11.ダンクルベール
シャルロットが会いたがっているとだけ、マレンツィオに言われた。長らく、娘たちの世話を頼んでいたので、その礼もしたかった。
シャルロットは、やつれていた。歳は同じぐらいだったはずだが、白髪も多くなり、老婆のようにも感じられた。
何があったのかは、わからなかった。
「パトリシアさまから」
口調は、はっきりとしていた。
「ご自身が犯人であることを、伺っておりました」
「シャルロットさまが?」
「ダンクルベールさまが“湖面の月”と向き合う姿に耐えられなかった。だからパトリシアさまに、ダンクルベールさまを止めるよう、お願いをしに行ったのです。その際に、告げられました」
目が合う。悲しみだけが、そこにあった。
「ダンクルベールさまの推理方針が正しいこと。つまりはパトリシアさまが犯人であること。ダンクルベールさまに、犯人であることを突き止めてもらいたいと。ダンクルベールさまを殺すことで一緒になれるからと。だからどうか、たどり着くまでは止めないでほしいと。そして」
苦しげに、一拍を置いて。
「そしてご自身が、人ではない存在であることを」
そうして、シャルロットは瞼を深く閉じた。
「私には、どうすればいいのかがわかりませんでした。人ですもの。人でなしの考えなんか、及びもつきません。そしてどう考えても、パトリシアさまもまた、人でしたもの」
震えながら、それでもしっかりとシャルロットは綴っていった。
どう考えても人だった。そうだろう。特に仲睦まじかったシャルロットにとっては、そうとしか思えなかったはずだ。
「ありがとうと。たとえ自分が人でなくても、心優しく接してくれたと。それが何より嬉しかったと。心から、姉と思って慕っていると。それは未来永劫、変わらぬ思いだからと」
「シャルロットさま。どうか、よくお聞き下さい」
その手を取り、ダンクルベールはゆっくりと、目を合わせた。
「あれは、人でした」
「本当ですか?」
「はい。パトリシア・ドゥ・ボドリエールは、死亡しました。俺が、撃ち殺しました。だからあれは、人でした」
言葉に、シャルロットは呆けたようになっていた。
「俺は、シャルロットさまの大事なお友だちを奪いました。俺も、俺の愛した人を殺しました。それでもひとつ、心を
「んだか。死んでまったんすか。パトリシアさま。
「はい。確かに、死にました。狂いに狂った、ひとりの人間でした」
「
そこまでで、大粒のものがこぼれはじめた。
「
「何もかもが、今更になってしまいました」
「んだな。今更だっきゃな。もっと早くに気付いてやれればいがったんだべな。そうせば皆、幸せさなれたんだべな」
俯き、嗚咽するのを、ダンクルベールはただ見ることしかできなかった。
「
「娘たちのお世話をしていただき、本当にありがとうございました。シャルロットさまがよろしければ、またお願いしてもよろしいでしょうか?」
落ち着いてから、子どもたちのことについて、感謝を伝えた。そうすると、シャルロットは微笑んでくれた。
「いつでも、どうぞ」
「ありがとうございます。そして本当に、申し訳ございません」
「なんもなんも」
笑顔で、そう言ってくれた。
きっと、いつものシャルロットの笑顔。そう、信じ込むことにした。
「死んだことにしました」
廊下で待っていたマレンツィオに、それだけ告げた。
「すまんな。その方が、シャルロットのためにもなるだろう。生きていて、本懐も遂げれなかったとなれば、あれはより自分を責めるかもしれない」
「そうですよね。シャルロットさまは、お優しい方ですから」
「俺もかなり早い段階で、シャルロットから聞かされていた」
マレンツィオは、悲しげな表情だった。
「信じられなかったが、信じるしかなかった。シャルロットも、お前のことも」
「信じてくれて、ありがとうございました。そして、ご迷惑をおかけしました」
「いいんだ。すべて、シャルロットのためだから」
そこまで言って、顔を覆ってしまった。
「あれの友だちの、ためだから」
巨体が、震えていた。わなわなと。
「ようやく、ようやく終われるよお、ダンクルベール。つらかったよお。女房、何回も泣かせてよお。つらい思いばかりさせてよお。お前の友だちにまで、大変な目に遭わせちまってよお」
「課長、本当に、気を揉ませてしまいました。ありがとうございました」
「いいんだ。お前やコンスタン長官がいなかったら、俺も駄目になっちまってたからよ。それももう、終わった。ああ、もう誰のことも心配しなくていいんだ。もう、あとはシャルロットのことだけ考えればいいんだ。俺は、俺はよお」
「そうですね。どうか、シャルロットさまのおそばにいてあげて下さい。本当に、本当にありがとうございました」
ずっと、声を上げて泣いていた。このひとの、はじめて見る姿だった。
ダンクルベールはただ、感謝を伝え続けた。
「お疲れ様でした、主任」
庁舎で待っていたのは、ビゴーとコンスタンだった。
「先輩も、お疲れ様でした」
「いいえ。今回ばかりは、何の役にも立てなかった。あんたにも、あのひとにも」
そう言ってビゴーは、つらそうに瞼を閉じた。
「人じゃなかった。そういうのも、あるんですね」
「はじめて経験することです。誰しもが」
「人じゃないから、そういうやり方しか導き出せなかった。あんたを愛するのに、殺すという手段しか取れなかった。本当にそうなんでしょうかね?あたしゃあ、しばらく考えることにします」
「あれを、わかってやるんですか?」
「だって、メタモーフの頃からですもの」
瞼を閉じたまま、にこりと。
「誰かがわかってやらないと、寂しいでしょう?」
言われて、思わず笑っていた。
「やっぱり、先輩ですね」
「時間はかかると思いますが、やってみますよ」
「どうか、お願いします」
そう言って頭を下げた。
「ウトマンとヴィルピン、使えるな」
コンスタン。肩を組んできた。
「本部に連れてこよう。ウトマンはお前と、ヴィルピンはマレさんと組ませる。機密保持の観点からも、それがいいだろうさ」
「そうですね。ふたりともきっと、伸びるやつです」
「お前のためでもあるんだぜ、リュシアン」
神妙な顔つきだった。
「大変な仕事の後、ぽっかり空いちまうと、心もぽっかり空いちまうからな。ウトマン育てるって仕事で、心を忙しくしなよ。そうやってお前、しっかりしていくんだぜ」
「やっぱり、アドルフさまですね。敵いません」
「ゆっくりでいい。そうやって、日常に戻ろうぜ」
それだけ言って、コンスタンは離れた。
「今から、行くんだろう?」
「はい。行ってきます」
「気をつけなよ。それだけだ」
背中のまま、手を振ってくれた。
馬車に乗り込む。先客がいたが、道中は、ひと言も交わさなかった。
片道、およそ三時間。そうして着いたのは第三監獄だった。
馬車を降りる時、一緒に行くかどうかだけ、尋ねた。
やっぱりいい。そのひと言だけだった。
最奥の独房。
刑務官に頼んで、中に入れてもらうことにした。心配されたが、大丈夫とだけ告げた。
黒いカーテンの奥。それは独房の中、何かを綴っていた。
「随分と、大人しくしているものだな」
「まあね。もう、やることは終わったから」
シェラドゥルーガ。
「それは?」
「新作。生活費、稼がないとね。偽名での出版なら大丈夫だって各所に確認済み。そうそう。ここ、ちょっと手狭なんだよね。これから資料とかも集めたいから、隣がいないようなら、ぶち抜きにしてもらおっかな」
「刑務局の連中に、言うだけ言っておくよ」
口調は砕けていた。これがシェラドゥルーガとしてのことばなのかもしれない。かえって親しみやすくて、今のダンクルベールには気楽だった。
「杖、似合うじゃん。男前になった」
「なくても歩けるがね。ある方が疲れない」
「
促され、ソファに座った。
紅茶を淹れてくれた。香りから、蜂蜜と生姜を溶かし込んでいることはわかった。
並んで座った女のかたち。あのときと同じ
これが、あのシェラドゥルーガ。あの、恐ろしい化け物。
持ってきたものを渡してやった。
リリアーヌと作ったタルトタタン。リリアーヌには、友だちに持っていくとだけ、伝えてあった。
「ふたりとも、はじめて作るものだから、味は期待しないでくれ」
「大丈夫。甘くて、美味しい」
笑ったようだった。目線はずっと、合わせてくれなかった。
「めしは、食べれているか?」
「作って食べてる。お前は大丈夫?」
「こうやって、リリィとキティが手伝ってくれているよ。アニーも近所だから、よく手伝いに来てくれている。シャルロットさまもね」
「そっか。それならよかった」
そう言ったあと、シェラドゥルーガは俯いた。
「大変だったね」
しばらくしてから、ぽつりと。
「ああ、大変だった」
「今更ながら、後悔している。最初から、全部打ち明けてしまえばよかったってさ」
「そうか。でもまあ、もう済んだ話だよ」
「本当は、やめようとも思ったんだ」
そのあたりから、声が震えはじめた。
「リリィに、お
そこまで言って、シェラドゥルーガはダンクルベールの顔を見上げてきた。
「キティがさ、妹が欲しいって言ってたじゃん?あれ、私じゃ駄目なんだ。私、人じゃないから、お前との子どもを成すことができないから」
泣いていた。大粒の涙を流していた。
「あのふたりのお
「そんなことを、考えさせてしまったか」
「そんなことじゃない。それは私にとって、とても大きなことなんだ。お前を愛するうえで、お前たち家族を愛するうえで。子どものお願いひとつ叶えてやれない母親なんて、私にはできない。それはきっと、キティだけじゃなく、リリィも、お前をも悲しませてしまうから」
「それでも、俺は」
きっと考えなしに、手はその体を抱きとめていた。
「俺は、お前を愛している」
「リュシアン?」
「ずっとお前を疑っていた。ずっと、パトリシア・ドゥ・ボドリエールを疑い続けていた。メタモーフよりも、ずっと前から。ガンズビュールだけではなく、どこかで何かが起きる度、必ずお前の影がちらついていた。奇妙な女、得体の知れない女だって」
流れ続ける涙。ハンカチーフで、拭った。
パトリシアのときより、どうしてかその顔は、いくらか幼く感じた。
「得体の知れない女が、得体の知れない化け物だった。それがわかった。これでようやく、疑わずに済む。これでようやく、お前の愛に応えることができる」
本心を。伝えたかったことを、ようやく。
「これでようやく、お前を愛することができる」
「私は、人じゃないのに?」
「人でなくったっていい。お前が望むかたちの、あのこたちのお
「私は、お前を傷つけた。あのこたちを、母親のいない子どもにしてしまった。お前たち家族のこれからを、大変な道のりにしてしまった。そして。そしてお前に、三人目の娘の亡骸を見せてしまった」
「それでも構わない。お前は、俺を愛してくれた」
「それでも私は、お前を愛してもいいのか?」
「いくらでも。今まで通り、今まで以上でも」
「ありがとう、リュシアン。愛している」
「俺も、ありがとう。愛している」
そうやって、重ねていた。自然とそうしていた。
温かさが、心地よかった。
「新作、待ってる。リリィが好きなんだ。おませさんでね、あいつ」
「うん。じゃあ、頑張る」
笑顔。子どものような、無垢なもの。
立ち上がる。向かい合って。
「じゃあな。また来るよ、シェラドゥルーガ」
「じゃあね。またおいで、我が愛しき人」
そうやって、また重ねた。
鉄格子を出て、静かに黒いカーテンを閉めた。少しして、小さな嗚咽だけが聞こえた。
そこから離れるのが、つらかった。
「すみません、お待たせしました」
馬車を開け、まずはそれだけ告げた。
セルヴァン。ワインの瓶を
あのあと、セルヴァンはこうやって、相当に荒れていた。
恋い焦がれた人が犯人だったこと。そして人ではないことを、未だ受け入れることができないのだろう。
それでも目からは、燃え盛るような逞しさを感じた。
「大人しくしていますよ。早速、何か書くって」
「そうか。それは楽しみだな」
「本件について、セルヴァン局次殿には本当にご迷惑を」
「貴様でいい」
瓶を煽りながら、ぼそりと。
「俺、貴様でいい。私も貴様を、貴様と呼ぶ」
言われたことに、きょとんとしてしまった。
「私は、大尉ですよ?局次殿は大佐です。上官を、それも同期でもないひとを、そう呼ぶのは」
「いいんだ」
笑顔だった。どこか寂しげな。
「友だちが欲しいんだ。田舎者だから、少なくってさ」
少しだけ、吹き出してしまった。つられてセルヴァンも笑った。
そうやってふたり、げらげら笑った。
「変なやつだ。田舎って、どこの生まれだよ?」
「フォンブリューヌのロジェール男爵領。山奥の山奥の山奥だ。言ってなかったっけか?」
「初耳だよ。いいところじゃないか。俺、家族旅行で行ったぞ?風光明媚で、めしもうまい」
「めしっていっても、肉とチーズと芋しかないだろうさ。ど田舎だよ。だぁれも、外には出ようとしないでやんの」
「俺とアドルフさまだって田舎だよ。東の港町。もう少し南に行けば、あの南東だぞ」
「いいじゃないか。南東なら、それこそ私も新婚旅行で行ったよ。あんす、がんす、ごぜあんすだ。マレンツィオ課長のご内儀さまがそうだろうさ」
「そうだな。南東の海沿い、
くだらない話。笑いながら、続けていた。
「貴様には、人に見せられないような姿を見せちまった。それなのに、大佐殿だの局次殿だの呼ばれたくない。それだったらいっそ、友だちになってほしいんだ。友だちになら、みっともない姿を晒したって、気にならないだろう?」
「ナイーブなやつだな、貴様も」
「貴様だってナイーブだったろう?途中から腹、括って、泰然としやがって。憎たらしいったらありゃしない」
「貴様のおかげだよ。貴様やマレンツィオ課長たちのな。それこそ、友だちや頼れる人にしか見せられないような姿ばかりを晒しちまった。それなのに、貴官だの何だの呼ばれると、よそよそしくなっちまうかね」
「へへ、それならお互い様だな」
眼は真っ赤で、隈もひどい。服もだらしなく、なにより酒臭い。
それでも友だちなら、許せる姿だった。
「とにかく、酒は控えなさい。失恋したなら、新しい恋を見つけることだ。ご内儀がいるとはいえ、恋するぐらいなら許してくれるだろうさ」
「はいはい。恋路ひとつ実った先輩の言うことは聞いときますよ。ああくそ、腹が立つ。なんであいつ、生きてるんだよ」
「化け物だから仕方ないだろう。俺だって、これからどうすればいいか、わからないんだ。人でなしなんぞ、愛したことも接したこともない。これからすべてが未経験だよ」
「恋路ってのは、未経験だから面白いだろうさ」
吹き出してしまった。酔っ払いの分際で、いいことを言い出したのだから、つい面白くなってしまった。
「当分は、飲んでは吐いてだ。全部、空っぽになるまでやってやる。おい、貴様。紙巻くれよ。持ってるだろう?」
「持ってるけど、吸えるのか?」
「吸えないよ。でも、未経験だから面白いだろ?」
屈託のない笑みだった。
一本渡して、火を点けてやる。その時に息を吸うこと。それだけ教えた。
盛大に、むせた。また笑ってしまった。途中、あまりにむせすぎて、戻すのではないかと心配になったぐらいだった。
そうやってふたり、げらげら笑った。ふたりとも、気が済むまで。
「死ぬなよ?ダンクルベール。貴様が死ねば、私は貴様と呼ぶ相手が、いなくなる」
セルヴァンが笑顔のまま、そんなことを言った。
「お互い様だな。同期でもないのに貴様と呼べる相手なんて、貴様ぐらいしか思いつかない」
だからダンクルベールも、笑顔で本心を言い返した。
大変だった。それでも疑いを棄て、愛する人と友だちを得た。
だから、それでいい。それでいいことにしよう。そうすることにした。
(おわり)
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