「いいの?」
「もちろん。お腹も空いているでしょう?」
小さくちぎって、はちみつをたっぷりかけて差し出す。ソラは恐る恐る口に運んだ。
もぐもぐ。
「! おいしい!」
頬がほころび、初めて笑顔を見せた。涙の跡が残る顔に浮かんだ笑顔は、まるで雨上がりの虹のよう。
「おねえちゃん、これ、作ったの?」
「ええ、今朝焼いたのよ」
「すごーい! おかあさんも、たまにお菓子作るけど、これもおいしい!」
無邪気に頬張る姿を見て、アサギもフィーも自然と笑顔になる。
「ソラちゃん、朝から何も食べてなかったの?」
「うん……迷子になってから、ずっと……」
かわいそうに。どれだけ不安だったことだろう。
ソラがお茶とスコーンを食べ終わる頃には、すっかり元気を取り戻していた。泣き腫らした目も、もう乾いている。
「おねえちゃん、ありがとう! 元気出た!」
「よかった。じゃあ、お母さんを探しに行きましょうか」
「うん!」
三人で森に出る。アサギは大きな声で呼びかけた。
「ソラちゃんのお母さーん! ソラちゃんはここですよー!」
フィーは上空を飛び回り、風の精霊を探す。ソラも一生懸命声を上げる。
「おかあさーん! ここだよー!」
しばらく探し回っていると——。
「ソラ! ソラ!」
必死の呼び声が、風に乗って聞こえてきた。
「おかあさん!」
ソラが声の方へ飛んでいく。追いかけると、そこには大人の風の精霊がいた。ソラとよく似た緑色の髪に、同じような透明な羽。でも、その顔は心配で青ざめている。
「ソラ! よかった、無事で……」
「おかあさん!」
母子は空中で抱き合い、お互いの無事を確かめ合う。母親は何度も何度もソラを抱きしめ、ソラも母親にしがみついて離れない。
その姿を見て、アサギの目にも涙が浮かんだ。自分にも、こんな風に抱きしめてくれる母がいた。もう会えないけれど……。
しばらくして落ち着いた母親は、アサギに向き直った。
「あなたが、この子を助けてくださったんですね」
「いいえ、当然のことをしたまでです」
母親は深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございます。まさか人間の方が、精霊の子供に優しくしてくださるなんて……」
「人間が、精霊に?」
その言葉に、何か深い事情がありそうだった。
「ええ、最近は人間と精霊の間に、色々と……でも、あなたは違うのですね」
母親はソラに聞いた。
「ソラ、この人間の方に何かしてもらったの?」
「うん! あったかいお茶と、おいしいお菓子! それで元気になったの!」
ソラが嬉しそうに報告する。母親は驚いたような顔をした。
「人間が作ったお茶を……? それで元気に……?」
「とっても美味しかったよ! おかあさんの抱っこみたいに、あったかかった!」
母親の表情が、驚きから感動へと変わっていく。
「そんな……人の心が込もった飲み物を、久しぶりに……」
アサギは静かに言った。
「私は、ここで小さなカフェを始めたばかりなんです。まだ不慣れですけど、心を込めて紅茶を淹れています」
「カフェ……」
母親はアサギの顔をじっと見つめた。そして、何かを感じ取ったように頷く。
「あなたには、優しい心がある。それが、お茶にも現れているのですね」
そう言って、母親はアサギの手を取った。すると、緑色の優しい光が、アサギを包み込む。
「これは、風の加護。あなたに幸運が訪れますように。そして……」
光が収まると、アサギの周りを心地よい風が吹き抜けていく。
「風があなたの味方になります。困った時は、風に助けを求めてください」
「まあ……ありがとうございます」
アサギは恐縮しながらも、温かい気持ちでいっぱいになった。
ソラが母親の袖を引っ張る。
「ねえ、おかあさん。また来てもいい? おねえちゃんのお茶、また飲みたい!」
母親は優しく微笑んだ。
「そうね。今度は迷子にならないように、一緒に来ましょう」
「やった〜!」
ソラがぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「でも、お代を払わせてください」と母親が言う。
「いえいえ、今日は困っていたソラちゃんを助けただけですから」
「それでも、これは精霊の誇りです。あなたのお茶は、確かに価値のあるもの。それに見合った対価を払うのが、正しいお付き合いというものです」
母親の真摯な眼差しに、アサギも頷いた。確かに、施しではなく対等な関係の方が、長く続くだろう。
「分かりました。では、次回はお客様として」
「ええ、楽しみにしています」
母親はもう一度深く頭を下げた。
「あなたのお茶は、心も温めてくれる。そんな場所が、この森にできたことを嬉しく思います」
親子は手を繋いで、森の奥へと帰っていく。ソラは何度も振り返って手を振った。
「バイバイ〜! また来るね〜!」
「ええ、待ってるわ!」
アサギとフィーも、見えなくなるまで手を振り続けた。
カフェに戻ると、不思議と寂しさはなかった。むしろ、心が温かく満たされている。
「初めてのお客様が、ソラちゃんでよかった」
「うん! すごく喜んでくれたよね!」
フィーも嬉しそうに飛び回る。
「でも、お代はもらえなかったね〜」
「いいのよ。それより、私の紅茶で誰かが元気になってくれた。それが一番嬉しいわ」
窓の外を見ると、夕日が森を金色に染め始めていた。開店初日は、売り上げゼロ。でも——。
「最高の一日だったわ」
ソラの笑顔、母親の感謝の言葉、そして風の加護。お金では買えない、大切なものをたくさんもらった。
「これが、私のやりたかったこと」
誰かの役に立つ。誰かを笑顔にする。小さなことかもしれないけれど、確実に意味のあること。
城にいた頃は、自分が何の役に立っているのか分からなかった。着飾って、微笑んで、でもそれは全て形だけ。本当の意味で、誰かの心に触れることなんてなかった。
でも今日は違う。
迷子の小さな精霊を、一杯の紅茶で元気にできた。
「明日は、もっと美味しいお茶を淹れられるように練習しなきゃ」
「ボクも手伝う〜! 味見係は任せて!」
「ふふ、それは仕事じゃないでしょう?」
「えへへ〜」
二人で笑い合いながら、閉店の準備をする。使った食器は、例の魔法できれいになるけれど、テーブルを拭いたり、椅子を整えたりするのは自分たちの仕事。
全ての準備を終えて、扉に鍵をかける。
「カランコロン♪ また明日〜♪」
鐘が優しく響いた。
一日目が終わった。お客は一組だけ。しかも、お代はもらえなかった。
普通に考えれば、失敗かもしれない。
でも、アサギの心は希望に満ちていた。
自分の選んだ道は、間違っていない。
そう確信できた、かけがえのない一日だった。
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