第2話「紅茶セットと、始まりの朝」
朝の光が、石の隙間から優しく差し込んでいた。
アサギはゆっくりと目を開ける。一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。見慣れない石の天井、苔の匂い、そして静寂。王城の朝とは何もかもが違う。
「そうだ……私、逃げ出したんだ」
身体を起こすと、驚くほど疲れを感じない。石のベンチで寝たはずなのに、まるで最高級の羽毛ベッドで眠ったかのような心地よさ。首も腰も、どこも痛くない。
窓から外を見ると、ミストが近くの草を食んでいた。朝露に濡れた月毛が、朝日を受けてきらきらと輝いている。
「おはよう、ミスト。よく眠れた?」
馬は顔を上げ、嬉しそうに鼻を鳴らした。
改めて部屋を見回す。昨夜は暗くてよく見えなかったが、朝の光の中で見る遺跡は、思った以上に美しかった。壁の装飾は花と水の流れを表し、床の模様は幾何学的でありながら優雅。かつてここに、高度な文明があったことを物語っている。
そして、棚に並んだティーセット。
「本当に綺麗……」
一つ手に取ってみる。ガラスのように透明な急須は、驚くほど軽い。よく見ると、表面に細かな紋様が刻まれている。花びらが舞い散るような、流れるような模様。光の角度によって、虹色に輝く。
隣の缶を開ける。中の茶葉から、かぐわしい香りが立ち上った。
「すごい……こんな香り、初めて」
深い緑色の茶葉に、金色の粒が散りばめられている。鼻を近づけると、花のような、果実のような、それでいて爽やかな香り。城で飲んでいた最高級の紅茶とも、まるで違う。
喉の渇きを覚え、お湯を探すことにした。
「どこかに、かまどか何かが……」
奥のドアを開けると、そこには予想を超えた光景が広がっていた。
石造りの立派なキッチン。調理台、かまど、棚、そして——。
「泉……!」
部屋の隅から、澄んだ水が湧き出ていた。小さな泉を作り、余った水は細い水路を通って外へ流れていく。水音が心地よい。
恐る恐る手を入れてみる。冷たくて、肌に吸い付くような清らかさ。
「飲んでも大丈夫かしら……」
手ですくって、少し口に含む。
「——!」
まろやかで、ほんのり甘みすら感じる。今まで飲んだどの水より美味しい。魔法の泉、という言葉が頭に浮かんだ。
かまどを見ると、既に薪が組まれている。誰が? いつ? でも今は考えるのをやめよう。火打ち石を探していると、不思議なことが起きた。
かまどに手をかざした瞬間、ひとりでに火がついたのだ。
「えっ?」
驚きながらも、鍋に泉の水を汲み、火にかける。透明な水が、少しずつ温まっていく。
待つ間、棚を探索する。小麦粉、はちみつ、塩、砂糖——基本的な食材が揃っている。しかも、どれも新鮮。まるで昨日仕入れたばかりのよう。
お湯が沸いた。泡がぽこぽこと立ち、湯気が立ち上る。
慎重に急須に茶葉を入れる。分量は——なぜか、自然に手が動いた。まるで、ずっと前からやっていたかのように。
お湯を注ぐと——。
部屋中に、素晴らしい香りが広がった。
「なんて……いい香り」
花園の朝露のような清々しさ、熟した果実のような甘やかさ、そして心を落ち着かせる深い香り。急須の中で、茶葉がゆらゆらと踊る。金色の粒が、きらきらと輝きながら溶けていく。
三分待って、カップに注ぐ。
透き通った金色の紅茶。立ち上る湯気と共に、さらに豊かな香りが鼻をくすぐる。
震える手でカップを持ち上げ、唇に運ぶ。
一口——。
「……っ!」
言葉にならない。
舌の上で広がる複雑な味わい。最初は花のような華やかさ、次に果実の優しい甘み、そして最後にすっきりとした余韻。でも、それだけじゃない。
身体の芯から、温かくなっていく。昨日の疲れ、緊張、不安、恐怖——すべてが紅茶と共に溶けていくような感覚。
「こんな紅茶、初めて……」
もう一口、そしてもう一口。気がつけば、カップは空になっていた。でも、満たされた気持ちでいっぱいだ。
窓の外を眺める。朝日に照らされた森は美しく、鳥たちが楽しそうにさえずっている。ミストものんびりと草を食み、平和な時間が流れている。
「ここを、私の居場所にしよう」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
城には戻れない。いや、戻りたくない。なら、ここで新しい生活を始めればいい。でも、何をすれば——。
手元のティーセットを見つめ、ひらめいた。
「カフェ……そう、カフェを開こう!」
この素晴らしい紅茶を、誰かに飲んでもらいたい。この温かい気持ちを、分かち合いたい。そんな思いが、泉のように湧き上がってくる。
早速、遺跡の探索を再開する。廊下を進むと、いくつもの部屋があった。寝室らしき部屋が三つ、書庫のような部屋、そして——。
「ここは……」
大きな広間。高い天井、大きな窓、そして石のテーブルと椅子がいくつも並んでいる。まるで、大勢で食事をするための場所のよう。
「ここをカフェスペースにしましょう!」
わくわくしながら、キッチンに戻る。カフェを開くなら、お茶だけじゃなくてお菓子も必要だ。
材料を確認する。小麦粉、バター、卵……スコーンなら作れそう。でも——。
「私、お菓子なんて作ったことあったかしら……」
城では全て料理人が作ってくれた。でも、幼い頃、母と一緒にお菓子を作った記憶がかすかにある。
『アサギ、見ていて。バターは冷たいうちに、さくさくと切り込むのよ』
記憶を頼りに、生地作りを始める。ボウルに小麦粉を入れ、冷たいバターを小さく切って加える。
「えっと、こうかしら?」
ナイフでバターを切り込んでいく。粉が飛び散り、顔にかかる。
「きゃっ!」
鏡を見ると、鼻の頭が真っ白。思わず笑ってしまう。
「私、何をしているのかしら」
でも、楽しい。誰に命じられたわけでもなく、自分がしたいからする。こんな自由を感じたのは、いつぶりだろう。
なんとか生地をまとめ、形を整える。不格好だけど、スコーンの形にはなっている。
石窯に入れ、焼き上がりを待つ。だんだんと、甘い香りが漂ってきた。
「いい匂い……」
期待と不安で石窯を開ける。
「わあ!」
少し形は悪いけれど、ちゃんとスコーンになっている。表面はこんがりきつね色。
熱々のスコーンを皿に乗せ、はちみつを添える。そして、新しく淹れた紅茶と一緒にテーブルへ。
恐る恐る、一口かじる。
「……美味しい!」
サクサクの表面と、中のふんわり感。はちみつの甘さが、紅茶の味を引き立てる。プロの味には及ばないけれど、自分で作ったという満足感が最高の調味料だ。
その時だった。
「いい匂い〜!」
突然、甲高い声が響いた。
振り向くと、小さな光の玉がふわふわと浮いていた。よく見ると、その中に手のひらサイズの人の形が見える。
「あ、あなたは……?」
「ボク、フィー! ここに住んでるの! ねえねえ、それ美味しそう! 一口もらってもいい?」
警戒する間もなく、小さな精霊はスコーンの欠片をつまみ上げた。
「もぐもぐ……おいしい〜! ねえ、お姉ちゃん誰? 新しい住人さん?」
金色に光る小さな精霊。大きな瞳はくりくりとして、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「私は、アサギ。昨日ここに来たばかりで……」
「アサギ! いい名前! ねえ、毎日こんな美味しいの作るの?」
「え、ええ……作るつもりよ」
「やった〜! ボク、ずっと一人で寂しかったんだ〜!」
フィーは嬉しそうにくるくると回りながら、ぺちゃくちゃと話し始めた。この遺跡のこと、昔はたくさん人がいたこと、でも長い間誰も来なくて寂しかったこと。
「だから、アサギが来てくれて嬉しい! ねえ、ずっとここにいてくれる?」
純粋な瞳で見つめられ、アサギの心が温かくなる。
「ええ、いるわ。ここで、カフェを開こうと思っているの」
「カフェ! それって、美味しいものがいっぱいあるところ?」
「そうね。紅茶とお菓子を出すお店よ」
「すごーい! ボク、お手伝いする! 看板作りとか、お掃除とか、味見とか!」
最後のは仕事じゃない気がするけれど、フィーの無邪気な喜びように、アサギも笑顔になる。
初めての「お客様」。それが小さな精霊だなんて思いもしなかったけれど。
「フィー、これからよろしくね」
「うん! よろしく〜!」
窓から差し込む朝日が、二人を優しく照らしている。
一人じゃない。もう、一人じゃないんだ。
新しい人生の、本当の始まりだった。
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