鉛の雨を待ちながら

古木しき

第1章 保安官のいない町

 鉄は錆び、旗は褪せ、鐘はもう鳴らない。

 この町では、何かが起きるたび、何も起きなかったふりをするのが礼儀だ。


 風は、来ない。

 来るのは砂だけで、誰の足跡も、罪の重さも、すぐに隠される。

 喉の奥がざらついても、誰も咳払いをしない。音を立てると、生きているように思われるからだ。


 保安官がいなくなったときも、誰も騒がなかった。

 名も知らぬ夜が明けて、空の詰所に朝日が差し込んだだけだった。机の上には、丸めた制帽と、弾の抜かれたリボルバー。

 彼が何を守り、何を守らなかったのか、知ろうとした者はいない。知っても、守れるものなどないと皆わかっていたからだ。


 この町には、正義がいない。

 正しさも、間違いも、風と同じく、方向が定まらない。

 ただ、生き残った者だけが「そういうことだったんだ」と後から語る。

 語った時点で、それが真実になる。


 そうして、今日もまた、一人の男が町に来る。

 帽子の影に顔を沈め、馬の脚にすら名前をつけず、銃を手にしているが、それを使いたくはない顔をしている。

 使わないで済むなら、そちらのほうがずっと楽だ、という顔。


 名前はラファエル・グリム。

 ラフと呼ばれる。

 撃つことより、撃たずに済ませることに、長けた男だ。

 だがこの町で、それが通じるかは、誰にもわからない。

 何しろ、撃たなかった者から先に死ぬのが、ここの流儀だから。


 日が傾きはじめると、町全体が縮こまった。

 馬の鳴き声も、井戸の軋む音も、どこか遠くで聴いているような気がした。

 その静寂に、一拍だけ遅れて混ざる靴音があった。


 エズラ・ヴェイル。

 小さな体で、背中に大きな影を引きずるように歩く。上着のポケットには帳簿とダイス。口元には笑みの線があるが、目の奥には誰かの死に慣れた色がある。


 「やあ、保安官代理さん」と、皮肉たっぷりにラファエルへ。

 「その席、どうせすぐ空くんでしょ?借りとくよ」

 ラファエルは目を動かさず、ただ「誰に言われてここに来た」と訊いた。


「誰にも言われちゃいないさ。町が腐りきる匂いにつられただけ。腐肉に集るのは、ハゲタカだけじゃないんだぜ」

「おまえの匂いの話か?」

「違うね。おまえたち正義面した沈黙どもの話さ」


 モリーが奥からグラスを滑らせる。

「黙って飲んでろ、エズラ」

「黙ってたら、誰かがまた“正しいやつ”を名乗るだろ?」

「町が死ぬときは、誰かがヒーローをやりたがる。死体の山の上でな」


 そのとき、扉が再び開いた。風はないはずだったのに、冷たいものがひとつ、すっと滑り込んでくる。


 クロエ・シン。宿屋の娘。

 黒髪にほこりを払わず、沈黙を武器にした生き方を選んだ女。

 誰の味方でもなく、敵にさえならない。中立という名の真空。

 けれど誰より町を見てきた、「見てしまった」側の人間。


「誰も撃たなかった日の話をしてるの?」

と、クロエが言った。

 全員が一瞬だけ沈黙する。それは、彼女の父親が撃たれて死んだ日。

 誰も銃を抜かなかった。誰も止めなかった。

 だからこそ、その“誰も”が同罪だった。


「撃たないってことが、何もしないって意味だと勘違いしてるうちは、この町は治らない」

 クロエの声には熱も怒りもない。ただ、弾を込めるような静けさだけがあった。


 ラファエルは、もう一度煙草に火をつけた。

 そして心の中で、今夜、誰が最初に死ぬかを考えはじめていた。

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