第7話:絶体絶命と一条の光



長編小説「完迎会 - 残響する最後の言葉 -」


第七話:絶体絶命と一条の光


「……やはり、君だったか、水野恵くん」


氷のように冷たい佐藤の声が、静まり返ったオフィスに響き渡った。恵は、全身の血が逆流するような感覚に襲われ、その場に釘付けになった。暗闇に慣れた目が、佐藤の手元にかすかな光を捉える。それは、金属製のペーパーナイフだった。普段はデスクの上で書類を押さえるために使われているそれが、今は凶器としての不気味な輝きを放っている。


「どうして……ここに……」

恵の声は、か細く震えていた。警備システムをかいくぐり、誰にも気づかれずに潜入したはずだった。


「君の行動は、ここ数日、手に取るように分かっていたよ。あまりにも分かりやすい動きだったからね」

佐藤は、ゆっくりと恵に近づいてくる。その足音一つ一つが、恵の心臓を締め付ける。

「田中くんが、君に何か余計なことを話したようだね。彼には後で、たっぷりとお灸を据えてやらないと」

その言葉には、隠しようもない怒りと残虐性が滲んでいた。


恵は、無意識のうちに一歩後ずさった。背中が冷たい壁にぶつかる。逃げ場はない。

「まさか、こんな夜中に、私のPCを漁りに来るとはね。大胆なことをするものだ」

佐藤は、嘲るように言った。

「何を期待していたんだい?桐島くんを救うための正義の証拠でも見つかるとでも?」


「あなたは……翔太を殺すつもりなんでしょう!あの計画書、全部見ました!」

恐怖を振り払うように、恵は叫んだ。手には、証拠の入ったUSBメモリを固く握りしめている。これを警察に届けさえすれば……。


「ああ、あれか。なかなか良く出来ていただろう?桐島くんが、自ら人生に絶望して命を絶ったように見える、完璧なシナリオだ。彼が死ねば、会社での私の評価はさらに上がり、邪魔な存在も消える。一石二鳥だよ」

佐藤は、悪びれる様子もなく、淡々と語る。その狂気に、恵は戦慄した。


「どうして……どうしてそこまで翔太を憎むの!彼はあなたの同期で、仲間だったはずでしょう!」

「仲間?ハッ、笑わせるな」

佐藤の顔が、憎悪に歪んだ。

「あいつは、いつもそうだ。何もかも簡単に手に入れて、周りの人間を見下して……私がどれだけ努力しても、あいつの才能という一言で片付けられる。私のプライドを、どれだけ踏みにじってきたと思っているんだ!」

積年の恨みが、堰を切ったように溢れ出す。


「だからって、殺すなんて……!」

「これは、彼への餞別だよ。最高の舞台で、彼にふさわしい結末を用意してあげるんだ。『完迎会』、素晴らしい響きだとは思わないかね?」

佐藤は、恍惚とした表情さえ浮かべていた。


恵は、絶望的な状況を理解した。この男は、完全に理性を失っている。話し合いで解決できる相手ではない。

なんとかして、ここから逃げなければ。そして、この証拠を……。


佐藤が、さらに一歩踏み出し、ペーパーナイフを構えた。

「さて、水野くん。君には少し、お仕置きが必要なようだね。余計な詮索は、身を滅ぼすということを、その体で覚えてもらうとしようか」


恵は、咄嗟に身をかがめ、佐藤の足元を狙ってデスクの椅子を蹴り飛ばした。ガタン、と大きな音が響き、椅子が佐藤の足にぶつかる。

「ぐっ……!」

佐藤がわずかに体勢を崩した、その瞬間。


恵は、全速力でドアへと向かって駆け出した。

「逃がすと思うか!」

背後から佐藤の怒声が飛んでくる。


廊下へ飛び出し、通用口を目指す。だが、佐藤もすぐに追いかけてきた。彼の足音は、確実に恵との距離を詰めてくる。

このままでは、追いつかれる。


その時、恵の頭に一つの考えが閃いた。

(そうだ、あれなら……!)


恵は、進路を変え、給湯室へと駆け込んだ。狭い給湯室には、窓もなければ、他に逃げ道もない。袋のネズミだ。

佐藤は、嘲笑を浮かべながら給湯室の入り口に立った。

「賢明な判断とは言えないな、水野くん。ここで、終わりにしてあげよう」


恵は、給湯室の隅に追い詰められた。もう、万事休すかと思われた、その時。

恵は、壁に取り付けられていた火災報知器の赤いボタンを、力一杯叩き割るように押した。


けたたましい警報音が、ビル全体に鳴り響く。

ジリリリリリリリリリリ!


佐藤の顔色が変わった。

「何を……!」

「こうなれば、警備員も、消防もすぐに駆けつけるわ!あなたも、もう逃げられない!」

恵は、息を切らしながらも、毅然とした態度で言い放った。


警報音は、まるで恵の最後の抵抗を鼓舞するかのように、オフィスビル中に鳴り響き続ける。遠くから、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。

佐藤は、一瞬、恵を睨みつけたが、やがて状況を理解したのか、忌々しげに舌打ちをした。

「……覚えていろ、水野恵」

低い声でそれだけ言うと、佐藤は給湯室から飛び出し、恵とは反対方向へと走り去っていった。おそらく、警備員が来る前に、別の出口から逃げるつもりなのだろう。


一人残された恵は、その場にへなへなと座り込んだ。心臓はまだ激しく波打ち、全身の震えが止まらない。

助かった……。本当に、間一髪だった。


やがて、複数の警備員が慌ただしく駆け込んできた。恵は、事情を説明し、握りしめていたUSBメモリを彼らに手渡した。

「ここに……佐藤さんの犯罪の証拠が……」


それは、絶体絶命の状況の中で掴んだ、一条の光だった。

だが、まだ終わったわけではない。佐藤は逃走した。そして、明日は、翔太の「完迎会」当日なのだ。

計画が完全に阻止されたわけではない。


恵は、警備員に保護されながら、夜明け前の冷たい空気を吸い込んだ。

翔太に、この事実を伝えなければ。そして、明日の歓迎会を、何としても止めなければならない。

本当の戦いは、これからなのかもしれない。


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る