第17話 澱み凪の浜

 潮騒の音が聞こえ、潮の香りが鼻をくすぐる。

 紬と九耀は灰色の砂浜を歩いていた。


「海だ……」


 紬が感嘆の声を漏らした。海を見るのは初めてだった。霧のせいで水平線は霞んで見えなかったが、打ち寄せる波の音が果てしない広がりを感じさせた。


 しかし、浜辺を歩き続けるうち、痛ましい光景に出くわした。


 波打ち際に無数の魚の死骸が打ち上げられ、異臭を放っていた。大小様々な魚が泡を吹き、まるで嘆きの霧に飲み込まれたかのように生気を失って横たわっている。毒に侵された魚を啄んだ鳥の死肉も砂浜に転がっていた。


「なんてこと……」


 紬は思わず口元を覆った。


「リアム博士と出会ったのが鋼鉄の残骸都市ならば、ここは差し詰め、澱み凪の浜といったところだろうな」


 九耀は霧に煙った海と魚の死骸を見つめながら言った。


 生あるものは嘆きの霧に侵され、海もまた汚染されていた。


 岸壁に朽ちた木造の船が係留されていた。


 船の傍らにくたびれた老人が佇んでいた。額には深い皺が刻まれている。粗末な漁師服は潮風に晒され、色褪せている。老人は手に投網を持ち、死んだ魚を茫然と見つめていた。


「こんにちは」


 紬が声をかけると、老人が振り返った。


「旅の人かい。こんなところまで珍しい」


「漁師さんですか」


「ああ、そうだ。この海でずっと漁師をやってきた。昔は豊かな漁場だったんだがね。今じゃ見ての通りさ」


 老人の声は掠れていた。変わり果ててしまった海に痛恨の念を抱いているようだ。


「いつから、こんなことに?」


 九耀が訊ねると、老人は打ち上げられた魚の死骸に目をやった。


「もう何年もだ。嘆きの霧が深くなってから魚がめっきり取れなくなった。海まで霧に侵されて魚が大量に死んでいく。わずかに残った魚も、網にかかる頃には毒に侵されて使い物にならねえ」


 老いた漁師はは力なく膝をつき、肩を震わせた。


「昔はこの海でいくらでも魚が取れたもんだ。食うにも困らねえ、良い海だったんだがな。嘆きの霧はもう晴れないのかね。世界はこのまま終わっちまうのかな」


 老人は朽ちた漁船を寂しそうに見上げた。船体はひび割れ、帆は破れて、今にも崩れ落ちそうだった。


「あの……、アストラルムまで船を出すことは出来ますか」


 娘のために鉄の心臓を試作していたリアム博士が故郷の研究都市アストラルムまで帰り着けるか、他人事ながら気になっていた。


 紬が興味本位で尋ねると、老人はまるで耳を疑うかのように、ゆっくりと顔を上げた。その目は憐れむような色を帯びていた。


「アストラルムだと? 冗談を言いなさんな。こんな霧の中で船を出せるわけがない」


「そうですか。でもアストラルムから来た方に会いましたよ」


「そうかい。そりゃあ、ずいぶんと命知らずな輩だな」


 老いた漁師は乾いた笑いを漏らした。


「この霧だ。目隠しで操船するようなものだ。岩場を見逃せば座礁して沈没する。船同士で衝突でもしてみろ。たちまち難破するぞ。それに燃料はどうする? 嘆きの霧はガソリンだって腐らせるんだ。船はまともに動きゃしないさ」


 現実を見ろ、と言わんばかりに老人は朽ちた漁船を指差した。


 燃料タンクは錆びつき、エンジンルームから異臭が漂っている。


「昔は遠い国へも船を出せたもんだがね。今じゃあ、漁に出ることさえできやしない。この霧は何から何まで腐らせちまうんだ」


 老人は口惜しそうに呟いた。


「海に出れない漁師になんの価値があるってんだ」


 諦念を抱いた老いた漁師のために、いったいなにができるだろうか。


 紬にできることといえば、ただ霧を祓うことだけだ。


 咄嗟に紬は浜辺に跪き、大量死した魚の死骸に手をかざした。


 ひときわ腐敗が進んだ魚は吐き気を催すような異臭を放ち、原型を留めないほどにぐずぐずに崩れかけていた。


「何をするつもりだ、紬」

「霧を、祓う……」


 九耀が血相を変えたが、紬は構わず霧を吸い込み続けた。


「やめておけ。命ある状態ならともかく、もう腐敗している。すでに手遅れだ」


「でも……」


「ここまで霧の毒が回っていたら、どんなに中和しても食べられはしないよ。霧を祓うだけ無駄だ。そこまでにしておけ」


 紬が意地になって霧を祓おうとするのを九耀がやんわりと止めた。


 中途半端に霧を祓ったせいで、腐敗した魚の外見にはまるで変化がなかった。

 海辺に漂う異臭がわずかに和らいだ気もしたが、ただの気のせいかもしれない。


「驚いた。お嬢ちゃん、あんた霧祓いかい」

「ええ、まあ……」


 霧を祓えば、どうにか魚は口にできる。まだまだ諦めたものじゃない、とでも思ってくれたら良かったが、あまりに微妙な結果過ぎて、明日を生きる希望になりやしない。


 霧の毒に侵された魚の一匹や二匹を浄化したところで、世界は何も変わりはしない。


 何の役にも立てない無力さがまたしても襲ってきた。


「あの崖の向こうに霧祓いが住んでいたな。まだ生きていればだが」

「ごめんなさい。なんのお役にも立てなくて」

「気にせんでくれ。この海で久しぶりに人を見かけた。それだけで十分だよ」


 老人と別れ、紬は波打ち際をとぼとぼと歩く。

 魚の腐臭がずっと鼻にこびりついて離れなかった。

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