9.ダンクルベール

 招待状が届いた。手紙を出して、二日ほどだった。


 子どもたちを寝かしつけてから、ダンクルベールは油合羽あぶらがっぱを羽織った。そうして、パーカッション・リボルバーの手入れをした。

 コンスタンから貰ってから、十年ほどが経つ。もはや最新式とは呼べないが、まだまだ動く。何発も撃ち、泥や雨、血に晒された。それでも頑丈であり、駆動部に油を挿せば、あと何十年とも使えるだろう。

 それぞれの薬室に、火薬を入れていく。鉛玉をひとつずつあてがい、銃身下のレバーを引いて、しっかりと押し込んでいく。そうしたら、その上に固形の油脂で蓋をするようにする。発砲時の暴発を塞ぐ役目である。

 換えの弾倉シリンダーは、ふたつ。どんな化け物であれ、この程度あれば、きっと無力化できる。


「オーブリー」

 エチエンヌが、廊下で待っていた。

「未だに、信じられないの」

「俺だってそうさ。それでも、信じてやるしかない」

「本当に、行くのね?」

「ああ。娘たちを、頼む」

 そうして、頬にベーゼを交わした。


 馬車の中には、セルヴァンがいた。

「今一度、聞くが」

 どこか、迷いのある声だった。

「なにかの間違いではないのだな?」

「はい。確証があります」

「そうか」

 苦悶に近い表情。

「私は、夫人を愛している」

「やはり、そうでしょうね」

「そうであってほしくないという、気持ちがある。それでも貴官を守り、支えると心に決めた。未だに、迷いがある」

 顔を覆いながら、それでもしっかりと綴っていく。


「私が迷っている間に、終わらせてきてくれ」

「必ず、終わらせます。どんな結末であれ」

「頼む、ダンクルベール」

「わかりました、セルヴァン本部長」

 交わした言葉は、それぐらいだった。


 誰しもが、きっと信じられないだろう。そして未だに、それだけは確証がない。

 ただ確実に、パトリシアが犯人である。それだけは、誓ってよかった。


 邸宅前。馬車を降り、御者にひと声、かけた。

「遂に決戦だな、旦那」

「俺で駄目ならお前。お前で駄目なら、この屋敷に火をかけろ。何としてでも、ここから逃がすな」

「死なずに済むなら、それが一番だけどね」

「まったくだ」

 そうやって、それと拳を突き合わせた。


 訪い。ノック、三回。

「あら、リュシアンじゃない」

 屈託のない笑みで、パトリシアは迎えてくれた。

「この度はお招きいただいて、ありがとうございます」

「まさか貴方がたどり着いてくださるとは、思ってもみなかったわ。さあ、合言葉を」


 そして、告げた。

 そのとき、それの瞳が、別の色になったような気がした。


 応接間の方に通された。

 緑の瓶。それと、ちょっとしたさかな。それだけである。

 いわゆる、ふたりきりの晩餐会ではない。


「ごめんなさいね。お友だちに返信を書いていたところだったの」


 言葉に、あらためて卓の上を見やった。

 書きかけの手紙とペンが置いてあった。


「そうですか。大事な時間にお邪魔をしてしまって」

「いいえ。招いたのは、わたくしですもの」

 そう言ったパトリシアの顔は、どこか寂しげだった。


「嫁ぐんですって」

 グラスに酌をしてくれながら、パトリシアは言った。

「わたくしの。詩のお披露目会にも何度も来てくれた。可愛い妹のような存在」

「それはそれは」

「早口で、熱っぽくてね。いつも言ってくれる。ありがとう。愛しているって」

 言いながら。その瞼は、いくらか重そうになっていた。


「ニコラ・ペルグラン家」


 言葉は、沈んでいた。

 そのひと言で、何とはなしに心情は理解できた。


「男を産み、男として育て上げる。それだけ覚悟を決めていた」

 きっと意識せず、注がれたものに口をつけていた。苦みが、強く感じられる。


 独立戦争の英雄、ニコラ・ペルグラン。そしてその血族。

 ダンクルベールは詳しくはないが、小耳に挟む程度には聞いていた。


 どれもこれも、あまりいい話ではなかった。


「わたくしの愛しい妹たち。みんな、男の皮を被った人形のようなもののところに嫁いでいく。大変でしょうに。何より、つらいでしょうに。でもわたくしは、その門出を祝うようなことしかしてあげられない。そしてその姿を見送ることしか」

「それでいいと思います。誰でも、それしかしてやれないでしょうし」

 軽くため息を入れ、その美貌から目を逸らした。それでパトリシアも、卓上のそれらを片付けはじめた。


「それじゃ、乾杯」

 そうやって、グラスをあわせた。

 時間を使って、ゆっくりと味わう。


 意は、決した。


「ようやく、犯人がわかりましてね」

「きっと、その話だと思った」


「犯人は、シェラドゥルーガです」


 その言葉に、パトリシアはにこやかに頷いた。


「お伽噺の悪魔でしょう?それ」

「ええ、それが実在する。実在し、人の生命いのちを食い散らかしている。そう考えれば、すべての辻褄が合うのです。合わせる必要がないから」

「そうね。すべて、シェラドゥルーガ。そのひと言で片付けられる。でもそれは、捜査官としては一番によくない結論じゃないの?」

「勿論。だからそのシェラドゥルーガが誰か、という話になります」

 目を見やる。紫の差した瞳。すべてを見透かすもの。


「合言葉は、“シェラドゥルーガは、生きている”でした」

 反応はない。


「なぜ、それを選んだか。あるいはなぜ、それを貴女が知っているのか、という疑問が浮かびました」

「そうね、当然の疑問だと思うわ」

「貴女自身が、シェラドゥルーガならば」

 瞳の紫が、広がったような気がした。

「生きていることを知っている。自分自身だから。そしてそれを合言葉にした。“悪戯いたずら”の合言葉は、次回作のヒント、あるいはキーワードであることが多い。ならばこの惨劇こそが、貴女の最新作にあたる」

「その結末は、どう締めくくるつもりだと思う?」

「俺を殺すこと」

「わたくしは、貴方を愛している」

「愛しているからこそ」

 ゆっくり、立ち上がった。


「これまでの犠牲者もそうです。貴方はそれぞれを愛していた。それぞれは貴女を愛していた。だから殺した。殺して、標本にした。珍しい昆虫をピンで留めるように。愛してくれた人、愛した人を、殺して晒した。あれはすべて、愛情表現です」

「少なくとも、ひとりは違う」

「司法警察局局長、ルグエン。死体の損壊が激しかった。四肢だけではなく、舌部の損失。頭蓋骨の陥没。内蔵部位の、いくつかの欠落。あれは怒り。誰かをけなされたから、怒りに任せて引き千切った。だからぼろぼろになっている。吊るしもしないで、投げ捨てている」

「なぜ、そうされた?」

の晩餐会の最中に、貴女の尻尾を踏んづけた。ルグエン局長の書架には、“湖面の月”が残されていた。他の犠牲者の書架からは見つかっていない、それが」

 パトリシアも、すっと立ち上がった。そうやって、向き合う。


「エルトゥールル寄りの豪商議員。言語学者。地理学者。そしてエルトゥールルから亡命してきた貴族。彼らならば、天体ではなく、ゆかりのあるエルトゥールルの地名にたどり着ける。俺の血の故郷である、北東エルトゥールルの砂漠と大河の名前に」

「そして、すべての謎を解き明かした貴方がここに来るのを待つ」

「俺を、最後の標本にするために」

 見上げてくる。美しい顔立ち。


 間違いない。これは、パトリシア・ドゥ・ボドリエール。

 そして。


「神妙にすればそれでよし」

「そうでないなら?」

「ここでかばねを晒すことになる」



「素晴らしい」

 にこりと。


「実に素晴らしい思考実験でしたわ、リュシアン」

「おそれいります」

 こちらも破顔してみせた。

 席に促される。素直にそれを受け入れ、腰を下ろした。


「そう。次はね、サイコスリラーを書こうと思っていたの。シェラドゥルーガを題材にした猟奇殺人。でもわたくしの名義だとあまりに作風が違いすぎるから、別名義でやろっかなって。それで」

「ああ、なるほど。でも今回の事件があるから、出版社はいやがるんじゃないですか?」

「そうなのよねえ。だけれども、普通のホラーにしても面白くないから、どうしよっかなって」

 ふたり、笑い合いながら、グラスを掲げた。


「すっかり、立ち直ったわね。リュシアン」

「貴女のおかげです。それと、皆の。マレンツィオ課長やシャルロットさま。セルヴァン本部長にアニー。アドルフさまにビゴー先輩。ここの友だちも、俺を本気で助けてくれました」

「そう、それならよかった。あとはこの事件だけね」

「はい。でも結局、わからないことだらけですよ。いつまでかかるのだか」

「犯人ももうきっと、殺すのに飽きちゃったんじゃない?ゆっくり時間をかけて、取り組みましょう。わたくしも、協力いたしますわ」

「ありがとうございます、夫人」

 笑って、そう答えた。


 そうやって、いくつか世間話をした。子どものこと。これからのこと。そして、これまでのこと。

 心の底から、楽しかった。このひとと接することが。



 飲み物を取り替えると言って、パトリシアは席を立った。


 応接室の書架のひとつ。

 入ってすぐに、違和感があったところ。ダンクルベールはそこに向かい、それを確かめた。


 並んであった。“湖面の月”が、四冊。


 めくってみる。“ダー川”、“サーヒン山”、“レオパ・ヤタール”。

 やはり、これは。



 衝撃。

 左の、脇腹。


「大当たり」

 声は、弾んでいた。



 顔だけ、振り向く。女。パトリシア、いや。


 髪が、あかい。



 左足が、震えだした。そのまま、へたり込む。


「どうして脇腹を刺されたのに、左足が麻痺するのかって?」

 結った髪をほどく。炎のように、あかい髪が燃え広がった。


「そういう、ちょっとした“悪戯いたずら”」


 かがみ込み、体を抱きとめられる。


 瞳。宝石のように煌々と輝く、あかい瞳。

 パトリシアでは、ない。


「ようやく、たどり着いてくれた。我が愛しき人。我が愛しき、オーブリー・リュシアン」

 喜びと、いくらかの悲しみが混じった声。



「それこそは、人にあらざる人でなし」

 刺された脇腹。短剣が、根本まで。



「そう。シェラドゥルーガは、生きている」



 胸元に忍ばせた、パーカッション・リボルバー。それに、手を。


「駄ぁ目」

 叫んでいた。短剣を、えぐられた。痛みで、動けなくなる。


 そうやって抱きとめられながら、息だけが、荒くなっていく。


「貴方ならきっと、たどり着いてくれると信じていた。わたくしの愛を受け止め、心を癒やし、信じてくれると思っていた。それがようやく叶った。ああ、長かった」

 蠱惑的な声。脳髄が、蕩けそうになるほどに。

「これで終われる。これでわたくしはオーブリー・リュシアンになれる。貴方と一緒になれるの。ねえ、リュシアン。それってとっても素敵なことじゃない?」

「リリィと、キティには」

「大丈夫。あのこたちも一緒。わたくしという生命いのちの中で、貴方たち家族は、わたくしと共に生き続ける。だから何にも心配いらない」

 短剣。今、きっと引き抜かれた。

 感覚が、薄い。


「温かなものに包まれる。死ではなく、新しいかたちに。わたくしという、新しい生命いのちに。それはきっと眠りのようなもの。この真夏の夜に見る、短くも長い夢。ああ、素敵。そうは思わない?リュシアン」

「お前の、好き勝手には、させない」

「そうよね。でももう、これで全部おしまい。パトリシア・ドゥ・ボドリエールも、オーブリー・リュシアンも。また新しい生命いのちとして、共に生きましょう。そう、ずっと、ずっと」

 唇が近づいてくる。美しい顔。ずっと、見ていたいぐらいに。



「すべて、貴方の思うがままに。我が愛しき人」


 いやだ。


 渾身の力。振り絞った。動いた。体。いくらかだけでもいい。

 持ってくれ、俺。


 左手。それの背中に回った。全力で抱きしめる。

 そうして、近づけて。迫りくる顔。

 それをかわして、首筋。


「リュシアン?」

 口は、開いた。



 絶叫。

 腕の中で脈打ち、のたうち回る体。口の中に広がる、血と肉の味。

 届いている、頸動脈。もっと、もっと力を。


 リリィ、キティ。そして、マリィ。俺に、力を。


「くそたわけがっ」


 突き放された。転がる。


 横たわっていた。息が、荒い。

 それでもまだ、体は動く。


「やってくれるじゃないか、ダンクルベール」

 そのあかは、首元を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。

「よくも、リュシアン。よくも、ダンクルベール。の愛を、このを」


 右手。動くか。動く。よし。

 胸元から、パーカッション・リボルバー。引き抜けた。親指を、撃鉄に。

 何とか腹ばいになって、パーカッション・リボルバーを両手で保持した。

 これで、行ける。


 閃光。姿が、よろめいた。

 爆音。また、後ずさるように。


 心臓に、三発目。それでも、まだ動く。


「ダンクルベールっ」

 けもののような声。迫ってくる。

 四発目が、その足に。それで、もつれる。それでも立ち上がって、まだ。

 五発目は、外れた。あと一発。


「友だちの、仇だ」

 頼む、アキャール。


 轟音。見えた。

 それの額に、大穴が空いていた。


 どさりと、それは倒れた。ぴくりとも動かない。


 死んだのか。パトリシア。そして、シェラドゥルーガ。



「リュシアン。おい、リュシアンっ」

 どかどかと、何人かが入ってきた。

「もう大丈夫だ。よくやった」

「アドルフさま、それに課長。ああ、でも」

「喋るんじゃない。今、動かすからな」


 体がどうなっているかは、もうわからなかった。ただ、頭は動いていた。


 まだだ。まだ、終わっていない。シェラドゥルーガは、きっと。

 シェラドゥルーガは、生きている。


(つづく)

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