第6話

それから、また仕事が三日続いた。体はぼろぼろだった。夏の太陽は俺から体力を奪い去っていくせいで、毎日ベッドに入ると、夢を見る間もなく朝まで一瞬だった。筋肉の付き難いこのひょろい体には、荷役仕事は辛いものだけれど、他に選択肢のない俺には辞めることなどできない。


同僚や上司から罵声や暴力を幾度と加えられたが、それでもなんとか耐えて働いている。


こんな環境でも俺が働き続けられるのは、帰れば食事があり、汗でよごれた体を清めるシャワーが使え、本を読む灯があって、夜ぐっすり寝られるベッドがあるからだった。なんてすばらしいんだろう。辛い仕事から寮へ戻ったときはいつも、俺をこの学園へと推してくれた院長先生に対する感謝の気持ちを覚えずにはいられなかった。


そして俺は三日連続の仕事をしたその翌日、また王子たちがいるんじゃないかと恐れながら、昼食後に図書館へと向かった。


果たして彼らはそこにいた。しかし前回と違うのは、二人だけではなかったということだ。あの嫌味な伯爵家の子息だとか子爵家の子息だとかいった腰巾着どもが一緒だった。


俺の姿を視界にとらえると、彼らはあからさまに嫌悪と侮蔑の表情をその顔に張り付けた。


王子は、彼らが背後に立っているために、その表情の変化に気付いてはいない。


「やぁ、キース。また仕事だったのかい?」

「はい、そうです。殿下」


俺は内心の辟易とした気持ちを隠しながら、努めて普通に答えた。


「頭を下げろ!平民!」

「殿下。平民にそのように気安く話しかけられては他の者に示しがつきません」

「そうですよ。調子に乗って馴れ馴れしくされては、あなたの品位にも関わります。おやめ下さい」


早速取り巻き連中がけたたましく囀り出す。まるで示し合わせたかのような息のぴったり合った騒ぎ方だった。


王子が止めるよう諌めるが聞く耳を持たず、彼らはさらに言い募る。図書館では静かにせねばならないということをあいつらは知らないのか?


俺は彼らの言葉を完全に無視して、王子に軽く目礼すると係の人に借りていた芸術関連の書籍を返却した。


先日借りた氷の魔法に関する本はとても良かった。インスピレーションを与えてくれた。しかし別に借りていた芸術関連の書籍は、内容が専門的に過ぎたために俺にはよほど難しかった。


芸術に全く触れたことのない俺には、書かれていることの意味をほとんど理解できなかったのだ。だから、今日は別のもっと分かりやすそうな本を借りようと思っている。できれば平易な表現の文章で書かれたものか、挿絵の多いものを。もしかしたら絵画や演劇についての本なら挿絵も多く分かりやすいだろうか。詩もいいかもしれない。


そんなことを頭の中で考えていると、後ろから声が掛けられる。


「おや。平民が芸術についての本を読むなんて。内容なんてこれっぽっちも理解できないのではないか?」


いつの間にか俺のいる書架のすぐそばに王子の一団がやってきて、俺を観察していた。手に持つ本を眺めながらそんなことを言った。


「家畜に歌を聞かせても理解できないのと同じだろう。平民がオペラや絵画のすばらしさを理解できるかと聞かれたら、無理だと答えるよ」


そう言って下品にあいつらが笑い合っている。


俺はその言葉を無視して目的の本がありそうな棚まで移動すると、開架図書を物色する。とりあえず目に付いた本を慎重に棚から取り出して中身を素早く確認してみた。


何冊目かの本を手に取り内容を検分していると、静かに近寄って俺の隣に立っていた王子が話しかけてきた。


「名画に見る構図の秘密?光と影の舞台芸術?それに音響効果についての考察……?」


俺は驚いて手に持っていた本を取り落としそうになった。


「驚かせてごめんよ。君の見ている本が気になってしまって」


俺は耳に届いた王子の囁くような声に、心臓の鼓動が早鐘を打ち、何もしゃべれなかった。


「さきほどから色々と手に取っているようだけれど、どんな本を探しているんだい?君が芸術に興味があるなんて知らなかった。僕もね、それなりに自分が芸術というものの信奉者だと自負がある。だからなんだか気になってしまって」

「いえ……、そんな大層な物では」

「謙遜はいらない。芸術に興味のある仲間同士じゃないか。それで?君はどういったものが好きなんだい?舞台?絵画?それとも詩?僕はオペラが好きなんだ。よく行くんだよ。今も新作が公開されているだろう?」


矢継ぎ早に話しかけてくる。


「いえ、本当にそういったものではないのです。その、生憎と私は芸術というものを存じ上げません。平民の私には芸術は触れる機会がほとんどありませんので。オペラも絵画も詩も演劇も何も……。これはちょっと気になっただけなんです」


俺は正直に言う。見栄をはっても碌なことにはならないことを知っている。


「そうか……。早とちりしてしまったようだ。すまない」

「いえ、とんでもありません」

「それでも本を読もうと思ったということは、少なからず興味があるということだろう。もしかしたら、好きになる可能性だってある。一体何故君はこの分野の本に興味を持つようになったんだい?」

「……秘密です」


俺はついそう言ってしまった。


彼の後のほうで、ものすごい形相をしてこちらを睨んでいる金魚のフンたちが気になって、早いところ会話を打ち切りたかったから。二人だけで会話をしているのがそんなに羨ましいのか、腹立たしいのか、お前ら。だったら代わってくれ。


取り巻きどもが気になるということに加えて、もう一つ、俺には早めに会話を打ち切りたい個人的な理由があった。


この調べ物は、結局のところ夏休み明けの魔法演習大会のためだ。王子に勝つという最大の目標のために時間を割いてやっていることで、その倒すべき相手が目の前にいてはやりにくいことこの上無い。


そんな考えを隠しながら、和気あいあいと王子と慣れ合うなど俺にはできなかった。理由はわからないが、無邪気に俺に会話を試みる王子に対して、気持ちを偽って会話を続けるのは精神的に辛いものがあった。


それに、技術を競い合う予定の相手に、魔法大会のためですなどと馬鹿正直に言ってしまっては、ライバルに付け入る隙を与えることになってしまう。勝つためには、手の内は隠し通さねばならないと思った。


「すみません。急いでおりますので……」


そう言い置いて、俺は目に付いた他の本に気を取られた風を装って、さらにいくつかの書籍を棚から取り出して中身を確認していると、隣の王子が全く反応しなくなった。俺の返答に腹を立ててしまったのだろうか?


急に黙りこんでしまった隣が気になって横に視線を向けると、何やら悪戯っぽい表情を浮かべた王子の顔があった。


「面白い。僕に隠し事とは。うん、いいね」


何だ?


そう言って王子が笑った。


「僕はそんな風に言われると余計に気になってしまう性分なんだよ、キース。なんだろう。君は何を秘密にしているんだろう」


無駄に好奇心に火をつけてしまったようだ。面倒くさいことになった。


「いえ、大したことでは……」


事実を言った。


実際大したことではないのだが、俺の言葉は彼の耳に届かなかった。楽しそうに笑みを浮かべてしばし考える風。見ていると、何かに気付いたのだろう、その顔にさらなる笑みが浮かぶ。


「あぁ、分かった!夏休み明けの魔法演習大会のためだね。そうだろう?」


俺をみつめる彼の青い瞳に、居心地の悪さを覚える。


「うんうん。この前は閲覧室で魔法書を読んでいた。前回と今日は芸術関係の書籍。そして、件の大会には、採点項目に芸術性という評価項目があるね。つまり、君は魔法技能演習大会に向けての準備をしており、その手の内を僕に知られたくないと考えている。どうかな?当たっているかい?」


俺の返答も待たず、一人合点がいった様子だ。


俺は彼の顔をぼんやりと見つめていた。そして何かに似ていると感じた。


この表情を別のところで見たことがあった。そして、唐突に思い出す。


これは、王子が今見せている表情は、まさに孤児院のちびたちが何かを成し遂げたり大発見をしたりした時に、俺や院長先生によく見せたあの得意げな表情と全く同じだった。そのことに気付いた。


そうと気付いた俺は笑いそうになり、それをとっさに表情を取り繕ってごまかし取り繕った。そして、答え合わせを待つ王子に向かって神妙な面持ちで答えた。


「ええ、はい。その通りです」

「そうだろう」


王子が大きく頷いて見せた。俺は吹き出しそうになるのを必死で堪える。デミアンが片眉を上げて俺を見つめている。危ない。


「実はそうなのです。魔法大会の採点基準に芸術性があることに、先日私は気づきました。魔法大会には今年初めて出場するので、どういったものなのかをここで調べました。私は芸術に疎いので、正直なところ芸術性というものが具体的に何を意味しているのか分かりません。なので、芸術というものを調べて、少しでも理解し魔法大会に役立てようと思って、ここで関連の書籍に当たっていたという状況です」

「やっぱり!」


王子が嬉しそうな声を上げる。


すると、俺たちのやりとりを聞いていた、どっかの子爵家のボンボンが弱点を見つけたとばかりに、嬉々として口を挟んできた。


「絵の一枚も鑑賞したことがないなんて。野蛮すぎる」


そう言った男に別の男たちが加勢する。


「芸術とは人生に潤いを与えてくれるものだ」

「芸術を解する心を持たずに、どうやって魔法技能演習大会で勝つというのか」

「やれやれ、本当にそうだな。本を読んだだけで芸術を理解したつもりになれるなど、とんだ浅はかさだ」

「まったくだ。平民は出場を辞退した方が恥をかかなくて済むのじゃないかな」


他の連中も呼応して騒ぎ立てる。あほらしい。そう思っていると、王子が口を挟んできた。


「やめたまえ。これ以上僕の友人を侮辱する発言は許さない」


ぴたりと王子の言葉に腰巾着どもが押し黙った。そしてすぐに、今度は俺の悪口を言ったその口で、王子へそれらしい言い訳の言葉を紡ぎながらこっちを憎々し気に見てくる。いや、何故俺を睨む。


王子が図書室で騒がないよう言った。


そして、自分の言葉に押し黙った側近どもに満足したのか、王子が俺に向かって安心させるように一つ頷いて見せた。……いや、別に傷ついてないんだが。


いや、それよりも!


俺はいつお前の友人になったんだ。


先の彼の発言のほうが問題だった。他の貴族連中に聞かれたらと思うと、恐ろしいことだった。そして、自分が取り巻きの一人になった姿を想像してみる。無理だ。勘弁してくれ。


俺は、内心色々王子に対して反論したい気持ちだったが、藪蛇を恐れてその友人発言には言及しないことにした。沈黙はこの場合最適解のように思われた。


「王子殿下。皆さんが仰るように、恥ずかしい話ですが、私はこれまで芸術というものに一切触れてきませんでした。しかし芸術性というものを正しく理解もせずに、魔法大会に出ることは失礼なことではないかと気付きました。なので、せめてどういうものかだけでも理解したいと思ったのです。図書館には幸運にも、芸術の理解を助けてくれる書物がたくさんあります。その道の大家と呼ばれる人たちの批評だったり芸術作品の鑑賞の仕方だったり有名な絵画の写し絵だったり。そういった本を読んで、少しでも芸術というものを理解できたらと思っただけなのです。私には、芸術に触れる場へ行く余裕がありませんので」


俺は正直に言う。本当は実際に観劇に行ってみたり、画廊に足を運んだりしたいが、俺には敷居が高すぎた。それに、そんな金の余裕も時間もない。だから、せめて本で勉強しようと思ったのだ。


「なるほど。素晴らしい心掛けだと思うよ」


王子は感心したというように、繰り返し頷いている。


「ありがとうございます。そうだ。王子殿下」

「何だい?」


王子が小首を傾げてこちらを見ている。それは実に無邪気な振る舞いだった。


「芸術に精通していらっしゃるご様子ですので、どの書籍を読んだら効率よく芸術について理解できるでしょうか。ご教授賜りましたら幸甚の至りです」


俺は気づくと自分から会話の端緒を提供してしまっていた。どうしてしまったのか。


「あぁ、そうだね……」


王子が一人考え込む風。いや、そんなに悩まなくていい!これはただの思いつきというか時間稼ぎというか会話のつなぎでしかないんだから、知らないなら知らないでも全く問題がない。逆に、変におすすめなんてされた日には、感想を伝えるためにまた王子に会う必要がでてきてしまう。それは嫌だ。


俺は自分の先の発言を後悔した。


「いや、すまない。芸術を見るのは好きなのだが、書籍となると僕では役者不足だ」


俺はその言葉に安堵の吐息をこっそりと漏らす。助かった。


「なぁデミアン。君はどうだい?」


ん?


この場にいる者たちの視線が全て、侯爵家子息へと集まった。


「お恥ずかしながら、私も芸術関連の書籍につきましてはあまり存じ上げません。公開された舞台や絵画の批評は会報や新聞などで読んだりしたことはあるのだが、専門の書籍となると、ついぞ手に取ったことが無かった。力になれなくてすまない、キース」

「あ、いえ」


まさか高位貴族であるデミアンから謝罪の言葉を貰うとは思っていなかった俺は動揺してしまう。


「そうか。デミアンでも知らないか。そうなると……」

「あの、殿下。すみません。大丈夫です。司書もおりますので、その、後でそちらに尋ねてみようと思います。不躾にお願いしてしまい申し訳ありません。その手伝おうとしてくださるお気持ちだけで十分です。本当にありがとうございました」


俺はそう言って頭を下げる。よし。これで会話は終わりだ。そう思った。不用意な言葉のせいでどうなることかと思ったが、上手く会話を終わらせることができてほっとする。


けれど、事態は思わぬ方向へ転がり始めることになった。


「そうだ!」


俺が関連書籍を尋ねるという大義名分を持ってこの場を離れられるという幸運に浮足立ち、そのまま歩き出そうとした瞬間、隣から声を掛けられた。


「キース。僕が君をオペラや画廊へ連れて行ってあげよう」


何ておっしゃいました?


「芸術はこんな本を読んでもダメだ。分かった気になるだけで、芸術の本質なんて理解できようはずもない。芸術とは実際に見て聞いて感じることで、その本質にやっと触れることができる代物なんだ。デミアン、彼を連れて出かけてもいいだろうか?」

「ええ。なんの問題もありません」

「だそうだ。よし、キース。明日早速出かけようじゃないか。美術館やオペラを見に行こう。いや、観劇のほうがいいだろうか」


独りぶつぶつ呟きながら、勝手にこれからの予定を真剣に悩み始めている。何を言い出すんだコイツは!


「いえ、無理ですよ……。えっと、ご迷惑になります」


ほら、金魚のフンどもが恐ろしい顔でこっちをみているじゃないか。


「迷惑ではない」


彼らの気持ちを知ってか知らずか、王子は言葉を続ける。


「いえ、できません。私にはそんな余裕はありませんし、第一明日からまた仕事の予定が入っています。ご一緒はできません」

「あぁ、そうか……。君には働かなければいけない理由があるんだったな」


よし、いける!穏便に断れそうだぞ。


「はい。ですので、お申し出は大変嬉しいのですが……」

「いや、待ってくれ」


今度こそ歩き出そうとした俺に、待ったがかかる。


「そうだ。僕の付き人として、同行してもらうのはどうだろうか?それならば、芸術を鑑賞しに出かけると言うのも仕事のうちということにできる。なぁ、デミアン。可能だろうか?」

「はい。可能といえば可能です」


は?おいばかやめろ。お前は王子の暴走を止める役目じゃないのか。


「それはどういう……?」


俺は恐る恐る尋ねる。


「言葉通りの意味さ。さぁ決まりだ、キース。明日からの仕事はキャンセルだ。なぜなら君は明日から僕と一緒に芸術鑑賞に行く。というわけで、今から僕の側近の一人だ」

「意味がよくわかりません」

「簡単なことだよ。僕の側近になれば、給料が出る。僕の行動を補佐するという仕事だ。そうすれば、君はもうあくせくと働く必要がなくなるだろう」

「殿下!?」

「殿下!何を仰ってるんですか!平民を重用するなど!そのような振る舞いは許されることではありません!お考え直しください」

「そうです!社交界で要らぬ噂が立ちます!」

「どうかおやめ下さい!」


突如ぎゃーぎゃーと騒ぎ出した彼らの声が図書館に響いて騒がしかった。


俺は彼らの俺に対する無礼な発言に腹が立ったが、この時ばかりは金魚のフンたちの意見に完全に同意だった。実際冗談ではないのだ。


腰巾着ども、もっと言ってやれ、という気持ちだった。


「いや、僕は今決めた。それに、以前君たちは彼をずぶ濡れにさせてしまった件があるじゃないか。その謝罪がなされていない。それは僕の監督不行き届きとも言えるだろう?その埋め合わせだと思って欲しい」


腰巾着四人組が苦虫を噛み潰したような顔をした。俺も渋い顔をした。デミアンは無表情だった。


「キース。君にとっても悪い話ではないだろう?私に付き合って色々と見て回れるし、芸術を知りたいという君の希望も叶えられる。そして何より、報酬として君に相応の金銭も渡せる。普通に働くよりもずっと楽で短時間に稼げる。君にとっては、メリットしかないのだ。断る理由もないだろう?」

「いえ、貰えません。そんな資格は平民である私にはありません」

「遠慮しなくていいんだ、キース。これは僕から君へ迷惑をかけてしまったことへの補填だ。それに、貴い者が貧しい者に施しをするのも、善行として教会が奨励していることでもある。君は何の憂いもなく僕のこの提案に乗れば良いんだよ」


彼はまるでそれが全くの名案であるかのように嬉々として話した。


その瞬間、今日彼に対して積み上がり始めていた好感が一気に崩れ去る音がした。頭の芯が冷えていく感じがする。


コイツは何を言っているんだ?


そう思った。


王子の俺に対する思いやりという名の傲慢さに、怒りが沸々と湧いてくる。堪えきれないほどの……。こいつも所詮こんなものなんだ。


デミアンが俺の様子の変化に真っ先に気づいた。慌てて馬鹿王子に何事かを言おうとしたが、口を開くのは俺のほうが早かった。


「結構です」


言葉遣いに気を配れたのが奇跡だった。俺は完全に頭に血が昇っていた。


「貧しい者に施し?ありがたくて涙がでそうです」


俺の怒りが遅れて王子に伝わったらしい。はっとした顔をしてこっちを見ている。


「馬鹿にしないでください!貧しい者?私はあなたにとって何なのですか?貴方にとって私は、施しを受けなければいけないような可哀想な存在なのですか?同い年のあなたが恵んでくれる報酬を私に受け取れと?それが、確かにほとんど今まで会話もないような仲ではありましたが、それでもこれまで一年以上も同じクラスで一緒に勉強して来た相手に向かって言うことですか?平民なら侮辱していいと、下に見ていいとそうお思いなのですね?そこにいるあなたの側近方と同様に?対等な関係ではなく、自分よりも劣った哀れな存在だと、貴方は私にそう言いたいのですね?」


俺は一息に捲し立てた。言葉が流れるように零れ落ちていく。


「いや、キース。待ってくれ。違う。誤解だ」

「いいえ、違いません」


俺は王子の取り繕おうとする言葉を即座に切って捨てる。


「そう思っているから、そんな発言が出るんですよ。友人?私が友人ですか?対等だと思ってもいない相手が?貴方は私を無意識に馬鹿にしているんですよ。可哀想な存在だと思っている。だから、そんなことが軽々しく言えるんです」

「き、貴様!殿下に向かってなんて無礼な!」

「そうだぞ!訂正しろ!」

「下賤の者がそんな生意気な口をきいてただで済むと思うなよ!学園に掛け合って退学にしてやるからな!」


再び取り巻き連中が騒ぎだした。ここぞとばかりに俺の発言の不敬をあげつらう。


「君たち、少し黙っていてくれないか」


王子が静かな、しかしわずかに怒気を孕んだ声を出した。場が一瞬凍り付いたように静かになった。図書館にいる誰もがこちらの動向を窺うように耳を澄ましている。


俺は彼のわずかに漏れた怒りに驚いて何も言えなかった。


「そうか。君はそう感じるのか……。済まなかった、キース」


そう、覇気のない声で王子が言った。


その言葉には、後悔の色が滲んでいる。王子が俺に向けて頭を下げた。誰かがひゅっと息を吸い込む音がした。


それを見て俺はさらに動揺する。あり得ない光景だった。


「僕はただ、労働には正当な対価をと思っただけなんだ。君を侮辱しようだとか施しをしようだとか、そう思っていたわけではなかったんだ。なかったのだが……、済まない。僕が浅慮だった。君の誇りや気持ちをいたずらに傷つけてしまう言動だった」


俺は無言で彼を見ていた。


「僕は……」


王子が言葉を一度切る。呼吸を整えるように。


「僕が言いたかったことは、君とこの夏休みを楽しみたいと、それだけだったんだ。僕が君に報酬を支払えば、君は労働から解放されて、一緒に時間を過ごせると思ったんだ。しかし、それは僕の思い上がりだった。僕の我儘だった。君が望みもしないことを僕は押し付けようとしてしまっていた。僕は君には金が必要だと思った。君は労働で時間がないというから、僕の供として行動すれば、時間に余裕もでき対価として君は金が手に入る。それはお互いにとって良い考えだと思ったんだ。すまない。考えてみれば本当に酷い侮辱だった。どうか、愚かな僕を許して欲しい」


王子が俺に向かってまた深々と頭を下げた。それは、形だけの謝罪ではなかった。その姿勢の美しさが、本当の謝罪であることを表していた。


俺は驚きに反応できない。まさか、王族がこんなに簡単に自らの非を認めて謝ってくるとは想像だにしていなかったから。


真摯なその態度に俺の怒りが急速にしぼんでいくのを感じた。彼は冷静だった。怒鳴った俺が馬鹿みたいじゃないか……。


「私からも謝罪します。キース。どうか、今は少しだけその怒りを収めてはくれないだろうか」


デミアンが王子の傍で一緒に頭を下げる。


いやいやいや。やめてくれよ……。


俺は二人をじっと見つめる。逡巡。周囲を窺うと、数少ない利用者がこっちを見てひそひそと話をしている。腰巾着どもが、あっけにとられた表情で謝罪する王子と侯爵子息を見ている。


「いや、えと、こちらこそ、怒鳴ったりして申し訳ありませんでした。謝罪いたします。どうか、顔を上げてください……」


なんとかそれだけの言葉を絞り出すが、二人はまだ顔を上げないままだった。お手上げだ。どうして、こんな俺なんかに、そんな謝罪をしてくるのか。意味が分からない。


「顔を上げてください。どうか。もう私は怒っていません」

「それは、私の謝罪を受け入れてくれるということだろうか?」


王子が下を向いたまま言う。


「ええ、はい。もう謝罪は必要ありません。お二人の気持ちは、たしかにいただきました。これで十分です。ですので、どうかこれ以上は……」


大人げなく怒鳴ってしまった自分が小さい人間のように思われた。


俺の言葉にしばらく時間をあけて、やっと二人が面を上げてくれた。ほっとする。


「キース。謝罪を受け入れてくれてありがとう。本当に申し訳なかった」

「……もう謝罪は十分です。私を見下しての発言ではなかったのだと分かりました。私なんかのために心を砕いてくださった、その優しさに感謝します」

「あぁ、今後は気をつけると約束しよう」

「お願いします。私は確かに平民ですし、時間にもお金にも余裕がない人間で、貴方たちからみたらあくせく小金を稼ぐ哀れな人間に見えることもあると思いますが、私たちのようなものは、日々を必死に生きています。その生きざまを土足で踏みつけるような発言はお控えいただければ嬉しく思います」

「分かった。済まなかった。あぁ、僕は本当にただ君と友人になれたらと思っただけなんだ。君に謝罪として何か……。いや、よそう。君の誇りと寛大な心に敬意を。ありがとう。今日はもうこれで失礼するよ。僕は自分が恥ずかしい。行こうデミアン。みんな」


そう言って、王子が優雅に一礼すると踵を返して図書館を出て行こうとする。


デミアンがそれに続いて一礼する。金魚のフンどもが、俺を睨みつけながらその後に続いて歩きだす。


その去り際の姿すら美しかった。


「あ、あの……」


何故か、王子の後ろ姿を見送っていると、勝手に口から言葉が零れ落ちた。自分で自分に驚愕する。俺は何を言わんとしている?


王子たちが振り返る。


人々の視線が俺に集まるのが分かった。


「お金はもらえませんが、その、よければ、オペラや美術館の鑑賞をご一緒にいかがですか。もちろん費用は私も出します。ええと、その、友人として……。私はそういうところへ行ったことが一度もないので、作法とか、鑑賞の仕方だとか、そういったことを全く知らないので、一人では他の人たちに迷惑をかけてしまいそうです。何も知らずに失礼な行動をして恥をかいてしまいそうで、思ってはいても行動に移せないでいたんです。この夏休みの間に行きたいとは思っていたんです。それで、あー、良く知っている方の案内があれば、私でも、その、楽しめるんじゃないかと、思って……」


言っているうちに言葉がしりすぼみに小さくなる。何を言っているんだ俺は……。


しかし、俺の言葉が小さくなっていくのとは裏腹に、王子の顔が明るく輝いていく。


王子が大股にこちらへ歩いてくる。そして俺の手を掴む。


「もちろん!是非ともよろしく頼むよ!」


彼の屈託のない声が耳に届いた。

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